‐15‐ 別れの時
「怪我をしているのか? クロエ」
ハンスマンは柔和な笑みを浮かべる。
サーカス団の団長に相応しく、背の高い帽子に黒い外套を羽織りながら、ゆっくりと近寄ってくる。長身痩躯な体つきでありながら、異様なほどの存在感がプレッシャーとなってライオネルの周囲の重力を重くしていた。
背後にはハンスマンが乗っていたと思われる浮上艇が控えていた。
増援の可能性もあるが、待ち構えていたのはたった一人きり。これだけならば、難なく突破できそうだった。
だが、異様なほどの殺気にライオネルは気圧されていた。
「済まなかった。ジェラート達がやり過ぎたようだね。だが、もう安心していいよ。これからは、この私がクロエを全身全霊をかけて加護することを約束してあげよう」
「……私……は、」
「クロエ、私はなるべくなら君を殺したくなんてない。君の魔法はこれからも充分に私のために役立てるものだよ。私とて、そんな大事な君を失いたくはないのだよ」
「クロエは、あなたの元には帰りません」
衰弱しきったクロエを地面に下ろす。
怯えているクロエを庇うようして、ライオネルはハンスマンの前に立ち塞がる。すると、今まで眼中にないといった様子だったハンスマンが、ようやくライオネルに焦点を合わせると、
「……そうか。君がクロエを唆したのか。だがな……私は寛大だ。今の妄言は聞かなかったことにしよう。そして、今すぐここから立ち去れば、君のことについては目を瞑tってあげよう。命を粗末にするのはあまり利口ではないよ」
「利口かどうかは、あなたが決めることじゃない。――これから、決まる」
「やめて!」
クロエの絶叫が頭の中に木霊する。
ミチミチッと脳の神経が破裂しそうな音をさせながら、ライオネルは魔力回路を制御下におく。ドォン! と、地面を蹴る音すら爆音。伝家の宝刀である高速移動をすると、強烈な拳をハンスマンの鳩尾に叩き込む。……叩き込めるはずだった。
「愚かだな」
だが、ハンスマンは手を空中に突き出した。それだけだ。突き出しただけの手に吸い込まれるようにして、ライオネルは突進して行く。そして、カウンターの要領で肋骨に掌打が喰い込む。ギチギチという骨の折れそうな音と共にライオネルは吹き飛ぶ。
「ぐあああああっ!」
土煙を上げながら地面を無様に転がる。
ハンスマンから数百メートル離れた地点で、ようやく止まることはできた。
だが、体を動かすことができず、目を向けることもかなわず、手を上げることもできないほどの一撃。命を根こそぎ奪うかのような痛烈な攻撃だった。
「どうしてそんな眼で睨むのだ、クロエ。私とてこんな結果の分かっている戦いなどしたくはないのだ。それに忠告はした。無視し、攻撃を仕掛けたのはそこで地べたを這いずっている虫ケラのような彼だ。お門違いというものだよ。……そうだな、敢えて憎むというのなら、その対象は私ではない。憎むべきは、そう……君自身だよ」
クロエはライオネルを見て、震えていた。
ハンスマンの暴言に何も言い返すこともできずにいた。
「君がもっと本気で止めなければ、彼は傷つくことはなかった。君が期待しなければ、彼は戦わなくて済んだんだ。この事態を招いたのは君以外の何者でもない」
クロエは唇を青ざめさせながら、自分がライオネルを傷つけてしまったと思い込んでいる顔をしていた。
「さあ、もう充分だろう、クロエ。私とともに『パラダイス・ロスト』へと帰ろう。自らがいるべき場所は、こんな弱い者の隣などではない。君は、私のような神の膝下にいればいい」
ダンッ、と拳を地面に振り上げた。
不甲斐ない己に怒りをぶつけるように。
挫けそうになっている己を鼓舞させるために。
目の前にいるクロエを助けるために、朦朧とした意識のまま、ライオネルは立ち上がった。
「…………クロエがっ……いるべき場所はっ……お前のいるところなんかじゃないっ……」
