特別な気持ち
翌日の朝。
カーテンが閉まっている窓の外側では嵐もすっかり静まった様子で、薄いイエローのカーテンは陽の光に照らされ、その色が更に明るく見えている。
部屋の中も時が経つにつれて明るさを増し、その明かりをもとに壁に掛けてある時計へ視線を向けると、時刻は午前七時過ぎを指し示しているのが見えた。
「早く起きてくれねえかなあ……」
この時の俺は、一つのピンチを迎えていた。下半身を何度もよじらせながら、激しくなるだけの尿意に必死に耐えていたからだ。
俺が尿意を感じて目を覚ましてから、既に三十分が過ぎている。それならさっさとトイレに行けばいいと思うだろうけど、それができるならこういう状態にはなっていない。
なぜなら俺の左手は昨日のまま杏子に力強く握られていて、右手も愛紗によってギュッと握られているからだ。とりあえず俺にとっての緊急事態という事で、無理やりにでも手を離しにかかろうと何度か試みたのだが、それはことごとく失敗に終わった。
しかも無理やりに手を離そうとすればする程、二人は握る手の力を強めてくるから恐ろしい。
「どっちでもいいから、とりあえず起きてくれ――――っ!」
両手を拘束されているに等しい以上、寝返りも打てない俺には声を出して二人の目覚めを促す他無いが、二人はよっぽど深い眠りについているのか、何度呼び掛けてもピクリとも反応してくれない。
杏子はいつも目覚めが良くないので仕方ないけど、愛紗もそうだといよいよ参ってしまう。
そしてここから更にしばらく、二人が目覚めるまで俺は耐え難い尿意に必死に耐え忍んでいた。
こうして尿意で最初に目を覚ましてから約一時間後。
杏子と愛紗の手繋ぎからようやく解放された俺は、即行でトイレへと駆け込んで激しい尿意を解消した。こんなにトイレを恋しく思ったのは、小学校の遠足で生水を飲んでお腹を壊した時以来だ。
俺はトイレに行けるという幸せを沸々と噛み締めながら、トイレを出てリビングへと戻り始めた。
「くあーっ! すっきりしたっ!」
「そんなにトイレに行きたかったなら、早く行けば良かったのに」
トイレから出てリビングへ向かっていると、小さな欠伸をしながらすれ違った杏子がそんな事を言ってきた。
――コイツ……誰のせいでトイレに行けなかったと思ってやがるんだ?
「どうしたの?」
「はあっ……何でもないよ」
「変なお兄ちゃん」
杏子は俺の返答に首を傾げると、パタパタとスリッパの音を立てながら洗面所の方へと向かって行った。
――妹よ……お兄ちゃんの涙ぐましい努力を少しは知ってほしかったぜ。
そう思いながら心の中でむせび泣く。
まあ、本来はちゃんと説明してやればいいんだろうけど、俺と手を繋いで寝てた事を愛紗は知られたくないだろうから、それを話す事はできない。
「お、おはようございます。先輩」
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「あっ、はい。それなりに」
俯き加減にしていた顔を少し上げ、チラチラと上目遣いで俺を見る愛紗。その顔は少し照れた様に紅くなっている。
「そっか。それなら良かったよ」
「は、はい。ありがとうございます……」
そう言うと愛紗は少し慌てて俺の横を通り抜け、洗面所の方へと向かって行った。
――寝起きの姿を見られるのが恥ずかしかったのかな?
