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懇願





(血肉で……古代竜を召喚……)


 背中が痛いというより燃えるように熱い。食いしばりすぎた所為で唇が切れて血が溢れ、それでもリディアは倒れなかった。細く長く、喘ぐように呼吸をしながら動きの悪い脚を引きずって前に進む。巻き起こした吹雪はまだ収まらないのが幸いだが、出血と冷風でどんどん体温が奪われていく。


(……死ぬのかな)


 瞼が重くなり、徐々に一歩が踏み出せなくなる。心臓に絡む白い手は沈黙し、ただ自分の呼吸の音とごうごうと轟く風の音、凍りかかった雪を踏むぎしぎしいう音だけが世界を占めている。


 自分の背中を斬った相手はどうなったのだろうか。

 真っ白な雪に真紅をまき散らして喘ぐ存在など、放っておいても死ぬとそう思っているのだろうか。


(倒れたところを……)


 古代竜の贄にする。


(それもオーガストとシルビアの計画なんだろうか……)


 み~つけた、と。そう歌う様に告げた軽やかな声。背後からだったため、それと真っ白な闇の中にいたため誰がそれを呟いたのかわからない。


 だが「そいつ」は躊躇いもなくリディアの背中を斬った。


(やば……)


 背中の痛みが徐々に薄れていく。それと同時に足が動かなくなり、凍えるような寒さが遠のいていく。ふっと目の前が暗くなり、はっと目を開けると硬い雪の地面がリディアの目に斜めに映った。


(……ここでも死ぬのか……)


 結局、リディア・セルティアは死ぬ運命らしい。それも……間接的とはいえ……オーガストに殺されて。舞う雪が空間を埋め、世界は白一色だ。じわじわと心の端から諦めが迫り、黒く塗りつぶしていく。


(……こんなことなら……)


 ふっと、リディアは混乱する頭の中で苦く笑った。こんなことなら嫌でも王都から出なければよかった? それとも婚約式なんかしなければよかった? さっさと公爵家の屋敷から逃げ出していれば? ブルーモーメントに依頼しなければ? 女神の言葉に乗らなければ……?


 どこまで辿っても、「こうしなければよかった」という正解が出てこない。結局、自分で選んだ選択肢の果てがここなのだ。是非もない。


(まあ……いいか……)


 拾った命のようなものだ。あの女に刺されて殺されて、次に生まれ変わる前に拾われただけなのだ。それならば、今度こそちゃんと……自分の人生を生きれる人に生まれ変わりたい。


 じわじわと、再び意識が遠のき、リディアは動かない身体のまま視線だけを動かした。

 ふと、左手の薬指に嵌った豪華な指輪が見えた。嵌めていた手袋はどこかに落としたのか失くしたのか、真っ白な指が見える。青い宝石がゆらゆらと光を放っている。それはやがて徐々に翳り、真っ青だった宝石の色がじわじわと暗く深くなっていく。やがて、中央に金色の滲む……良く見上げる『彼』の瞳とそっくりの色合いになっていき、リディアは目が離せなくなった。


 今ここで死んだら、この身体を使ってオーガストかシルビアか謎の第三者が古代竜を呼び出すだろう。


 小説の中ではリアージュの大量の血によって呼び出されていたが、今回は人一人分の血肉が餌になる。前は完ぺきではない竜だったから、オルダリア騎士団他、各家の騎士団で倒すことができたのだ。


 だが今回はきっと……立派な竜が召喚されるのだろう。


 リアージュとエトワールは物語のヒーローとヒロインなので、きっとこの古代竜を倒し、二人は互いに愛情を抱く。そうして美しい青空の下、美男美女のカップルが鳴り響く鐘の音の元将来を誓い合うのだ。


 ──……リディア・セルティアの犠牲の上に。


 ぼろっと、熱い雫が頬を伝い、リディアはもうないと思っていた熱量が腹の奥から込み上げてくるのを覚えた。


(ぜったいやだ……)


 何故自分の死が、幸せなカップルの誕生に繋がるのか。どう考えてもおかしい。ていうか、竜の生贄なんて嫌に決まっている。


 じわじわと狭まり、溢れる涙に揺れる視線は縋るように大きなサファイアに注がれる。薄明色へと変貌するそれに、リディアは真っ白になった唇を開いた。


「……リアージュ……」


 喉が詰まる。

 呼吸が乱れる。


 それでもリディアは震える声で囁いた。


「……たすけて……」


 刹那。


 どん、と低い音を立てて何か、巨大な力が吹雪の中心を貫き、一瞬にして辺りを覆っていた白い闇が晴れる。同時に力の通過によって吹っ飛ばされたり、抉れたりした木々により、林の真ん中に道ができた。


「リディアッ!」


 絶叫なのだろうが、リディアの耳には辛うじて聞こえた。水中にいるように音がくぐもって届く。


(偽の……婚約者だけど……)


 死にそうな時に、呼んだら来てくれるなんてかなりの高得点だ。


「リディアッ! リディアッ!」


 切羽詰まった声が割と近くで響き、かろうじて開いていただけの瞳に、今度は本物の薄明が映った。身体が痛いのかどうなのかわからない。感覚が全部遠い。でも、大写しになったリアージュの、今にも崩れ落ちそうな表情に、リディアは真っ白な唇を笑みの形に引き上げようとした。


 何が指一本触れさせないよ。遅いのよ。


「駄目だ……! リディア! 目を開けろ!」


 無理だって。


「リディアッ」

「……リアージュ……」


 かすれた声が出た。あまりにも煩いから黙らせたい。それに自分は十分に出血した。それだけでも古代竜を呼べる。だから早急に……この場を去る必要があるのだ。それらすべてを伝えようとして。


「…………いきたい」


 たった一言。


 それを伝えてリディアは音も光も温度もない世界へと転げ落ちていった。



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