029:新年のこと 2
「……さま、」
閉じた瞼ごしに明るい光が射している。
「奥方さま、あのっ」
せっかく寝ていたところを揺すられ、リンナは目を閉じたまま片腕を出して布団を押さえた。
と、その手の甲をはたかれる。
「起きろ、こら!」
「うう……」
鼻先まで被っていた布団をがばりと剥がされて、リンナは眉を寄せて呻いた。
「もうちょっと」
「駄目だ」
「やめ……触んないでってば」
「起きなさい。今日が何の日か分かっているのか?」
何の日? ちっとも思い当たる節がない。
だいたい、こっちだって起きる意思はあるのだ。問題はどうにも目が開かないことで……。
「旦那様……わたし、分かっちゃいました」
レピテの声がした。真剣な口調で告げる。
「いま奥方さまに必要なのはひとつです! ずばり、おはようのチュ」
「絶対に駄目!」
拳三つほどは背が浮いた。勢いよくベッドから跳ね起きると、リンナは寝間着を手早く整えた。
片手を挙げて、努めてしっかりとした口調で告げる。
「お目覚めのキッスは不要です。ご覧の通り、完璧な目覚めですからね」
毅然と宣言したリンナに、アルラスとレピテはそろって微妙な顔をした。
いきなり訪れた危機に、心臓がばくばくと跳ねていた。リンナは胸を撫で下ろしながら息をつく。
(あぶない……閣下の記憶を封じるトリガーとしてうっかりチュってしちゃったから、絶対に唇を許すわけにはいかないんだったわ)
レピテにはあとで適当に言い聞かせておこうと決意して、リンナはいそいそと髪を整えた。
「……まあ、起きたならそれで良い」
腕を組んで、アルラスが特大のため息をつく。改めて見てみると、普段と違って、随分ぱりっとした格好である。髪には櫛目が通っており、まるで来客があるみたいな雰囲気だ。
リンナは曖昧に首を傾げた。
「今日って、何か予定がありましたっけ?」
また何か忘れていただろうか? 嫌な予感がして、へらりと媚びるような笑顔を浮かべる。
視線を向けた先で、アルラスの顔が激昂寸前まで赤くなった。
(……まずい)
レピテが両手で口を塞ぎ、様子を見に来たヘレックはアルラスの顔を目撃した瞬間に反転して戻っていった。窓が震えるほどの罵声に備えて、リンナは心持ち中腰になる。
が、一同の予想に反して、アルラスの声は静かなものだった。
「……今日は、新年の休暇のために城を出発する日だが」
「えっ? 今日?」
リンナは慌てて卓上の暦を振り返った。おかしい、転移装置の予約はあと三日も先のはず……。
首を捻るリンナを眺めながら、アルラスが無感情な顔で告げる。
「どうして君の日付感覚が狂っているか教えてやろうか」
「知りたいです」
「君が思っている日付と、実際の日付は何日ずれていた?」
「み、みっか……くらい?」
指折り数えて答えた瞬間、ごうっと音がするほどの強風が吹き寄せた。
「じゃあ、貴様は最低でも三日間は寝ていないからだなッ!」
「ひぃー……!」
窓がびりびりと鳴るほどの怒声に、リンナは顔を引きつらせる。
「べ、別に珍しいことじゃないです。それくらいは、学生時代から頻繁に」
「貴様、よくこの歳まで生きてこられたな!」
「何とかなってましたもん! 今もご覧の通り、元気でしょ」
どんと胸を叩いて宣言すると、アルラスは腕を組んで胸を反らした。心底呆れ果てたように見下ろされ、リンナは思わずたじろぐ。
「……それなら、食事の手配をしていたヘレックとレピテに感謝するんだな。それと、親御さんを初めとした、これまで貴様の奇行を受け入れて支えてくれた周囲の方々にもだ」
ぐうの音も出ずに黙り込むと、アルラスは大げさにため息をついた。
「奥方さま、もう何日もずっと部屋から出てこないで調べ物をしていたんですよ」とレピテが言う。
思い当たる節はあった。