「……これはこれは。驚いたな。一撃で昏倒するように手加減したつもりだったのだが、これはまた随分と優秀な護衛のようだ。だが、徒労というものは、重ねれば重ねるほどに苦行は続いていく」
「うる――さい!」
ライオネルは魔法術式を展開する。
先ほどに比べると速度は落ちていない。寧ろ、満身創痍の身体でその速度の桁は上がっていた。常人ならば、何をされたのか分からずに、ライオネルの攻撃を身に受けていただろう。
だが――
「どれだけ疾くとも、『神の右手』から逃れる術はない」
ドンッと、心臓を貫く勢いで掌打を当てられる。磁石同士がくっつくかのように、自然なソレは、確実にただの物理攻撃ではない。何らかの魔法に違いなかった。
勢いを殺しきれずに、ライオネルはハンスマンのすぐ隣で膝をつく。ガッと、膝下に吐血すると、そのまま前のめりに倒れこむ。
「そうか。どこかで見た顔だと思ったら、君はかの有名な《ライトニング・ウォーカー》か。これはまたなんという奇縁だ。まさか、こんなところで大罪人とまみえることになるとは」
「大……罪人……?」
「そうだよ、クロエ。この男はね――殺したんだよ。自らを守護してくれていた神霊を、その手にかけたのだよ。……力欲しさに欲をかくとは、なんという罪深きものよ……」
大仰な手振りをしながら、得意げに宣う。鼻歌でも歌いそうなぐらい上機嫌なハンスマンは、クロエに詰め寄っていく。
ライオネルは口の端から血を流しながら、
「――何も知らないお前如きが、ほざくな」
「そうだな、私も詳しくは知らないよ。もっとも、罪人の過去など知りたくもないのだがな。……だが、結果として神霊の力を受け継ぎ、そうして力を行使しているのは事実なのだ。死んだ神霊がいるにも関わらず、君はこうしてのうのうと生きている。しかも、大戦が終結すると同時に騎士をやめ、隠遁生活を送っていたのだろう? ……自らの過去の罪を綺麗さっぱり忘れ去るために」
「僕はッ……」
閃光のように、去来したのは寂しそうな表情をした神霊だった。これからどんな未来が待ち受けているのかも、全て承知していたかのようだった。
『ねえ、ライ。知ってた? 私はずっと君のことを――』
血風吹き荒れる中、彼女だけが救いだった。彼女を護れるのなら、命懸けで戦場を駆けることを心の中で誓っていた。
「僕はッ……」
最期の最期。
彼女は血溜まりに沈みながら、懇願してきた。
『みんなを救うことができるのなら、私はどうなったって構わない。……ライオネル。だから、この私を――』
もしも、あの時ライオネルがもっと強くさえあれば、どれだけの人間を救うことができたのだろうか。誰かを救うことを夢みて、騎士になる道を選んだ。だが、戦場というリアルを知って思い知った。ライオネルには一番大切な存在を護れる力さえないということを。
なにが、《十二魔纏剣》だ。
なにが、《大戦の英雄騎士》だ。
なにが、《ライトニング・ウォーカー》だ。
結局は、死んでいった仲間たちの後を負えなかった、ただのライオネルでしかなかった。腰抜けに過ぎなかった。そんな奴に、どんなことが――
「それでも、ライは私を助けてくれた!」
ライオネルは、ゆっくりと横に首を回す。
「過去にどんななことがあったかなんて……そんなの今のライには関係ないっ! 私はそんなこと知らないっ! ……だからッ……そんな顔しないで……」
クロエは、滂沱の涙を頬に流していた。
まだ発熱していてフラフラでおぼつかない足取りのにも関わらず、ライオネルのことを思って高い場所で連なる雲に届くかのように彷徨した。
クロエを見やったハンスマンは、目を見開くと、
「偽物の器に空虚なる心が宿ったのか……」
「偽……物って?」
「なんだ、もしかして私達の研究所を見てなかったのか」
