第十七話 生き残った仲間たち
僕の身体に暗闇が染み込んできて、《聖なる泉》の魔力が抵抗し始める。
〈生命の水〉が僕を守ろうと熱を発し、〈堅固の風〉が暗闇を吹き飛ばそうと僕の周りを旋回する。そして〈祥華の炎〉が最大限の勢いで、暗闇を焼き払おうと炎を放出する。
だが、いずれも漆黒の闇に吸収され、暗黒が僕を蝕み始める。
《聖なる泉》の精から貰い受けた魔力が、糸を紡ぎ出すように僕の身体と精神から抜き取られる。そのあまりの苦しみに、僕は悲鳴を上げ続けた。
ああああああ―――――――。
暗闇の中で聞こえた声は、皆《聖なる泉》と契約を交わした者達の苦しみの叫び。その一つに僕も加わったのだ。身体中の力が抜け、《ソムレキアの宝剣》に触る事も出来ない。蹲る事も苦痛で、そのまま倒れ込み、僕は完全に闇に飲まれた。
こんな所で死んでたまるか、僕はセルジンを助け出すんだ。
セルジンを……。
必死にセルジン王の姿を思い出そうとするが、そのどれもが女神アースティルと結び付き、僕の苦しみを増す思い出ばかりだった。
セルジン。
セルジン!
セルジン――――!
細やかな幸福の記憶がすべて剥ぎ取られ、不幸な記憶が浮き彫りにされる。
王の記憶が遠ざかり、古い記憶の中にある母の最期の悲鳴が、僕の悲鳴と重なり、母を殺した魔王アドランの笑い声が、僕の中に狂気染みた苦痛と憎しみを引き摺り出す。
許さない、許すものか!
母上を奪ったあいつを、絶対に許さない!
魔界域の果てまで追いかけ、必ず消滅させてやる!
『君には、無理だよ』
突然、冷や水を浴びせられたように涼やかな声が、僕の狂気を遮り、心の中に響き渡る。
悲鳴を続けている僕には、誰の声か思い出す事も出来ない、ただの不快な雑音。
『いつまで騒いでも、君は魔界域の住人にはなれないよ。君の命の源は、僕なんだからね、オリアンナ。君は天界の住人だよ、いいかげん正気に戻れよ』
僕の周りに薄らと光が現れて、抜き取られる《聖なる泉の精》の魔力の流出が止まった。
苦痛から解放された僕を包む、光輝く翼。
ああ、なんて綺麗なんだ。
僕はそのまま、意識を失った。
「おい、起きろ。へたれ小竜、起きろ! 寝ている暇は無いぞ」
低い柔らかな声が、僕の耳元で声をひそめ呼びかけている。
起きる気力も回復しないまま、僕は重い目蓋を開けた。
目の前にテオフィルスの整った顔が、心配そうに真っ青な瞳で僕を覗き込んでいる。僕は彼に横抱きに抱き抱えられ、何処かへ移動しているようだ。
「大丈夫か? いきなり倒れて、お前の泉の精の魔力が、一瞬消えた。何があった? 心配したぞ」
彼の言葉に狼狽えながら、暗闇での嫌な記憶を思い出し、また苦しみに取り憑かれそうになる。涙が頬に伝った。
「分からない……。暗闇が襲ってきたんだ。僕の周りに、泉の精と契約を交わした者達がいて……、魔力を奪われて苦しみに叫んでいた。たぶん、あのまま魔界域に、吸収されていくのかもしれない。僕も……、同じ目に……」
身体が震え、涙が止めどなく流れる。
テオフィルスは顔をしかめ、同情するように僕を抱きしめ、頬にくちづけをした。
歩きながらの抱擁に、彼の荒い息に、抱き上げ急ぐ負担を思い知る。
「下ろしてくれ。もう、歩けるよ」
「駄目だ。お前の身体の冷たさは、まだ回復してない証拠だ。このまま、抱かれていろ」
回復してないのは確かだ。
僕は泣きながら、優しい彼に抱き付き左肩に顔を寄せ、苦しみの記憶から逃れるように甘えた。今はそうするのが、一番自然に思えたからだ。
彼は黙って、僕が回復するのを待っている。
身を任せているテオフィルスの息遣いが、力強い身のこなしが、竜の鎧の隙間から放出される体温が、僕の身体を温め鼓動が少しずつ高鳴り始める。彼の顔がすぐ目の前にある事に狼狽える。
なぜか恥ずかしさを覚え、僕は視線を逸らした。
そして……、ようやく気が付いたのだ、嫌な風が吹いている事に。
「なんだ、此処は?」
テオフィルス越しに見る周りの景色は、まるで激しい灼熱の嵐が四六時中吹き荒ぶ、異様な世界だ。
炎といっても竜の吐くものとはまったく対照的に、醜く邪悪な意思を秘めた炎。それが強烈な暴風に乗って、建物も樹木も跡形もなく焼き付くし、瞬く間に強風の中に飛び去る。そうかと思うと、飛び去った塵芥は戻って来て、歪んだ形状に再構成され、再び荒廃した世界を作り出す。その異様さを、永遠に繰り返しているのだ。
「こんな汚れた炎は、見た事がない。これが魔界域の中って訳だ」
彼は顔をしかめながら、吐き捨てるように呟く。
「下ろしてくれ、テオフィルス」
「やっと正気に戻ったか、へたれ小竜。よし、下りろ。重い!」
言葉とは裏腹に、彼は優しく僕を下ろした。
地に足が着き、感謝を伝えようと上を向いた瞬間、彼が唇を奪う。その行為があまりに自然で僕は抵抗する間もなく、驚きに目を開けたまま、ただ呆然と受け入れた。
「こんな時に……」
[こんな時だから。思い出せ、お前は誰か?]
