結婚式
夜明け前の光が、長いカーテンの隙間からそっと差し込んでいた。
まだ街が目を覚ます前、アイゼン家の屋敷はすでに静かな熱を帯びている。
柔らかな水音。
香草を浮かべた湯。
布が擦れる音。
幾人もの手が、丁寧すぎるほどに身体を整えていく。
髪を梳かれ、結い上げられ、
肌に粉をのせられ、
唇に淡い色が添えられる。
鏡の中の自分は、どこか現実味がなかった。
数か月前から始まった準備。
衣装、儀式、招待客、式次第。
ひとつ終わるたびに、また次が積み上がっていく。
(結婚式って……こんなに大変なんだ)
前世を含めても、経験はない。
逃げ出したくなるほどではないはずなのに、
胸の奥が、そわそわと落ち着かなかった。
正確に言えば――
逃げたい、という感情が浮かんだ瞬間には、
すでに逃げ道は存在していなかった。
それを用意したのが、誰なのかは考えなくてもわかる。
「お迎えにあがりました」
扉の向こうから、静かな声が届く。
「はい」
返事をした自分の声が、少し震えていた気がした。
ベールを下ろされると、視界が白く滲む。
世界が、柔らかく、遠くなる。
深呼吸をひとつ。
もうひとつ。
三度目で、ようやく心臓の音が落ち着いた。
扉が開く。
光が、流れ込んできた。
長い通路の先。
まっすぐ進めば、待っている人がいる。
眩しいほど整った姿。
微動だにしない背筋。
それでも、こちらを見た瞬間に、わずかに呼吸が変わったのがわかった。
一歩。
また一歩。
差し出された手に、指先を添える。
逃がさないと言うように、ぎゅっと力が込められた。
その温度に、胸が静かに満たされていく。
誓いの言葉。
祝福の声。
天井の高い空間に、祈りが反響する。
「誓いの口付けを」
ベールが持ち上げられた瞬間、
目の前の人が、はっきりと息を飲むのが見えた。
ごくり、と喉が鳴る音。
思わず、ふっと笑ってしまう。
視線が絡み、自然に距離が詰まる。
重なる唇。
その瞬間――
ぱあっと、光が弾けた。
祝福の光。
きらきらと舞い落ちる粒子。
明らかに、普通ではない量。
ざわめく参列者。
目を見開く神官。
(え……ちょっと光りすぎじゃない?)
不安がよぎる間もなく、
厳かな声が続いた。
「二柱の祝福により――」
彼が、小さく呟かれた言葉。
「Two deities……」
その声音には、諦観と覚悟が混じっていた。
強く握られた手を、私はそっと握り返す。
恐い。
でも、離される気配はない。
光に満たされた教会。
愛しい人の腕に抱かれている限り、幸せから逃げる術はなかった。




