遠い昔にあった事
修学旅行二日目の後半。
俺達はバスに揺られながら長崎をあとにし、次の目的地である鹿児島へと向かっていた。鹿児島と言えば、有名な観光地としてまず桜島が上がるだろう。
桜島は日本にいくつかある活火山の一つで、昔から何度となく噴火を起こしては街に灰の雨を降らせている。そんな桜島は、鹿児島を象徴する最も代表的なものだと言っても過言ではない。
――静かなもんだな……。
鹿児島へと向かうバスの車内。クラスメイト達は長崎の自由行動での疲れがあるからか、背もたれに寄りかかって寝ている者が多い。そしてうちのグループメンバーも、俺と渡を残して全員がぐっすりと眠っている。
時々まひろ達の寝姿を見ながら過ぎ去って行く景色を眺めつつ、その内に俺も目を瞑って眠りの世界へと入った。
「――龍之介さん。起きて下さい」
耳元で優しく名前を囁かれ、身体をゆさゆさと揺さぶられた。
「ううん……美月……さん?」
「やっと起きてくれましたね。ホテルに到着しましたよ。はい、これは龍之介さんの荷物です」
ぼーっとしながら車内を見回すと、クラスメイト達が荷物を持って次々とバスから降りる姿が見えた。
「ごめんね。ありがとう」
未だしっかりと覚めきらない頭で美月さんから荷物を受け取り、のっそりと席から立ち上がってバスを降りる。
「おおー。すっげえな……」
目の前にあるホテルは前日に泊まった長崎のホテルよりも三倍くらい大きく、その大きさに驚いた俺は一気に眠気が覚めた。このホテルも前日と同様に学園が貸し切り状態にしているらしいんだが、どんだけ贅沢なんだよと思ってしまう。
俺達が部屋に荷物を置く頃には十七時を過ぎていて、各班で準備が済み次第、それぞれに夕食を摂るという流れになっていた。
そしてこのホテルでも夕食はビュッフェスタイルだったんだけど、テーブルに並ぶご馳走の数々を前にあれやこれやと迷った末に、俺は綺麗に切り分けられているサーロインステーキが置いてあるテーブルの方へとやって来た。
「おっ、茜もこれを取りに来たのか? だったら取ってやるぞ?」
俺の言葉を聞いた茜は、一言も喋らずに持っているお皿を目の前に差し出してきた。それを見た俺は差し出されたお皿を受け取り、数枚の肉をテキパキと乗せ、茜へその皿を手渡した。
「ありがとう……」
茜は小さくお礼を言うと、ばつが悪そうに視線を逸らしてから足早にその場を去って行った。
「アイツ、まだ怒ってんのか?」
茜の表情はむくれていて、どう見てもご機嫌斜めだった。いつまでもあんな感じだと、こちらとしても気分が良くない。
けれど、アイツがむくれている理由が分からない以上、対応を間違えれば火に油という結果になる。ここはしばらく様子を見るのが得策だろう。
「――ふう~っ。思ったより外も涼しいな」
夕食から二十一時の就寝時間までは、お風呂には自由に入っていい事になっている。だから俺は、食後にホテルの外にある小高い丘まで一人で散歩に向かっていた。
そろそろ夕陽がその姿を隠そうとしている頃。ホテルから五分ほどの位置にある小高い丘へと辿り着いた俺は、そこにあった白いベンチへと腰を下ろして目の前に広がる風景を眺め始めた。見つめる街の空は赤と黒のグラデーションに彩られ、まるで美しい絵画でも見ているかの様な気分になる。
「一人でどうしたんですか? 龍之介さん」
そんな街の風景を見ていると、ベンチの横を通り抜けて立ち止まった美月さんが、同じく街の風景を見ながらそんな事を聞いてきた。
優しく涼やかに吹き抜ける風が、美月さんのライトブラウンの長く艶やかなウェーブのかかった髪を揺らす。
「んー、食後の休憩ってやつかな」
「そうだったんですね。あの、お隣に座ってもいいですか?」
「どうぞ」
美月さんは俺の返答に柔らかく微笑むと、ちょうど俺の拳二つ分くらいの隙間を空けて左隣に腰を下した。
「いい景色ですね」
「そうだね。長崎でも綺麗な夜景を二人で見たけど、こんな夜になる寸前の景色もいいもんだね」
