悪友の策略
高校生になって二回目の夏休みが近付いていた頃。
窓を全開にしても蒸し風呂に居る様な感覚の教室内で、俺は今日も変わらず一時間目の授業を気だるく受けていた。受けている授業が苦手な英語の授業なのが、俺の気だるさを二倍にも三倍にも増大させている。
そんな気だるくなる要素満載な中、俺は小さな欠伸を何回も出していた。
そして今日で何回目になるか分からない欠伸を出した時、俺はふと右斜め前の席へと視線を移した。いつもその席に座っている主は、今日も居ない。
茜が風邪で学園を休み始めてから、今日で五日目になる。
幼馴染として茜と今まで長い時間を共に過ごして来たが、茜が風邪でこんなに休んだ事は無い。いつもは風邪をひいても翌日か、もしくは二日後には完治してケロッとしていたから。それだけに、今のこの状況は異常事態と言えるだろう。
茜が風邪で休んだ初日は、少しだけ居ない事に安心していたところもあったけど、さすがにそれが五日ともなると心配な気持ちの方が上回る。
だからと言って、電話をかけたりメッセージを送ったりする度胸など、今の俺には無い。そりゃあそうだ。誰がどう見たっておかしな態度をとっておきながら、今更どの面下げて茜の心配をしてるなんて言えるだろうか。
「はあっ……」
今度は欠伸ではなく、溜息が口から漏れ出た。茜が風邪で学園を休み始めて二日目から、俺はこの様に溜息を吐く事が多くなっていた。
そして俺は今日もこんな調子で午前中の授業を過ごしたが、お昼休みを挟んで午後の授業に入ってもその状態が改善されるわけでもなく、俺は定期的に溜息を吐き出す機械の様になっていた。それはもう、個人で地球温暖化をここまで促進している奴は他に居ないのではないだろうか――と、そう思う程に。
こうして憂鬱な気分を抱えた学園生活がようやく過ぎ去り、放課後のホームルームの時間を迎えた。この時間は今日も学園での一日が終わったなと実感し、心と身体が解放される瞬間でもある。
「それじゃあ、今渡した進路希望調査のプリント。夏休み前までにはちゃんと提出してね。それと――」
教壇に立つ担任の鷲崎先生が、いつもの様に必要な事だけを事務的に羅列していく。
実に無駄が無くスピーディーにホームルームが終わるので、俺はこのやり方を非常に絶賛している。
「――以上で今日のホームルームは終わるけど、誰かこの進路希望調査のプリントを水沢さんに届けてくれないかしら?」
「はいはーい!」
先生の問い掛けに対して真っ先に反応したのは、意外な事に渡だった。
面倒な事が嫌いな渡がどういう風の吹き回しかと思ったけど、幼馴染である俺に白羽の矢が立たなかったのは良しとするべきだろう。
「日比野君が渡しに行ってくれるの?」
「いいえ! 渡しに行くのは龍之介がうってつけだと思いまーす! 家も近いし幼馴染だし!」
「はあっ!?」
「そういえば、鳴沢君は家が近かったわね。それじゃあお願いするわ。では、これで終わります」
俺の意思も意見も聞かれる事は無く、鷲崎先生はそう言って早々に教室を出て行った。
「よしっ! 龍之介、さっさと行こうぜ」
「渡、お前何を考えてんだよ……」
とんでもない事をしてくれやがって――という思いでそう問い掛けると、渡はニヤリと妙な笑みを浮かべてから口を開いた。
「水沢さんにプリントを届けに行くだけなのに、何か都合の悪い事でもあるのか?」
「そ、そんな事は無いけどさ……」
「ああ、もしかしてあれか? 水沢さんと気まずくなってるからか?」
「べ、別に気まずくなんてなってねーよ!」
渡の挑発する様な言い方についムキになってしまい、思わずそう言ってしまった。
「それじゃあ、なーんにも問題は無いよな?」
「ぐっ……」
まさか渡に言い負かされるなどとは思わず、悔しい気持ちでいっぱいになる。
「龍之介さん。私も一緒に行きましょうか?」
「あっ、僕も行こうか?」
そんな俺のもとに、美月さんとまひろが来てそう申し出てくれた。
正直言って今の状況ではありがたい話だったので、その申し出を受け入れようとしたんだけど、俺が口を出すよりも早く渡が声を上げた。
「いやいや。あまり大勢で訪ねたら迷惑になるし、今回は俺と龍之介に任せておいてよ。それにほら、涼風さんと如月さんに風邪がうつったらいけないからさ」
「俺ならいいのかよ?」
「龍之介は馬鹿だから大丈夫だろ?」
「少なくとも、俺より遥かに成績が下のお前にそんな事を言われたくはねーよ」
しかしそうは言ったものの、渡の言う事にも一理ある。
あの茜がこれだけ長引く風邪なら、まひろや美月さんと接触させるのは好ましいとは言えない。ある程度の危険性を考えるなら、俺と渡が行くのが最善だと思える。
