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呪術臨界点 -年上夫を呪い殺すための基礎研究-  作者: 冬至 春化
6章

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044:歴史の足音 10


 アルラスの決定をもって、一斉攻撃の計画は本格的に動き出した。


 会議は長引き、ほうほうの体でレイテーク城へ戻ったときには、時刻は既に明け方前だった。

 自室の転移装置から這い出して、部屋の中央で立ち尽くす。


 誰もがすっかり寝入っている時間帯である。物音はひとつもない。

 もう指先ひとつだって動かしたくないはずなのに、心とは裏腹に身体は健康そのもので動き出す。部屋を出ると、暗い廊下を亡霊のように歩いた。


 リンナはレピテと一緒に旧都で買い物でもしたんだろうか。自由に動かせる金は十分に与えているつもりだが、あれでいて意外と倹約家だから、余らせてばかりのようだ。


(夜には戻ると言っていたのに、待たせてしまっただろうか)

 壁に手をついて、気がつけばリンナの部屋の前まで来ていた。耳を澄ましてみるが、しんと静まりかえっている。


 そっと、弱い手つきでノックをしてみた。もしかしたら、いまにも待ち構えていたリンナが笑顔で飛び出してくるかもしれない。

 錯覚を見たのは一瞬のことで、瞬きをすれば音のしない暗い廊下が伸びている。


 リンナはぐっすり眠っているようだ。眠りの深いひとだから、ちょっとやそっとじゃ起きてこないだろうし、起こしたら可哀想だ。


 せめて寝顔だけでも覗けないだろうかと思ったが、扉は施錠されていた。わざわざ予備の鍵を取ってくるほどの用事じゃないと思いつつ、落胆は隠せなかった。


 深々とため息をつくと、リンナの部屋を離れて、ゆらゆらとした足取りであてどもなく歩く。いつしか外に出ていた。

 明け方を間近に控えて、空は一層青く暗闇に沈んでいる。低い位置に星が瞬き、月はいやに白々と光っていた。

 朝靄が立ちこめている。


 そこら中苔むして、石畳もほとんど剥がれた空き地を横切った。かつてはここが王の拝謁に用いられていた広場で、建国記念の催しや戴冠式のときなどには歩くことも難しいほど民衆が集まってくる空間だった。今や見る影もない。


 顎を上げて、一段高い舞台を一瞥する。勢いをつければ簡単によじ登ることができる高さである。

 王都にある新しい城では、王族などが市民の前に姿を現すときは三階の高さにあるバルコニーを使用するきまりになっている。規則ができた理由はもちろんただひとつだ。


 舞台に上がって目を閉じれば、今でもあのときの光景が瞼の裏に蘇る。厳かな式典の静けさも、割れるような喝采も、緊張した兄の横顔も思い出せる。


 兄との関係は決して円満ではなかった。

 兄も優れた魔術師ではあったが、弟である自分の方が卓越していたし、それは誰もが認めるところだった。

 兄はいつでもこちらを脅威だと思っていたし、こちらは自分だけが危険な戦場に派遣されることに鬱屈した感情があった。けれど同時に、互いに相手の境遇に対して同情もあったと思う。


 それなりの年になれば、わだかまりも完全に解けたはずだ。でもその日はついぞ訪れなかった。


(兄上は俺をこんな身体にしたことを引け目に思うと同時に、不死の呪いにまつわる騒動を引き起こした俺を恨んだし、さぞや恐ろしく感じただろう)


 群衆の中から人影が飛び出す。誰より早く走り出し、兄の前に身を投げだした、あの一瞬。


 その瞬間のことが、どうしても思い出せない。呪術師の顔を絶対に見たはずなのに、まるで靄がかかったように覚えていないのだ。


 呪術師は、顔を見られてはならないの? リンナが囁いた声が脳裏をよぎる。

 今なお続く不死者の脅威の発端となった、あの一秒のことが、分からない。

 濃霧は額や指先で露を結び、服はひんやりと湿る。森のざわめきとフクロウの鳴き声を聞きながら、アルラスは心持ち顎を上げて目を閉じた。


 呪術師はどうして顔を見られないような服を着ていたのだろう。

 どうせ処刑されるのに、どうして人の記憶を消す必要があったのだろう。

 すべての音が遠ざかる。


 リンナが指を立てて語る声が、遠く聞こえた。――記憶消去には重大な欠陥があります。


(忘却の呪いをかけるときの目印となった事象が、もう一度再現されたら、記憶が戻ることがある)


 ……不可能だ。もう何年経ったと思っている? 二百七年だ。あのときの呪術師は既に処刑されたし、当時のことを覚えている人間は寿命で死に絶えている。

 ため息をついて目を開く。わずかに白い呼気が鼻先に立ち上る。


 首を回し、もやに包まれた広場を見回した。崩れた柱の影が、まるで人影のように見えて不気味だ。

 ロガスが幼い頃、ここが元々何の場所かも知らずに駆け回っていたことがあった。縁起が悪いからこんなところに近寄るな、と咄嗟に怒鳴りつけて、泣かせてしまった。

(あのときは、可哀想なことをした)