そんな事を思いながら布団を畳んで自室へと戻り、パジャマから普段着へと着替える。
そして部屋から出て階段の方へ向かうと、入れ違いに二人と出くわした。どうやら俺と同じで、着替えに向かっているみたいだ。
「朝ご飯の準備しておくから、着替えたら下りて来いよ?」
「了解。ありがとね、お兄ちゃん」
「ありがとうございます……」
杏子は相変わらずの様子だが、愛紗は未だに顔を小さく俯かせたままだ。よっぽどパジャマ姿を見られるのが恥ずかしいんだろう。
愛紗は杏子が昔買ったパジャマを着ているんだけど、身長152センチ程しかない杏子のパジャマをもってしても、愛紗が着るとダボダボになってしまう。しかし、そのダボダボ具合がとても可愛く見えるからグッドだ。これが世間で言われるところのパジャマ萌えってやつだろうか。
そんな事を考えながら台所へと向かい、簡単な朝食を作ったあと、私服と制服に着替えた二人と一緒にちょっと遅めの朝食タイムへと入る。いつもは二人の食卓に、今日は愛紗が居る。たったそれだけの事なのに、いつもよりも楽しい食事タイムになった。
こうして三人で朝食タイムを終えたあと、杏子と愛紗が昨日の夕食と同じく片付けをしてくれた。
そして少しだけくつろいだあとの午前十時過ぎ、愛紗は自宅へと帰宅する為にソファーから立ち上がった。
「杏子、先輩。お世話になりました」
丁寧にペコリと頭を下げる愛紗。
普段はツンツンしてる事も多いけど、こういった礼儀正しさはいつもながら好感が持てる。
「ううん、とっても楽しかったよ。またお泊まりに来てね。今度は妹さんも一緒に」
「うん、ありがとう。由梨にも話してみるね」
「そうだな、また遊びに来てくれよ。歓迎するからさ」
「はい。分かりました。あっ……」
「どうかしたのか?」
「あ、あの……私の靴……」
「「あ――――っ!?」」
――そうだった。昨日俺が杏子に言って愛紗の靴を隠させたんだった。
「悪い愛紗。杏子、早く隠した靴を出してくれ」
「…………」
その言葉に杏子は何も言わずに沈黙し、口元に指を当ててから視線を天井へと向ける。
「どうしたんだよ杏子? 早く靴を出してやってくれよ」
「……忘れちゃった」
「「えっ!?」」
「わ、忘れたって、隠し場所をか?」
「うん……」
――おいおいマジかよ!
「と、とりあえずその辺りを探して見ようぜ。愛紗ごめんな、ちょっと待っててくれるか?」
「あ、はい」
愛紗に対して詫びを入れつつ、俺は杏子と一緒に靴を探して回った。
しかしどこを探しても、肝心の愛紗の靴は見つからなかった。
「――ごめんね、愛紗。ちゃんと見つけておくから」
「うん。分かったから、そんなに謝らなくていいよ」
思い当たる場所を色々と探してみたけど、結果的にどこを探しても愛紗の靴は見つからなかった。
だから愛紗には申し訳ないけど、杏子が昔使っていた靴を代わりに使ってもらう事にした。本当はちゃんと靴を返して帰ってもらいたいけど、このまま愛紗にずっと待ってもらうのは忍びないから。
「それじゃあ杏子、俺は愛紗を駅まで送って来るから、その間に靴を探しておいてくれ」
「うん。愛紗、見つけたら電話するから」
「うん、分かった。でも、無理して探さなくていいからね? どうせ使い古しの靴だから、そろそろ買い替えようと思ってたところだし」
その言葉に杏子がもう一度謝ると、俺は愛紗を連れて駅へと向かい始めた。
「ごめんな愛紗。俺が靴を隠せなんて言ったから」
「いえ。杏子にも言いましたけど、そろそろ買い替えようと思ってたのでそんなに気にしないで下さい」
「でもさ……」
「それにあれは、私の為にそうしてくれたんでしょ?」
「まあ、それはそうだけどさ……」
「だったらそれでいいじゃないですか。悪気があってやった訳じゃないんですから」
愛紗はにこやかにそんな事を言ってくれる。
しかしそんな愛紗の表情を見ていると、ますます申し訳ない気持ちになってしまう。