死の呪いに関する記録を集めているなかで、興味深い記述がいくつも見つかった。それらをひとつひとつ洗い出すのに必死で、寝ている時間も惜しかったのだ。
腹の前で指を絡ませ、レピテは俯きがちに呟いた。
「どんなに扉を叩いてもお返事がなくて、心配しました」
「周りが不安になるような研究のやり方は控えろということだ」
腕を組んで、アルラスが高圧的に付け加える。目を伏せたまま答えないでいるのに、彼はずっと返事を待っている。
だいぶ時間をおいてから、リンナは消え入りそうな声で「ごめんなさい」とだけ呟いた。
ややあって、アルラスが大きなため息をつく。
「君に常識がないのは、今に始まった話ではないがな、」
「う」
真正面から刺されて、リンナは首を竦めた。上目遣いでそろそろと顔色を窺えば、アルラスは呆れ果てた表情だった。
「体は大事にしなさい。まったく……」
寝起きで乱れた髪を手櫛で流しながら、アルラスがため息をつく。
頭を撫でられている間、リンナはアルラスの顔をぼうっと見上げていた。彼の眼差しは険しかった。口調は抑えめだが、本気で怒っていることが窺える。
アルラスが怒っているのは、本当に心配をかけたからだ。
のそのそと身支度をして、リンナは悄然と食堂へと降りていった。
果たして、アルラスはまだ言いたいことが山ほど残っていそうな顔つきで待ち構えていた。
レピテとヘレックは冬仕舞いの点検に出払っており、残っているのはアルラス一人だけである。
「それで、そんなに熱中するほどの成果はあったのか?」
肩肘を机に置き、彼はこちらに体を開いて仏頂面で問いかけた。リンナはうーんと唸りながら隣に腰かける。
「死の呪いとして記録されている事例を総当たりで確認していたんですが、恐らくは複数の呪いが一緒くたに『死の呪い』として残されているみたいなんです」
「死の呪いは複数あるということか」
「ううん、そういう訳でもないみたいなの」
遅めの朝食に手をつけながら、リンナはかぶりを振った。
「結局のところ、特別な呪文を使わなくたって呪術で人を殺すのは簡単です。血が止まらないよう傷口に呪いをかけたり、心臓の動きを止めたりとか」
アルラスが顎に手を当てて考える。
「多分、それでは上手くいかないな」と、今挙げた例のふたつはどちらも挑戦済みらしい。
「そうなの。実際、そうした手段で暗殺を試みようとして失敗した記録も多かったです。別の手段で防がれたり、すぐ治療が間に合ったり」
リンナは頬杖をついて、周囲に人がいないことを改めて確認した。その仕草に気づいたか、アルラスが指先で机を叩く。
「この三日間で、『死の呪い』とされている記録を、その症状や立地から分類してみたんです。時系列順に整理しているから、だいたい二百数十年前までですが」
防音魔法も相まって、しんと静まりかえった食堂に、リンナの声が淡々と響く。
「三件、みつけました。死の呪いと思われるものです」
アルラスが息を飲んだ。リンナは指を立てて記述を思い返す。
他の呪いとは全く違う呪いである。一瞬にして生き物の命を奪う。前触れも、防ぐ術もない。遺体の腑分けをしても異常の一つも見当たらない。
「一件目は、北部サンキトラに住んでいた領主一家の不審死。二件目はそれから二日後、近隣での家畜の大量不審死」
およそ二百と五十年前、国の北部に広がる高原地帯サンキトラのとある街において、領主とその妻、および長男夫妻が死んだ。真昼のことであった。使用人も数名が死亡したが、生き残った者はいた。第一発見者であるメイドは、「騒ぎはなく、気がついたら全員が死亡していた」と証言している。
その二日後、領主家族が死亡した街から馬で半日ほどのところにある羊飼いの家で、囲いに入れられていた羊のうち約四十頭と、牧羊犬三頭が一夜のうちに死んだ。囲いのすぐ隣で眠っていた羊飼いは「羊の鳴き声や犬が吠える声は聞いていない」「異変はなかった」と語り、現場に痕跡は何も残されていなかったと記録されている。
