【二十三】運命の日
昨夜は良く眠れないまま、朝早くから目が覚めてしまった。昨夜の電話に自己嫌悪し、気分を変えるために早朝ランニングでもしてこようと起き上がる。
この時期の朝の六時はもう明るく、近くの公園を目指して走る。春の気配が漂う早朝の道は、犬の散歩をしている人や、同じようにランニングをしている人、早足でウォーキングをしている人、のんびりと散歩を楽しんでいる人と、様々な人を見かける。皆の穏やかで清々しい表情を見ていると、鬱々としていた自分が馬鹿らしくなった。
公園に数本ある桜の木は、薄いピンク色の蕾が膨らみ、今にも咲きそうだ。
あいつと別れた四年前から、俺にとっての春はずっと凍結されたままだったような気がする。それがようやく融ける日が来たのだと、桜を見上げながらじわじわと胸に暖かさが広がり始めた。
――――大丈夫。
その妙な自信が心の中に生まれる。
大丈夫。二人の気持ちが同じ方向を向いているのなら、未来に向かって道は伸びていく。
俺は再び自宅へ向かって走り出した。
約束の時間は午前十時だけれど、少し早い目に家を出た。それは市役所へ寄るためだ。今日は土曜日だけど、婚姻届は時間外窓口でもらえるらしい。
拓都が受け入れてくれたら、すぐにでも籍を入れたいという気持ちと、今日拓都に対峙するためのお守り代わりだった。
あいつの家に近づくと共に落ち着かない気持ちになり、何とか辿り着いたのは約束の約十分前。
車から降りて、玄関のチャイムを押す。しばらくすると「どうぞ」の声がかかり、俺は静かにドアを開けた。
「あれ? 守谷先生」
俺の姿を見た途端、拓都が声をあげた。そして、問いかけるようにあいつの顔を見上げている。
「おはようございます」
俺は不安を吹き飛ばすように笑顔で挨拶をする。あいつと拓都もつられたように挨拶を返してきた。なんだかあいつの緊張具合が見えて、反対にこちらは落ち着いた。
「守谷先生、どうしたの?」
拓都が俺を見上げて尋ねる。これから何が起こるか分からない拓都にとって、素直な疑問だろう。
「拓都に話があって来たんだよ」
「えー! またサンタさんに頼まれたの?」
拓都にとって俺とサンタさんの話はワンセットなのか。
「いやいや、先生が拓都に話があるんだよ」
とりあえず、サンタ疑惑は否定しておく。
「あの……、とにかく上がってください」
拓都との会話に、あいつは遠慮がちに、でも有無を言わさない雰囲気で口を挟んだ。まあ、玄関では話にならないから、もっともだけれど。いよいよ運命のステージへと、上がる時が来たようだ。
リビングで勧められるままソファーに座ると、あいつはお茶でも入れるつもりなのか、台所の方へと離れて行った。すると、拓都が隣に座わり、「ねぇねぇ、守谷先生」と話しかけてきた。
「あのね、もうすぐ僕のパパになりたいって人が来るんだって」
「えっ!」
拓都の話しに驚いて、思わず大きな声を上げてしまった。すぐにあいつの方を見ると、あいつも俺の声が聞こえたのか驚いたようにこちらを見ている。
俺は視線で『拓都に話したのか?』と尋ねてみたが、台所のカウンターの向こうに居るあいつに伝わるはずも無く、すぐに拓都に視線を戻した。
「ママが言っていたのか?」
「うん。守谷先生、その人はね、ママの大好きな人で、僕とママを守ってくれる特別な人で、その人だったらママは悲しまないんだって。だから、いいんだよね? その人が僕のパパになっても」
拓都はその人が目の前の俺だとは思いもしないのか、嬉しそうに話し、尋ねてきた。
そうだよな。自分の担任がパパだなんて、思いもしないよな。
それでも、こんな話をしてくれたのは、俺がクリスマスにパパについて話したからだ。
何よりも嬉しかったのは、昨夜まで拓都に話すのは俺任せのようだったあいつが、先に拓都に話していてくれたことだ。まあ、その人が俺だと話していないのは、あいつの照れ臭さのせいだと思っておこう。
昨夜までのあいつは、どこか結婚に対して臆しているような所があったけれど、やはりあいつは土壇場で力を発揮するタイプか。
俺が嬉しさに胸を詰まらせていると、あいつがお茶をのせたお盆を持って近づいて来た。そして目の前のテーブルに茶托に乗った湯飲みを置いた。先に話していた様子なんて、これっぽっちも見せないあいつは、やはりツンデレだ。
俺はそんなあいつに、感謝を込めて微笑みかけた。そして、あいつがここまでお膳立てしてくれたんだと思うと、何かに突き動かされるように、俺は立ち上がっていた。
驚いて見上げるあいつに『後は任せてくれ』と気持ちを込め頷くと、テーブルを避けてラグを敷いた床の上に正座し、ソファーに座っていた拓都に対峙した。
「拓都君。拓都君のママと結婚させてください。それから、拓都君のパパにならせてください」
まるで恋人の父親に結婚の許しを請うように、俺は拓都に向かってお願いすると頭を下げた。
「先生、僕のパパになりたいの?」
「そうだよ。拓都のママと結婚して、拓都のパパになりたいんだ」
拓都の問いに、俺は自分の気持ちを訴えた。ママが話していたのは俺なんだと思いを込めて。
しかし、拓都はうつむいて何かを考えた後、あいつの方を見て眉を下げて情けないような顔をしている。
ん? どうした? ママから聞いて了解したんじゃなかったのか? まさか、俺だったら、ダメなのか?