 それでも、どうしても、自分にとってここは忌まわしい思い出の場所なのだ。


 ため息をついて踵を返す。と、居間の方向に明かりがついているのを見咎めて目を丸くする。ここまで来るときには気付かなかったが、誰かが起きているらしい。


 早足で歩き出そうとした――そのとき、不吉な予感がした。


 本能が足を動かした。大きく一歩踏み出し、腕を伸ばす。

 一秒遅れて、霧の中から白い人影が飛び出し、肉迫する。

 息を呑む。その音が間抜けなほど鮮明に聞こえる。


(呪術師だ)


 足元まで覆う真っ白なローブのなかから、白い腕がゆらりと覗くのが、やけにゆっくりと見えた。自分が銃を抜き放ち、安全装置を解除する動きも、奇妙に遅く感じられた。


 指先に引き金が触れる。


 女の白い手がひらめいた。見えない球体を腕全体で撫で下ろすような、しなやかで優雅な動きだった。と、揃えられた五指が、一転かたく強ばると、鞭を打つように空を裂く。


 呪術を使おうとしていると気付いた瞬間、全身が沸騰したように熱くなった。

「近づくな!」

 声を荒げて怒鳴る。刹那、思考の片隅で怪訝な声が呟く。……どうして今、俺は、これを女だと思った?


 女が大きく踏み出した拍子に、目深に被ったフードが落ちる。長い白髪が零れ落ちる。

 彼女は仮面を着けていた。ふたつくり抜かれた穴の中から、琥珀色の瞳がこちらを正確無比に見据えている。


 強烈な既視感が、稲妻のように全身を貫いた。



『またいつか』と、断頭台で呪術師が囁く。

『次の私で』



(これは、いつの記憶だ?)

 目の前の景色が二重になる。

(俺は、これと同じことを、前に経験している)


 それがいつのことか、分からない。

 響き渡った銃声は遠雷のように広がり、それから幾度となく城壁にこだました。


 ……銃火器は必要に迫られて生み出された。呪術師の撃退の基本は簡単だ。彼ら彼女らの近く、呪術の通る範囲内に入らないこと。

 距離を保ったまま、素早く、誰でも呪術師を殺すことができるように、アルラスが自分で考案し、実用化まで先導した。


 そしていま、手の中にあるこの武器は、本来の目的を過たず果たしたのだ。


 二発の銃弾は、片方は仮面を掠め、もう一発は彼女の胸を貫いた。

 仮面が砕け、呪術師の素顔が露わになる。その顔を見た瞬間、激しい頭痛が襲い、アルラスは顔を歪めた。

 甲高い耳鳴りが思考を塗り潰す。


 民衆の歓声が潮騒のように辺りを満たす。兄が緊張の面持ちで周囲を見回す。そのとき、人だかりの中から矢のように飛び出した影があった。


 咄嗟に走り出していた。儀仗兵が不審な影に気付くより早く身を投げ出す。


 あぶない、兄上――と、上擦った声で手を伸ばした。あの瞬間のことを、思い出した。


 アルラスは指をさして絶叫した。

「この顔だ……二百年前、俺に死の呪いをかけたのは、こいつだ!」


 真ん丸に見開かれたひとみが、こちらを見た。驚いたような、怯えたような眼差しが、アルラスを射貫いていた。白い髪が扇のように広がる。


 湖を挟んだ反対の稜線に光点が滲んだ。曙光が朝の薄雲を貫いて、放射状の光線となって城の壁面を照らし出す。


 女の顔に白い光が射した。

 冷や水を頭から浴びせられたように、獰猛な敵意が断ち切られた。心臓が拍を飛ばした。


 丸い額、輝く双眸、小生意気な唇と、柔らかく赤みの差した頬が白日の下に晒される。


 小さな身体は銃弾を受けて仰け反り、仰向けに倒れてゆく。呆気に取られたように胸に手をやり、唇を開く。


「閣下、」

 呟いたその顔を見紛うはずもない。



「――リンナ?」



 銃声の残響が消えた頃、女はゆっくりと地面へ倒れ込んだ。

 音はしなかった。灰が地面のそばで舞い上がった。人ひとり分の肉体がまるで煙のように消え失せた。服が地面に落ちる。


「え?」

 呆然と呟く。

 武器を取り落とし、一歩踏み出す。その膝に力が入らず、前のめりに崩れ落ちる。


「リンナ?」

 手を伸ばす。細かな灰が指に触れた。その粒子すら、見る見るうちに風に攫われて消えてゆく。


「いまのはリンナだった」

 地面に這いつくばって呻いた。

 どういうことだ、と呟く。答えは既に分かっている。


「……俺が殺した、のか?」

 震える両手を見下ろした。


「俺が、リンナを、殺した……?」

 指先一本たりとも動かせなかった。


 視線は地面の上の塵から微動だにしないまま、アルラスは転がっていた銃を手に取った。銃口を自分に向けて引き金を引く。


 肉体を貫いて、背後に弾丸が転がる。傷口は一秒も経たずに塞がる。それなのに、全身が千々に引き裂かれるようだった。


 ああ、と言葉にならない声が漏れる。

 これが不死の呪いなのだ。

 どれだけ叫んでも、どれだけの銃弾を体に撃ち込んでも、何も変わらない。死なない。永遠に終わらない。


 朝日が辺りを焼き尽くさんばかりに広がってゆく。




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