「同じ術者だろうか」
「場所も時期もほぼ一緒です。恐らく同一人物だと」
アルラスの表情が曇った。
「その正体は?」
まさにそれが、リンナが三日間寝ずに調べ物を続けていた理由だった。
死の呪いを作り上げた呪術師とは一体何者なのか。なぜ領主を殺したのか。
「結局、その呪術師に関しての記述らしいものは見つけられませんでした。これからもっと新しい年代の記録を探しますけれど、」
そこで言葉を切って、リンナは力なく肩を竦めた。
呪術師の年齢も性別も素性も分からない状態では、望みは薄そうだ。残されている記録は公的な事件の記録などがほとんどで、被害状況ばかりが克明に記されている。
「先の二件から五年が経った頃、遠い南部で同じ呪術が使われた記録が残っています。術者は十三歳の少年で、五年前ならまだ八歳。村を出たこともなかったそうです」
連続した二つの事件とは別人によるものだとみて間違いないはずだ。
アルラスは懐疑的な様子である。
「本当に、その子どもが術者だったのか?」
「はい。記録によれば……」と、リンナはその後の言葉が出てこずに言い淀む。言ってしまえば、彼がどういう反応をするかは分かっていた。
「……記録によれば?」
怪訝そうに、アルラスが続きを促す。リンナはしばらく躊躇ってから、ちらと彼の目を見た。
「少年はひどく衰弱し、ほどなくして死んだとされています。術者の身の丈に余る呪術を使うと、そうなることがあります」
アルラスは大きく目を見開いたまま、しばらくものも言えないように硬直していた。じっとこちらを見据えている。
「それでは」と掠れた声で呟く。リンナは苦笑して手を振る。
「私は大丈夫ですよ。死の呪いなんかじゃ死なないわ」
「何の根拠があって?」
追究されて、思わず答えに窮する。明確な理由があるわけではなかった。
「ええと」と言い淀んで、リンナはアルラスの目を見返した。彼は眉根を寄せ、冗談やはぐらかしを許さない目つきでこちらを正視している。
「……私、呪術のために生まれてきたって思うんです。だから、大丈夫なの」
胸に手を当てて答えると、アルラスは黙り込んだ。悲しげな視線に気付いて当惑する。
アルラスは長く息を吸うと、唇を薄く開いた。
と、軽快な話し声が近づいてくるのに気がついて、アルラスは口を噤んでしまう。
レピテとヘレックが戻ってきたらしい。話題は新年のごちそうについてだ。
「レピテちゃん、趣味が渋いよ。それは僕のおばあちゃんが小さいときに食べてたやつだよ」
「ええっ嘘……今って魚の形のパイって食べないんですか? ほらこういう」
レピテが一生懸命に手で魚の形を作って主張するのを、ヘレックが苦笑いで見る。
「だいたい、そんな大きい魚なんていないよ。何がモチーフなの?」
いますよぉ、とレピテが声を上げる。「たとえば、……えっとぉ」と両手で幅を作って、そこで黙り込んでしまった。
リンナはくすくすと笑いながら見ていたが、アルラスは神妙な顔で腕を組んでいる。彼にとっても懐かしい味らしい。
食堂に入ってくると、ヘレックは戸締まりに問題がないことを報告した。
朝食の片付けを済ませ、一同が城を出たのは昼前のことだった。
雪を被ったレイテーク城は、山に抱かれてひっそりと沈黙している。けれど、毎日丁寧に手入れされているためか、物寂しさはなかった。
門を閉じ、湖岸に回ると舟にめいめいの荷物を載せる。初めにここに来たときより一回り大きな舟だ。普段から買い出しに使用しているヘレックが、率先して舫い綱を解いている。
籠に入れられたイニャは落ち着いた様子で、編み目の隙間から鼻先を覗かせて周囲を見回した。