村にいた時は昏睡状態だったクロエには、思い当たる節などない。だが、ライオネルはその言葉を恐るようにして小さく呟く。
「……研究所」
「そうだ。どうやら《ライトニング・ウォーカー》。君には心当たりがあるようだな。私達は研究していたのだよ、仮初の肉体に、虚ろなる命をもたらす研究を。……そして、ついに私専用の四体の兵器が完成したのだ。魔法を操ることのできる、人間の形態をなした木偶をな」
「そん、な……」
クロエは、涅槃でも見たかのような顔をする。
ライオネルは研究所にあったレポートの内容を思い浮かべていた。人体実験の記載され、そしてハンスマンの言葉を統合させると、導き出された答えは、
「そうだ。クロエは人ではない。この私の傀儡人形に過ぎないのだ」
クロエは嘘、と独りごちるが、どこか思い当たることがあるようで、自信を持った声を発すことができずにいた。
多分、記憶喪失だ。
いくらなんでも『パラダイス・ロスト』の団員全員が都合よく記憶をぽっかりと消えていたこに違和感を覚えていたに違いない。
それに、ジェラートは既にこの事実を知っていた。ライオネルが知らない以前に、自分たちが人間ではないことについて、仄めかすようなことをクロエに漏らしたのかもしれない。
「だが、安心していいのだ、クロエ。君の存在価値はこの私が見出してあげよう。私が君を必要としてやろう」
「ふざ、けるな」
指一本動かすことのできないライオネルには、吼えることしかできなかった。負け犬のような無様な姿を晒しながら、どうすることもできないでいた。
「君には激昂する権利はあるのか? 君だって、クロエを利用していたのではないか? 自らの自己満足のために」
「……な、に?」
「先ほどの言動から思うに、君は神霊を殺した罪を贖う術を探していたのだろう? そこにクロエが現れた。憐れなクロエを救うことで、過去の罪を精算できるとでも思っただけなのではないのか。誰かを助けようとしている時だけ、自らの罪から目を背けることができることを、本能的に感じ取っていただけなのではないのか。私の言ったことに、どこか相違点があるのか?」
「……違う」
「重ね合わせていただけではないのか。自らが救うことができなかった神霊とクロエを。神霊の代替品として、その場にいたクロエを利用していたのではないのか」
「違うッ!」
「私ならば、君よりも、もっとクロエの存在価値を引き出すことができる。この世界の変革のための礎として、私に使われることこそが、彼女にとっての真の幸福なのだ」
「誰かに武器扱いされることが、幸福なはずがない」
神霊だってそうだった。
まるで自らが武器であるかのように、その身を磨り減らした。そんなことが、そんな人生が本当に幸福だったのか。笑って死ぬことしかできなかったことが、本当にいい人生なのか。
「人は誰かに使われることで、ようやく生きる意味を見出すことができるのだ。それのどこが悪い。むしろ、人として生きれなかった彼女にとって、これは最も最善なのではないのかな。たかが傀儡人形に価値を見出した、この私に感謝して欲しいぐらいだ。これは人として生きるために彼女に残された最後の道なのだよ」
「……そして、戦争を起こすのか」
「これは、聖戦だよ。この世界から内戦が絶えることがない。何故だか分かるか? 優秀な先導者がいないからだ。この世界を正しき道に導く人間がいないのならこの私がなろう。私が神になり、この世界を統治する」
「神……?」
何かの比喩表現なのかと思ったが、どうやら本気で神になろうとしているらしいことは顔を見ればわかった。
「そうだ。私の魔道は『神になる』ということなのだ。無意味な争いをこの世界から無くしたいがために、私はついに手に入れたのだよ。――人の命を操る力を」
ハンスマンは自らの偉業を興奮ぎみに語ってくる。
「この魔法を応用すれば、命持たずるものに仮初の命を芽生えさせることができるのだよ。この素晴らしさが君に分かるか」