それに少なくとも、俺だけで行かなくて良い状況なだけマシだとは思えた。
「はあっ……仕方ねえな……行けばいいんだろ? 行けば」
「おう! 行こうぜ!」
「分かりました。では、お二人にお任せしますね」
「そうだね。龍之介、茜ちゃんによろしく言っておいてね?」
「分かったよ」
結局、俺は渡の口車に乗せられる形で茜の家に行く事になってしまった。
とてつもなく気の進まない事ではあるが、プリントを渡さないと茜が先々困ってしまうから、それは俺も本意ではない。
話が決まったそのあと、俺は渡と一緒に学園を出て茜の家へと向かい始めた。
「――そういえば渡。お前、茜の家は知ってるのか?」
「ん? ああ。まあ、学園に居る女の子の情報については一通りな」
――何その発言……超怖いんですけど……。
「おい。何で俺から距離をとるんだ?」
「気にすんな。なんとなくだ」
学園から出て茜の家へと向かう最中。
俺が渡の発言にあからさまな距離をとると、渡は訝しげな表情でこちらを見た。そりゃあ今みたいな話を聞けば、距離をとりたくもなるだろう。それが普通の反応だ。
そんな事をしている内に茜の自宅前へ辿り着くと、渡は玄関のチャイムを何の躊躇もなく押した。
「は~い」
鳴り響いたチャイム音のあと、のんびりと間延びした声が玄関奥から聞こえてきた。そしてその数秒後に、玄関の扉がガチャリと音を立てて開く。
開かれた扉の向こう側には、茜に負けない程の長いポニーテールを揺らめかせている、母親の碧さんの姿があった。
「あっ、龍ちゃんじゃな~い。久しぶりね♪」
「どうも。ご無沙汰してます」
俺は碧さんに向かってペコリとお辞儀をする。
するとそれに釣られる様にして、渡も同じく頭を下げた。
「は、初めまして! 俺――いや、僕は水沢さんと同じクラスの者で、日比野渡と言います!」
緊張しているのか、渡があからさまにどもりながら自己紹介をする。珍しいもんだなと思ったけど、渡の表情はなんともいやらしくにやけていた。
そんな渡の視線の先をよく見てみると、碧さんの豊満なバストを注視している。
――ホントに分かりやすい奴だな。
「日比野渡君、だね? いらっしゃい。それで、今日はどうしたの?」
碧さんはにこにこと笑顔のままでそう聞いてくる。
いつもながら朗らかな雰囲気の人だ。ちょっとのんびりとし過ぎてて、抜けてるところもある人だけど。
「今日は茜に渡すプリントがあって来たんですよ」
「そうだったんだ。それじゃあ、直接渡してあげて」
「えっ? でも、具合が悪いならそっとしておいた方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫だと思うよ? それに、龍ちゃんが来たらきっと元気が出ると思うから」
満面の笑顔でそう言う碧さん。
そんな軽い感じで良いのだろうか――と、ついついそんな風に思ってしまう。
「風邪、酷いんじゃないですか?」
「ううん。風邪はもうほとんど治ってるんだけど、いまいち元気がなくって。さあ、ともかく上がって」
そう言って家へ上がる様に促す碧さんが用意してくれたスリッパを履くと、碧さんは『お茶を用意するから』と言って台所の方へと向かって行く。
しかし台所へ入る直前でピタリと止まると、突然俺達の方へと振り返った。
「ねえ、龍ちゃん。いつになったら私を『お母さん』って呼んでくれるの?」
「ぶっ!?」
突然の問い掛けに思わず吹き出してしまった。
毎回とは言わないけど、碧さんに会うと高確率でこれを聞かれる。
「いや、ほら、それはですね――」
「幼稚園の頃はよく、『茜は僕のお嫁さんにするんだ!』って言ってたもんね」
「いやだから、それは昔の話であって――」
「そっか~。龍ちゃんは結構照れ屋さんだもんね。でも、早く私の事をお母さんて呼んでね♪」
こちらの話などまるで聞こえていないかの様に話を進め、そのまま台所へと向かって行く碧さん。
「水沢さんのお母さん。すげえな……」
「やっぱりそう思うか?」
「ああ。上級の天然さんと言うか、我が道を突っ走っていると言うか……」
やっぱり俺以外の人にも碧さんはそう見えるんだな――と、なんだか妙に安心した瞬間だった。
碧さんの天然炸裂の洗礼を受けたあと、安静にしているであろう茜の居る部屋へと向かい始める。そして二階へと続く階段を上がるその間、自分の心臓が少しずつその動きを速めているのが分かった。
ほんの一瞬の様に感じた階段を上り終え、茜の部屋の前へと辿り着いた俺は、大きく息を吸い込んでからゆっくりと吐き出したあと、覚悟を決めてその扉をノックした。