それからしばらくは他愛のない話をしながら歩き、そろそろ駅へと辿り着こうかという頃、俺はちょっとした事を思いついた。
「なあ、愛紗。今から少しだけ時間とれないかな?」
「えっ? それは大丈夫ですけど、どうしてですか?」
「ちょっと付き合ってほしい場所があるんだ」
「は、はい。それはいいですけど」
「よしっ、それじゃあ行こう!」
俺はそのまま愛紗を連れ、駅から少し離れたショッピングモールへと向かった。
「――さあ、愛紗! 好きな靴を選んでくれ!」
愛紗と一緒にやって来たのは、ショッピングモール内にある靴の専門店。俺はここでお詫びに靴をプレゼントしようと考えていた。
「先輩。そんな事はしなくていいですよ」
「頼む。これはお詫びなんだ。だから好きな物を選んでくれ。じゃないと、俺の気が収まらないんだよ」
「…………分かりました。それで先輩の気が済むなら」
少し考え込んでいた愛紗は、俺のお願いに小さく微笑みながらそう答えてくれた。
「ありがとな。それじゃあ、早速いいのを探そう」
「はい♪」
そう返事をする愛紗の表情は少し楽しそうに見えた。
店の中には様々なシューズが所狭しと展示されていて、その種類の多さにビックリしてしまう。
最近は子供の靴一つとっても多種多様な品があるみたいで、しかもそれが結構高い値段で売られている。靴一つにここまでの機能を持たせてるのかと、無闇に感心してしまう品もあるくらいだ。
そんな物に気を取られつつも、愛紗に似合いそうな靴があるコーナーを探して回る。
「あっ、これいいかも」
二人一緒に色々と靴を見て回っていた時、愛紗が目の前の棚に展示されていた靴を手に取った。
愛紗が手に取ったのは、白地に黄色のラインが入ったシンプルな感じのスニーカーだ。
「愛紗って普段はスニーカーを履く事が多いのか?」
「はい。ローファーなんかも履きますけど、だいたいはスニーカーですかね。軽いし楽だから」
「なるほどな。それじゃあ、俺はその線で探してみるか」
そんな言葉を受け、俺は愛紗に似合いそうなスニーカーを探してみる事にした。
だが、女の子の靴など今まで見繕った事の無い俺には、スニーカーに種類を絞ったとは言え、いったいどんな感じの物を選べばいいのかがさっぱり分からない。
しかし、そこから十五分くらいスニーカーの棚を見て回っていた時、俺の目に一つのシンプルで可愛らしい靴が映った。
「あっ、これいいな」
俺が手に取ったのは黒のハイカットスニーカーで、シンプルながらも女の子の履き物らしいスリムなフォルムだった。
「先輩。何かいいのがあったんですか?」
「ちょうど良かった。これなんてどうかな?」
こちらへとやって来た愛紗に向かい、俺は手に取ったその靴を見せた。
「あっ、シンプルだけど可愛いですね」
「だろ! 俺もそう思うんだ。なあ、愛紗。ちょっと履いてみなよ」
「そうですね。そうしてみます」
俺は近くに居た店員さんに声を掛け、愛紗の足のサイズに合う靴を出してほしいと頼んだ。
店員さんは快く愛紗が言ったサイズの靴を倉庫に探しに行ってくれたのだが、やはり身体が小さいだけあって靴のサイズも小さく、店員さんが戻って来るまでにはちょっと時間がかかった。
「――どうですか?」
しばらくして店員さんが持って来てくれた靴を試し履きした愛紗が、クルリとその場で回って感想を聞いてきた。
「いいっ! 凄く似合ってるぞ!」
「本当ですか?」
「もちろん!」
とても照れた感じで、えへへっ――と微笑む愛紗。その姿は見ていてとても愛らしく微笑ましい。
「それじゃあ、これにしてもいいですか?」
「おう! あっ、でも、本当にそれでいいのか? 他にいいのがあったら――」
「これでいいです。これがいいんです……」
愛紗は俺の言葉に被せる様にそう言う。
それを聞いた俺は、愛紗のご希望どおりにその靴を買ってその場でプレゼントした。そしてせっかく買ったのだからと、俺はその場で愛紗に履き替えを勧めてみた。
こうしてプレゼントした靴に履き替えてご機嫌な様子の愛紗と一緒に靴屋さんを出た俺は、愛紗が帰るのを見届ける為に一緒に駅へと向かった。
