真っ白なお姫様

　花嵐恋《からんこえ》学園の三年生になって訪れた、五月下旬の日曜日、外では梅雨入りした空から大粒の雨が地上へと降り注いでいる。

　ニュースで梅雨入りをしたと聞いてから三日が経ったが、その間はずっと雨が降り続いている。厚い雨雲がどこまでも広がる外の世界をリビングのベランダ越しに見ていると、しばらくはこの雨模様が続きそうに思えてしまう。

　この時期は洗濯物が干せないとか、乾かないとか、買物へ行くのが面倒だとか、色々と面倒事が増える。だけど俺は梅雨時期はそんなに嫌いじゃない、雨の中で映《は》える様々な色の紫陽花《あじさい》はこの時期特有で綺麗だと思うし、部屋で静かにしている時に聞こえてくる激しい雨音や静かな雨音は、それぞれに独特のリズムがあって好きだからだ。

　しかしだからと言って、梅雨の全てが好きなわけじゃない、このじめじめとした感覚は毎年の事ながら好きにはなれないから。

「ただいまー！　お兄ちゃーん、ちょっとこっちに来てー！」

　何をするわけでもなくリビングのソファーに寝転がってテレビを見ていた俺の耳に、友達と遊びに出掛けていた杏子の声が聞こえてきた。

　その声を聞いて上半身を起こし、リビングのアナログ掛け時計へ視線を向けると、いつの間にか十八時を向かえていた。俺はそのままソファーから足を下ろし、杏子の居る玄関へと向かう。

「どうしたー？　雨にでも濡れちまったか？」

　ポリポリと頭を掻きながらリビングから出て杏子の元へ向かうと、玄関に立つ杏子が空色のタオルに包まれた何かを両手で大事そうに抱えている姿が目に映った。

「何だそれは？」

　杏子は俺の声に反応すると空色のタオルを廊下へそっと置き、そのタオルに包まれていた真っ白な毛並みの仔猫を見せた。

「どうしたんだその仔猫？」

「帰り道で雨に打たれてるのを見つけたの、捨て猫みたい」

「そうだったんか、とりあえず洗面所に連れて来い、別のタオルで拭いてドライヤーで毛を乾かすから」

「分かった」

　杏子は返事をするとすぐに靴を脱いで廊下へ上がり、仔猫を抱えて洗面所へと向かって行った。そんな杏子に続いて俺も洗面所へ向かい、杏子から仔猫を受け取ってから丁寧にゆっくりと身体を拭き、ドライヤーで毛を乾かし始めた。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「おう、それにしてもちっちゃいなあ」

「うん、だから可哀相で連れて来ちゃったの、ごめんね」

「謝る事はないんじゃないか？　俺も同じ状況なら同じ事をしてただろうし。でも問題なのは、この仔猫のこれからをどうするかだな」

　俺の両手より小さな仔猫、我が家で飼ってやればほとんどの問題は解決なんだろうけど、生き物を飼うというのは簡単な事ではない。生き物である以上は食べ物もいるし排泄もするし、健康面や精神面の事も考えて世話をする必要があるからだ。

　字面《じづら》にすれば簡単な事のように思えるかもしれないけど、実際にそれをやり続けるとなれば難しい。なにせ猫は長生きをする生き物だから、飼うとなれば十数年はお世話をする覚悟でいなければいけない。だからおいそれと飼うなどとは言えないのだ。

「……お兄ちゃん、家で飼っちゃダメかな？」

「気持ちは分かるが、ペットを飼うってのは簡単な事じゃないんだぞ？　この仔猫を飼うって事は、この仔猫の命に最後まで責任を持つって事なんだから」

「分かってるよ」

「分かってるならもう少し時間をかけて考えるんだ、俺達みたいな猫を飼った経験が無い奴らより、ちゃんと飼った経験のある人に飼ってもらう方が、この仔猫にとっても幸せなんじゃないか？」

「それはそうかもしれないけど……」

「杏子、俺は別にこの仔猫を飼う事に反対してるわけじゃないんだ、杏子にこの仔猫を最期まで面倒を見る覚悟があるならそれでいいと思う。だけど、別の道もあるんだって事も知っててほしいんだ。それにただ可哀相って理由だけで飼うのは、絶対に長続きしないからさ」