好調に水の上を滑り出した舟の上で、リンナは膝をたたみ、縁に肘をつく。
「ロガスさんは、もうそろそろ息子さんのおうちに着いたころかしら?」
「もうじき最寄り駅に列車が到着する頃だろう。そこから馬車で一時間くらいと言ったかな。長男が駅まで迎えに来るらしい」
これまで新年の時期は、使用人に休暇を出し、アルラスは城に残ることが常だったという。そうなると一緒に城に残るのがロガスという人間だ。
それが、今年はアルラスの提案を飲み、長男家族のところで新年を過ごすことにした。遠方まで列車を乗り継ぐため、ロガスは一昨日のうちに出発していた。新年の期間を超えて、しばらくの間滞在する予定だという。
風を受けながら、アルラスが囁く。
「あれがまだ若いうちに妻を亡くしたときは、可哀想でならなかった。ロガスはもっと家族と一緒に過ごすべきだ」
そうね、とリンナは小声で答えた。ロガスはこれまでもずっと家族と一緒に過ごしてきたのだが、それをわざわざ指摘するのも野暮だろう。
船尾ではヘレックとレピテが身振り手振りを交えて談笑している。その様子を眺めながら、リンナは欠伸を噛み殺した。
「ろくに寝ていないんだろう。対岸までまだかかるから、休んでおきなさい」
目敏く気付いたアルラスに言われて、小さく頷く。膝に顎を乗せて目を閉じると、睡魔が一気に迫ってきた。
肩に手が触れ、頭がアルラスの肩に乗る。抵抗せずに体を預けると、体重をものともせずにぐいと引き寄せられた。
「リンナ」
水音のなか、夢うつつで声を聞いていた。もうすっかりリンナが寝ていると思って、聞かせるつもりのない小声だった。
「君が、呪術のために命を落とすなら、俺は今度こそ、君の研究をやめさせるぞ」
耳元で囁く声は、脅迫の反面、懇願の響きを帯びていた。
眠りに落ちる寸前、薄く瞼を開く。流れる水面が光っている。大きな手がゆっくりとした拍で背を叩くのに任せて、リンナは目を閉じた。
駅前でヘレックが大きな荷物を持って手を振る。レピテも同じように荷物を持ったまま、改札前で手を振っている。
転移装置のある基地は、駅からもう少し奥にある。手を振り返して通り過ぎようとしたところで、ふとリンナは違和感を覚えて足を緩めた。
ヘレックは列車の時間が迫っているようで、足早に改札の向こうの階段を降りていく。レピテは改札前で所在なげに立っている。
旧都を通る鉄道の路線は一本で、ここより先はごくごく小さな鉱山町くらいしか駅はない。
「レピテちゃん、列車はどこ行きのものに乗るの?」
戻って声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いた。
以前、レピテは一家離散で身寄りがないと言っていた。本人が里帰りするような雰囲気を出していたから忘れていたけれど、彼女は一体どこに帰ろうというのだろう?
レピテはばつが悪そうな顔になって、それからリンナの言外の問いに気付いてか、寂しげな笑みを浮かべた。
「この辺りで宿をとるつもりでした。……水を差すみたいで、言い出せなくて」
普段の無邪気な態度とは打って変わって、物静かな応答だった。アルラスは「ふむ」と腰に手を当てると、リンナを一瞥する。転移装置の空間にはまだ余裕がある。リンナは何度も頷いた。
「……これから王都にある別邸に行こうと思っていたんだ。部屋に空きはあるし、最初に簡単な掃除をしなくてはならない。人手が欲しいところなんだが、どうだろう」
アルラスの提案に、レピテは目を真ん丸にした。
「たぶん、掃除中に多少のへそくりが見つかるはずだ。俺たちは外出しているし、君がうっかりそれを財布に入れて祭りに出かけても気付かないだろうな」
言って、悪戯っぽく微笑む。レピテの顔にじわじわと喜色が浮かんだ。
はいと頷いて、レピテは駆け足で坂を上がってきた。