くだらない、と吐き捨てるようにしてライオネルは一蹴した。
「僕の……あいつの魔道は『限界を限界でなくす』こと。どんな不条理にだって膝を折らないために、身命を賭して極めた魔法だ」
だから、こんなところで倒れたままでいるわけにはいかない。
「……そうか、その言葉。命をドブに捨てるという意味でいいのだな」
闇から忍び寄るような声で呟く。
ハンスマンは死神の鎌のように長い手を揺らしながら、こちらに近づいてくる。ライオネルは微動だにできないままだった。
「待って、ください!」
クロエが、恐怖にすくみながらも、ライオネルの前に立つ。
「団長の目的は、何なんですか?」
「勿論、君が無事に私のもとに帰ってくるということだよ。《纏神装器》を持ってね。あれがなければ、こちらも戦争を始められない。この世界から戦争をなくすための、素晴らしい戦争をだ」
「それじゃあ、私が団長のもとに帰ればいいんですよね。私が抵抗せずに『パラダイス・ロスト』に帰れば、ライに一切手を出さないということをここで約束してください」
「……クロエ、君は何を言ってるんだ」
ライオネルは信じられないという顔で、声を震わす。
「そうだな。私はそれで構わないよ。一人の命が今ここでどうなろうが、これからたくさんの人間に神罰を下すのだから。彼の命がどうなろうが、今の私にとっては些事なのだ。約束してあげよう。その従順な態度に慈悲を与えよう」
「……ありがとうございます、団長」
その言葉を告げることが、どれだけクロエの心を傷つけたのだろう。
自分が人間でないと知って、本当は誰よりもショックを受けているはずなのに。それなのに、自分のことよりも、ライオネルのことを優先させている。
「クロエ! 何を! 君は……?」
「ライ、今までありがと。…………そして、ごめんね」
「あや、まるなっ……。絶対に……僕がクロエのことを助けてみせるから! 護ってみせるから!」
動こうとすると、心臓が破裂しそうだった。
そうして藻掻いている内にも、ハンスマンとクロエは浮上艇へと乗り込もうとしていた。刻一刻と、別れの時間が訪れようとしていた。
「私は……人間じゃなかったけど、ライと一緒にいれて――きっと幸せだったよ」
「クロエ、分かっているのか。これから何百、何千、何万。……いや、それ以上の人間が死ぬことになる。世界中の人間を敵に回して、君が無事で済むはずがない! そいつについていけば、君は死ぬかもしれないんだよ!」
そんなことは分かっている。
そう言いたそうな顔をしながら、クロエは自ら死ぬ道を選択する。
「……私は、やっぱり人間じゃない。……だって、何百、何千、何万の人の命よりも、たった一人の命の方が――よっぽど尊いから」
また、クロエとの距離が離れていく。
瞳から溢れそうな涙を零さないよう、必死で堪えているクロエ。それは、ライオネルが罪悪感に駆られないように。そんな、誰もが見過ごしそうな小さいこと。
だけど、クロエはどんな些細なことであっても、今ライオネルを救うために尽力していた。
どれだけ胸が苦しくても、これが最後の言葉になるということが分かっていながらも。
ただ、大切なものを助ける。
たった、それだけのために自分ができることをやっていた。そのことに気がつけたのは、常に敵の挙動を読み取り、弱点を突いてきたライオネルだったからこそ気がつけてしまったことだった。
「クロエ、待て! 待って……くれ……」
救いたかった。
もうこれ以上、目の前の誰かが傷つくのを目にすることが嫌だった。
それなのに、何もできない。
ぐぐぐ、と体を起こそうとするが、酷使した体はライオネルの意志に反してしまう。
「行くな、行くなああああああああああああ!」
そして、最後の言葉を、クロエは血のように紅い空に響かせる。
「じゃあね、ライ」