「……分かった、ちゃんと考えるね」

「おう、まあどういう風にするかはこれからだろうけど、その間はちゃんと世話してやれよ？」

「うん、分かった」

　元気に返事をした杏子は、真新しいタオルに包まれた仔猫の頭を優しく撫でる。その時に見た杏子の優しげな表情は、長年一緒に過ごして来た俺でさえも初めて見るものだった。そして俺は不覚にも、そんな杏子の表情を見てドキッとしてしまった。

　杏子が実妹《じつまい》ならこんな感覚になる事も無かっただろうけど、俺も杏子もお互いが義妹義兄という立場なのは知っている。だからこそ、時々だが兄妹という感覚から外れた気持ちを抱いてしまう事がある。だけど俺はそんな気持ちを口にはしないし、態度にも出さない。だって俺と杏子は、兄妹なんだから。

　とりあえず仔猫の世話は杏子が全面的にするという約束の元、杏子の仔猫お世話生活は始まった。

×　×　×　×

　仔猫の白雪姫を杏子が拾って来てから早くも四日が経った。拾った次の日は動物病院に連れて行ったりと大変だったが、杏子はしっかりと約束どおりに猫の世話をしている。そして今の俺は杏子が夕食の買い物に行っている間、白雪姫の面倒を見ていた。

「おー、よちよち、今日も元気だなあ白雪姫は」

　俺としては全てを杏子に任せて手を出すつもりは無かったんだけど、一緒に過ごしていれば相手への興味も出てくるし、俺も動物が嫌いなわけじゃないから、こうして可愛がっていれば情も湧いてくる。まんまとペット飼いの罠にはまった気分だが、こうして白雪姫と遊んでいる時間は悪くないと思う。

　ちなみに白雪姫という名前は、杏子が仔猫を拾って来たその日に名付けた名前だ。その由来は仔猫が雪の様に真っ白な毛並みで、しかもメスだったからだそうだ。

「こうしてると本当に可愛いな～」

　我が家の小さな白いお姫様は、妹と同じくとても活発でやんちゃだが、目を離すと何をするか分からないところは杏子よりも心配だ。

　俺もこうして動物と身近に関わる機会が無かった事もあり、白雪姫とこうして接しているのは新鮮でとても楽しい。しかし白雪姫の里親が見つかった時の事を考えれば、あまり情が移らないようにしておく必要があるだろう。

「にゃ～」

「ふふふ、本当に可愛い奴だな～」

　そんな風に思いながらも、可愛らしく声を出しながらじゃれ付いて来る白雪姫に、思わず表情を緩ませてしまう。

「お兄ちゃんもすっかり白雪姫と仲良くなったね」

「のわっ！？　杏子かよ、いつの間に帰ったんだ？」

「たった今だよ」

「それなら『ただいま』くらい言えよな」

「ちゃんと言ったよ、お兄ちゃんが白雪姫に夢中で気付かなかっただけでしょ？」

「そうなのか？　悪かった」

「いいよ、どうせお兄ちゃんは私より白雪姫の方が可愛いみたいだから」

　杏子はとてもふて腐れた様子でそう言うと、買物袋を持って台所の方へ去って行った。

「やれやれ、まいったな」

　へそを曲げてしまった杏子のご機嫌を取るのは難しい。他の事なら食べ物で釣ればいいけど、今回のように嫉妬してへそを曲げた場合はそうもいかない。しかも杏子の場合、相手が人間じゃなくて動物相手でもこれだから始末が悪いのだ。

「さてさて、どうしたらいいでちゅかね～？　白雪姫～」

　リビングの床に寝転がってじゃれ付いて来る白雪姫にそう問い掛けるが、当然ながらその言葉に答えは返って来ない。こうして白雪姫の里親を探しながらの生活は始まったわけだが、とりあえず今真っ先に解決しなければいけない問題は、杏子のご機嫌を取り戻す事だ。

　俺はじゃれ付く白雪姫と戯《たわむ》れながら、台所で調理を始めた杏子のご機嫌をどう取ろうかと考え始めていた。