アルマレーク語で囁く彼の言葉は、まるで呪文のように僕の心に浸透する。彼の少し困ったような優しい瞳は、僕に何かを求めている。
彼の求める何かは、いつも僕の心に湧き起こる言葉だ。
思い出せ。
それが何を意味するか、僕は知っている。
でも、その度にセルジン王を思い出し、心を塞ぐ。
「思い出したくない、今はまだ……」
彼の傷付いた眼差しを受けとめ、僕は必死に見つめ返した。厳しい顔をしたテオフィルスは、僕を強引に抱きしめ小声で囁いた。
[俺達に何があっても、お前だけは絶対に生き延びなければならない。だから……、セルジン王を助け出すためも、思い出すんだ]
それだけ言うと僕を突き放し、先へと歩き出した。
彼が死を覚悟している事に激しく狼狽えながら、僕は呆然と立ち尽くす。
思い出せ!
心の中で、何かが叫んでいる。
それが僕の感情を逆撫でする。
解っている!
僕がオリアンナ・ルーゼ・フィンゼルとして、テオフィルスの婚約者である事を受け入れれば、七竜の加護を得られる。そうすれば、この不利な状況を打破出来るかもしれないのだ。
そんな事は、解っている!
涙が出そうになるのを振り払い、セルジン王への想いにしがみ付こうと必死に姿を思い浮かべる。それなのに、思い浮かべる事が出来ない。それくらい僕の動揺は酷かった。
テオフィルスの悲しい瞳の残像が、僕の心を焼き尽くす。
「殿下、横を見ろ! 冷静になれ!」
トキの警告に、僕は我に帰った。
破壊と奇異な再生を繰り返す嵐の中で、僕は言われた通り横を見て驚愕した。
視界の悪さを無視するように、それはくっきりと浮かび上がる。
エランを抱えて移動する、《契約者》ハラルドの姿だ。
長い爪を押し付けられ、エランの首から真っ赤な血が流れ滴り落ちている。その血を目掛け醜い屍食鬼達が、彼の死を待ち構え死体を食いつくさんと群がり、後を移動して行くのだ。
僕達に気付く様子はない。マルシオン王が授けた魔法の羽が、僕達を守っているのだ。
僕は冷静さを取り戻し、テオフィルスの後を追った。
「テオフィルス! エランが……」
彼もハラルドの姿を、警戒しながら見ていた。
「落ち着け、あれはお前が意識を失っている間も、何度か通った。俺達を誘き寄せるための幻だ、害はない。それより、人らしき気配がある」
彼の指さす方向に目を凝らすと、吹き荒ぶ異様な嵐に耐えるよう固まる、人影が見えた。
「捕らえられた人達?」
「かもしれない。マシーナが偵察に向かった、俺達も後を追おう」
僕は後ろを振り返り、トキと宰相エネスが頷くのを確認した。
「行こう」
どうやって逃げ延びていたのだろう?
罠かもしれないが、一縷の望みを、捨て去る事は出来ない。
僕達は時々立ち止まり、辺りの様子を伺いながら先を行くマシーナに、徐々に近付いた。強風は僕達に影響しない、これも魔法の羽の効力か。
[マシーナ、人か?]
少し前を行くマシーナが、振り向きざま叫んだ。
[はい、国王軍です]
マシーナが少し残念そうに頷くのは、竜騎士の姿がないからだ。赤い国王軍の長衣の中に、レント領騎士隊の黄褐色の長衣が見えた。どことなく見覚えのある背中に向けて、僕は思い切り大声で叫んだ。
「ベルン長官? ロイ・ベルン指揮長官ですか?」
その人物は少し顔を上げ、分かるように頷いた。顔は疲れ切り年を取って見えるが、間違いなくエランの元主君だった。彼もいなくなった者達の一人だ。
トキが走り寄り彼に触れようとしたが、ベルン長官が制止する。
「駄目だ! 俺達がここを動くと、中にいるアルマレーク人が死んでしまう。触らないでくれ」
テオフィルスがベルン長官に近付き問い質す。
「どういう事だ? アルマレーク人を守っているのか?」
「そうだ。俺達は陛下から賜った護符に守られているが、アルマレーク人には……、護符が効かない! もう、何人も死んだ」
テオフィルスは顔を顰め、項垂れた。
僕は護符をもらっていない。それは魔法を使えない者達がセルジン王から賜る、小さい不思議な模様の描かれた金属製の護符。普段は特別な効力もないが、この魔界域では効力があるのだ。
僕は慌ててマルシオン王の羽を取り出した。
「アルマレーク人は、何人いる?」
「二人です、殿下」
長官の言葉に、今度はマシーナが頭を抱えた。行方不明のアルマレーク人はもっと多かったはずだ。
僕の魔力は復活しつつあり、迂闊に長官に近付く事が出来ない。羽をテオフィルスに二枚渡し、彼等が守るアルマレーク人に身に着けるよう伝えた。
しばらくして囲いは解かれ、中から竜騎士一人と少年が姿を現した。
[ルギー!]
奇跡のように生き残った少年は、恐怖と驚きに呆然としていたが、やがて大粒の涙を流し、テオフィルスに抱き付いて大声で泣き始めた。
〈七竜の王〉は、優しく彼を抱きしめる。
[もう嫌だ、こんな所……。嫌だよぉ]
[ああ、ルギー。もう大丈夫だ、必ず脱出しよう。必ず!]
そう言い聞かせる彼の顔は、暗く沈む。
僕達が入り込んだ出入口は、異様な嵐の中で跡形もなく消えていた。