「……長崎ではどなたと夜景を見たんですか?」
興味津々と言った感じで俺の顔を覗き込む美月さん。
その見方が可愛いので、ついつい見惚れそうになるけど、俺は美月さんの見せる可愛らしさに耐え切れずに視線を逸らした。
「ま、まひろとだよ。夜に渡のせいで寝つけなくてさ。それでしばらく夜景を見ながら話をしてたんだよ」
「まひろさんとだったんですね。いいなあ……まひろさん」
「美月さんは長崎の夜景は見た?」
「はい、ちゃんと見ましたよ。とても綺麗でした」
「だよね」
「はい。そしてその時に、少しだけ昔の事を思い出していました」
「昔の事?」
ただの好奇心と言ってしまえばそれまでだけど、色々と謎も多い美月さんの話には個人的に興味もあった。
「ええ。本当に小さな頃の話なんですけど、夏休みの時期に二週間だけ、一緒に遊んだ男の子が居たんです。その人はとても優しくて、私はその二週間、ずっとその男の子と一緒に遊んでいました」
美月さんは顔を紅くしながらも、とても穏やかな表情をしていた。きっと美月さんにとって、その相手との思いではとても特別で大事なものなんだろう。
「あっ、もしかして、その相手が美月さんの初恋相手だったとか?」
「えっ!?」
ちょっとした冗談のつもりでそう言った俺の言葉に、美月さんは珍しく動揺を見せた。普段マイペースな彼女が動揺するのを見るのは、なんとも新鮮な感じだ。
「そう……ですね。そうだと思います。あれが私の初恋だったんだと……」
「そっか。で、それからその相手とはもう会ってないの?」
「はい。でも、こちらに引っ越してから、その彼を花嵐恋学園で偶然見つけたんです」
「えっ!? そうなの!? それって凄い偶然じゃないか!」
世の中ってのは、本当に不思議な事がある。小さな頃に出会った初恋相手と長い時を隔てて再会するなんて、まるでドラマのラブストーリーみたいだ。
「ええ。でも、相手は私の事を覚えてなかったみたいです」
「そうなの?」
「はい。でもいいんです。今の彼には、今の彼の時間と環境があるので」
美月さんの思慮深い言葉を聞いた俺は、近年稀に見るくらいに感動をしていた。
それにしても、美月さんみたいな美少女に長年想ってもらえてるなんて、その男の事が羨ましくて仕方がない。代われるものなら、是非とも立場を代わってもらいたいもんだ。
「そっか。でも、いつかその人が、美月さんとの事を思い出してくれるといいね」
「はい。もしも思い出してくれたら、きっとあの時の約束も思い出してくれると思いますから」
「あの時の約束? どんな約束をしたの?」
「それは……恥ずかしくて言えません…………」
俺の質問に答えた美月さんの顔が、ぱーっと紅く染まっていく。それはきっと、夕陽の光のせいではないだろう。
美月さんは自分の動揺や焦りを誤魔化すかの様に、スカートのポケットから白のハンカチを取り出して弄び始めた。そんな美月さんの手で弄ばれている白のハンカチには、可愛らしい猫のイラストが描かれている。
「あっ、ごめんね。変な事を聞いちゃって」
「いえ、そんな事は無いですよ…………私、先に戻りますね」
サッとベンチから立ち上がった美月さんは、一度もこちらを見る事なく、ホテルの方へと走り去ってしまった。そんな走り去って行く美月さんを見つめていると、不意に美月さんのスカートから白いヒラヒラした物が落ちたのが見えた。
それを見た俺は美月さんが落として行った物を拾う為、急いでベンチを立ってからその場所へと向かった。
「さっきのハンカチか」
美月さんが落として行ったのは、先ほどベンチで弄んでいた白のハンカチだった。きっと慌てていたから、ちゃんとポケットに入っていなかったんだろう。
俺は拾ったハンカチに付いた土埃を払い落とし、あとで美月さんへ返す為に自分の制服の胸ポケットへと仕舞った。
「……そういえば、小さな頃にこうやってハンカチを拾った事があったな」
遠い昔にあった出来事をふと思い出しつつ、俺はホテルへと歩いて戻った。