「――あっ、お姉ちゃん」
不意に俺達の背後から声が掛けられ、二人でその声がした方へと振り向く。
するとそこには、愛紗によく似た顔立ちをした黒髪の女の子が居た。
「由梨じゃない。お友達の家からの帰り?」
「うん。お姉ちゃんも今帰り?」
「そうよ。ちょうどいいわ、一緒に帰りましょう」
「うん。それでお姉ちゃん。こちらの方は?」
「あっ、私の友達のお兄さんで、鳴沢龍之介先輩よ」
「どうも。初めまして」
「初めまして。私は篠原由梨と言います。お姉ちゃんがいつもお世話になっています」
丁寧にペコリと頭を下げる妹さん。
愛紗より頭一つ分くらい身長が高く、見た目だけなら妹さんの方がお姉さんに見える。そんな妹さんは艶やかな黒髪のロングヘアーに緩やかなウェーブがかかっていて、一見おっとりした感じに見える妹さんの雰囲気によく似合っている。
「こちらこそ、いつもお姉さんには妹がお世話になってます」
「いえ。こうしてお会いするのは初めてですけど、私はなんだか初めて会った気がしません」
「えっ? どうしてかな?」
「それは多分、お姉ちゃんから鳴沢さんのお話をいつも聞いていたからだと思います」
「ちょ、ちょっと由梨!? 何言ってるのっ!」
慌てふためきながら妹さんに詰め寄る愛紗。
そんな慌てるくらいに変な話でもしているんだろうか。
「あれっ? お姉ちゃん、靴がいつもと違うね?」
詰め寄って行った愛紗の言葉などまるで聞こえていないかの様に、妹さんは突然話題を変えた。
「ああ。ちょっと色々あってお姉さんに迷惑をかけちゃったから、お詫びにプレゼントしたんだよ」
「そうだったんですか。良かったね、お姉ちゃん。大事にしないといけないね。せっかく好――」
「あ――――っ! もうっ! 止めて止めてっ!」
「むぐぐっ」
愛紗は何かを言おうとした妹さんの口を両手で押さえ、その発言を封じる。
「ど、どうした? 愛紗?」
「き、気にしないで下さいね! ほら、帰るわよ、由梨」
「もう……お姉ちゃんたら。では鳴沢さん、お姉ちゃんの事、これからもよろしくお願いします」
「あ、うん」
「余計な事を言わなくていいから! ほら、駅に向かって歩いて」
そう言って妹さんを先に行かせる愛紗。
なんだかよく分からんが、愛紗は愛紗で苦労してるのかもしれない。
「ごめんなさい、先輩。送ってくれてありがとうございます」
「おう。気を付けて帰ってな」
愛紗はコクンと頷くと、ゆっくりと妹さんのあとを追って行く。
しかし愛紗は途中でこちらへ振り返り、なぜか俺の方へと走って戻って来た。
「どうかしたのか?」
「もう一度お礼を言っておきたくて。先輩、可愛い靴をありがとうございます。大切にしますね。それじゃあ」
そう言うと愛紗はスッと駅の方に向き直り、急いで妹さんが居る方へと走って行く。
そして最後にもう一度だけこちらを振り返ると、何度か俺に向けて手を振ってから妹さんと一緒に帰って行った。
――今日の愛紗は珍しくツンツンしてなかったな。
そんな事を思いながら自宅へ帰ると、俺は玄関先に妙な袋がぶら下がっているのを発見した。自宅の玄関横には飾り物をしたりする為の引っ掛け部分があるんだけど、そこに何かが入った様に膨らんでいるビニール袋が一つ掛けてあったのだ。
その怪しげな物が何だろうかと思ってビニール袋を手に取り中を見ると、そこにはとても小さなスニーカーが入っていた。
――杏子の奴。なんて場所に靴を隠してんだよ……。
とりあえず袋に入ったスニーカーを持って家へと入り、未だ必死に愛紗の靴を探しているであろう妹を玄関から大声で呼んでその靴を手渡した。
すると杏子は受け取ったスニーカーを見て、『良かったー! 急いで愛紗に連絡しないと!』と言って喜びながら携帯で電話をかけ始めた。
俺はそんな杏子の様子を見て自室へと戻りながら、これからは杏子に物を隠させるのは止めておこう――と、そう心に誓った。




