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呪術臨界点 -年上夫を呪い殺すための基礎研究-  作者: 冬至 春化
7章

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051:古道をゆく 7


 車両には見知った軍の紋章が刻印されている。

「閣下、」

 囁いて、リンナは立ち上がろうと地面に腕をついた。手首を生暖かいものが伝っている。吹き飛ばされたときに枝に引っかけたか、左肩に深い裂傷が走っていた。


 咄嗟に悲鳴を上げかけ、口を手で塞ぐ。

『……修復、および痛覚の遮断』

 口の端で呟き、無事な右手で頬に触れた。左腕が使えるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだ。心臓が暴れ回る音が、うるさいほどに響いている。


「アルラス」

 樹皮のささくれを手のひらで感じながら、リンナはゆっくりと立ち上がった。よろめき歩み出る。

(閣下が、迎えにきてくれた)

 安堵と歓喜が胸を満たす。


 戦車はゆっくりと道へ降りてくるところだった。砲撃は思いのほか規模が小さいようで、覚悟したほどの被害は出ていないように見えた。

 リンナは足を引きずりながら戦車の正面へ進み出た。

 高熱の風が頬をなぶり、白く戻した髪が激しくはためく。


 アルラスが見ている。確証もないのに、リンナはそう確信していた。

「閣下、私です。エディリンナです! 私は無事です」

 はっきりと告げ、戦車正面のカメラと思しき反射をひたと見据える。首を反らすほどに大きな車両は、沈黙したまま動かない。


「迎えに来てくれた、んですよね?」

 そう言って手を広げた瞬間、リンナの身体は不随意に横へ跳んだ。直後、戦車が火を吹いて、数秒前まで立っていた位置をえぐり取る。


 混乱し、地面に這いつくばったまま周囲を見た。後ろを振り返ったとき、それを見た。

 地面に転がった頭部が、こちらに向かって口を必死に動かしている。台座から外れ、空気が送られない声帯は音を発することができていない。


 博士が、僅かな息だけで、避けろと呪文を唱えたのだと理解した。

 互いに乾いた土の上に転がったまま、はっきりと視線が重なるのを認識する。博士はこちらを見ていた。白い髪が砂にまみれ、頬に血が伝っている。


 大きく見開かれた瞳を見た。琥珀のような目だった。

 ――逃げなさい。


 色のない唇が動く。命令を読み取った瞬間、リンナの四肢は勝手に走り出していた。

 林道をがむしゃらに走りながら、リンナは混乱を隠しきれないでいた。

 集落が攻撃されている。必ずアルラスが関与している。彼が采配を握っているのに、自分を攻撃するはずがない。


 息せき切って駆け戻った集落は酷い惨状だった。家々は柱一本残さず消し飛び、川の両岸に並べられていた岩が消し飛んだせいで、水が川沿いの階段を流れ下っている。


 夕暮れの赤々とした空を背景に、その光景は悪夢そのものの様相を呈していた。

(どうして、こんな……)

 リンナは木陰で立ち竦み、破壊されてゆく集落の姿を呆然と眺めた。


 この村は山間の斜面沿いに設けられている。戦車が縦横無尽に走り回ることのできる立地ではない。そう思った直後、足元の斜面を下ったところにある畑を踏み荒らして、巨大な戦車が飛び出してくる。

 いったいどれほどの数の兵器が投入されているのだ。リンナは息を殺して草の中にかがみ込むと、周囲を見回した。


「助けて……!」

 か細い悲鳴が耳に入って、リンナは弾かれたように振り返った。

 畑のそば、辛うじて原型を留める石積みの塀の影から、つい昨日話をした子どもたちの顔が覗いていた。怯えた表情で身を寄せ合い、うち二人は、顔全体にべったりと血糊がついている。


 怯えて泣いている子どもたちと目が合った瞬間、心臓が一度おおきく跳ねた。

 戦車が唸りを上げた。砲身の奥で赤い光が灯るのが見えた。次の砲撃がどれだけの大きさか分からない。このままでは子どもたちに被害が出る可能性がある。


 リンナは体ごと戦車へ向き直った。立ち位置を目で測って確信する。――ここから飛び降りれば、呪術は通る!

 地面に手をついて、リンナは一息で茂みの中から飛び出した。

『硬直!』

 砲台の反対側へ躍り出て、考えるより先に、操縦席があると思しき方向へ指をさす。が、戦車は停止しない。


(どうして!?)

 人が操縦していない? 自動で対象を認識して攻撃を行っている?


 脳裏をよぎるのは、ヘレックが制作した自動水やり装置である。どうせ相手は動かない植物なんだから、対象の位置を認識する機能なんて必要ないというヘレックの主張に、アルラスは否やを唱えた。

 彼が本当に作りたかったのはお花に水をやる装置ではなかったのだ。

 戦車がゆっくりとこちらを振り返った。


(この戦車に、呪術は効果がない)

 そう悟った瞬間、血の気が引いた。

「……逃げて!」

 叫ぶが、子どもたちは足が竦んだ様子で動けないらしい。どのみち子どもだけで逃げろと言ったって、どこへ行けば良いかも分からないだろう。



 リンナは一呼吸で決断すると、身を翻した。林内へと駆け込んだのは賭けだったが、戦車の向きは狙い通りこちらを追う。

 盛り上がった木の根を踏み越え、畑を囲む柵に足を取られながら、林床に生い茂る下草をかき分けて、リンナは森の中を突き進む。背後からは、戦車の砲台が回る音が聞こえていた。


 背後から大きな出力で砲撃を受ければ、どれだけ距離を取っても同じことである。

 行く手に、森林施業用の物置があった。大きく息を吸うと、リンナは横っ飛びに物置の影に隠れる。

 弾む息を懸命に整えながら座り込み、胸に手を当てて囁いた。


『……以下の作業は、対象の身体に異常が発生した場合すぐに停止する』

 生き物に大規模な操作を行う際の定型文である。


『術の解除条件は手を二回叩くこと。解除後、対象の身体の時刻を現実の時刻に変更する』

 博物館で警備員にかけられていた呪術。死の淵にいるイニャを生きながらえさせた呪文。あのときとは真逆の効果の呪文だ。


 目を閉じて、物置の壁に背を押し当てたまま、自分の心臓の音を聞いていた。

 いつか必ず止まる拍動に耳を傾けていた。

『その他のすべての身体機能の速度を、現実の二十倍に変更』


 瞼を上げれば、青々とした葉が、目と鼻の先の空中で止まっている。

 じっと見つめていれば、ゆっくりと波打つような弧を描いて落ちてゆく。

 リンナは緩慢な仕草で立ち上がった。物置から小ぶりの斧を取り出すと、日の当たる林の中へと歩み出る。


 世界が止まっているように見えた。


 何もかもが無音であった。辺りに立ちこめる煙や砂埃が、その形を保ったまま少しずつ流れている。

 佇立する木々を挟んで、リンナは戦車と相対した。


(世界が一秒進む間に、私の身体は二十秒進む)

 周りからは、自分が二十倍の速さで動いているように見えるはずだ。


 ひとつ深呼吸をしたのち、リンナは腕を振って走り出した。


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