俺は急に不安に襲われた。
「守谷先生、さっき話したけど、ママには大好きな人がいて、その人が僕のパパになりたいんだって。だから、先生は僕のパパにはなれないと思う」
拓都が申し訳なさそうに言うのを聞いて、俺は驚きすぎて呆然としてしまった。
まさかまだ拓都が、ママが話した人と俺が同一人物だと分かっていないなんて。
呆然としている俺の隣に、あいつが慌てて座り込み、拓都に対峙した。
「拓都、違うの! 先生が来る前に話した、拓都のパパになりたい人は守谷先生のことなの!」
「え! ホント?! ママが言っていたのが守谷先生なの?」
拓都が驚きの声を上げるのを見て、俺はやっとほっと息を吐き出した。あいつが隣で、拓都の問いかけに「そうだよ」と頷いている。
さあ、もう一度仕切りなおしだ。
「拓都、もう一度聞くけど、拓都のママと結婚して、拓都のパパになってもいいか? 俺を二人の仲間に入れてくれるか?」
「仲間?」
「そう、三人で家族という仲間になりたいんだ」
俺の言葉に、拓都は少し考え込んだ。そして、ようやく口を開いたのは、思いがけない問いかけだった。
「先生は、ママのこと、好きなの?」
拓都の問いかけを聞いて、自分の失敗に気づいた。こんな大前提を伝えていなかったのか。これはクリスマスの時に、俺自身が言ったパパの条件だったはずだ。
「もちろん、ママも拓都も大好きだよ」
俺は満面の笑みで答えた。この気持ちだけは、誰にも負けない。すると今度はあいつが、拓都に向かって問いかけた。
「拓都は、守谷先生のこと、好き?」
ああ、そうだよな。拓都の気持ちも聞かないと。たとえあいつが今まで、拓都は守谷先生が大好きだからと言っていても、パパとしてという条件下では、どう思うか分からない。
「うん。好きだよ」
拓都はどこかホッとした様に答えて、笑顔を見せた。同じように俺もホッとして笑い返す。そして、俺はもう一度言い直すことにした。
「拓都、ごめんな。言い方が悪かったな。俺は拓都のママの美緒が大好きで、結婚したいと思っている。それから、拓都のことも大好きだから、拓都のパパになりたいと思っている。そして、二人を守れるように家族になりたいと思っているんだ。拓都はどう思う?」
拓都が何と答えるか、俺は息をつめて見守った。あいつも隣で口も挟まずに神妙にしている。
「ママも先生と結婚したいの?」
困惑した表情でしばらく俺達を見ていた拓都が、あいつの方へ視線を向け、ポツリと聞いた。
突然の問いかけに、あいつはうろたえ、声も出せずにただ大きく何度か頷いた。それを見た拓都は「そっか……」と寂しそうに言った。そんな拓都の様子にあいつは慌てた。
「拓都、ママは結婚しても、ずっと拓都のママだからね。その上に、パパまでできるのよ。陸君のお家と一緒なのよ」
あいつは努めて明るい声で、拓都に話しかけた。拓都はパッと顔を上げると「陸君のお家と一緒? 本当に?」とまた首をかしげた。
再びあいつがうんうんと頷くと、拓都は嬉しそうな表情になり、今度は俺の方に視線を向けた。
「守谷先生はゲームできる?」
「もちろんできるよ。それに、キャッチボールもスキーだって。俺が拓都のパパになったら、一杯一杯遊ぼうな」
ずっと願っていたことだ。家族でしたいことが一杯あるんだ。そんな思いが今にもあふれそうになった。そして拓都の方も、嬉しそうに目が輝きだした。
「それじゃあ、陸君の家は、弟か妹が生まれるんだって、僕にも弟か妹ができるの?」
「拓都、それはママ次第だな」
拓都の言葉は驚いたが、俺の隣で固まるあいつの心情を想像して笑いがこみ上げる。
「拓都、違うの。赤ちゃんは神様からの贈り物だから、どんなに欲しいと思ってもその通りにはならないのよ。我が家にも赤ちゃんができますようにって祈るだけで……」
あいつはすまして答えた俺を睨むと、慌てて拓都に説明する。しかし、拓都は耳に入らないのか、嬉しそうな顔をして身を乗り出した。
「僕ね、弟が欲しいんだ」
子供の言葉とはいえ、拓都の願いは、俺たちの結婚を前提としている。これは受け入れてくれたということだよな。そう思うと嬉しくて、俺は「うーん、俺は女の子がいいなぁ」と茶化した。
「あなた達、何を言っているの? そんな思うようにはいかないから……」
真面目なあいつは、恥ずかしさが先立つのか、否定するように言い募る。
あいつは分かっていないな。拓都の言葉に含まれる心情を。
「美緒、拓都が弟欲しいって。良かったな」
そう言ってあいつに笑いかけると、ようやくあいつも理解したようだった。
「拓都、俺も家族になっていいんだな? 拓都のパパになっても」
「うん。先生も仲間にしてあげる」
拓都の言葉に俺は感極まって「ありがとう」と拓都を抱きしめていた。




