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戦闘




 ぎゅっと白い手袋をはめた手を握り締め、リディアは目を閉じた。心なしか心臓が苦しい。ここ数日大人しかった白い手の力が徐々に強くなり、憎き相手がすぐそこにいることを訴え始めた。


「お嬢様?」


 様子のおかしいリディアに気付いたナインの、かすかに緊張した声を耳にしながら、リディアは首を振った。


(まだ大丈夫……)


 白い手の怨嗟の声はそれほど酷くない。恐らくまだ遠くにいるのだろう。エトワールの魔力探査能力を使わなくても、オーガストに関しては魂だけとなったリディア本人が一番よくわかるのだろう。冷や汗が背中を濡らしていく中、唇を噛み締めた。


 やはり、ダイアウルフ出現にあの男が関わっていた。

 どこかにやつが潜んでいる。おびき寄せて叩ければ、白い手は満足するだろうか。


(それは賭けね……)


 リディア・セルティアの願いを叶えて晴れて異世界転生を成功させる。あとは自分の好きなように生きるのだ。そのために、オーガストは倒さなければならない。


 ふっと、リディアの意識が遠のいた。


 それと同時に、閉じた瞼の裏に切れ端のように情景が通り過ぎていく。軽やかに風に揺れる珊瑚色に、ピンク色の唇と頬。そして……。


「お嬢様!?」


 ナインの声でリディアははっと我に返った。いつの間にか床に転がり落ちている。身体から力が抜け、馬車の振動で前に倒れたようだ。


「だ……大丈夫……」


 額を抑えながら身体を起こし、リディアは気まずそうに視線を逸らしたままそそくさと馬車のベンチへ戻った。


「ここから揺れが激しくなりそうですから気を付けてください」

「はい」


 呆れたようなナインの台詞に神妙に答え、リディアは今しがた脳裏を横切った相手は誰だったろうかと首をひねる。


(あんなに美しくて綺麗な髪は……一人しか知らない……)


 頬と唇と同じ色の瞳を持つ、ヒロイン。


(でもどこかに違和感が……)


 まさにその瞬間、がくん、と大きく揺れて馬車が止まり、遅れて外から怒号が聞こえてきた。


「何……!?」

「ダイアウルフでしょうか」


 ぎゅっとリディアの手を握り締めるナインに、彼女は身体に力を入れる。はっきりいって自分には戦闘のセンスはない。囮であるということ以外に、ここで役に立つ何かを持ってはいないのだ。


 全面的にリディアを護ることになるナインを困らせるような真似は絶対しないと、リディアは胸の内で彼女に忠誠を誓う。


(絶対に無茶はしませんッ)


 かすかに揺れる車体と、怒号、それから剣が交わる音に獣の咆哮が混じる。


(ひいいいいいい)


 異世界に来て初めて、人外の存在を感じ身体が震えた。この状況で無茶をしようなんて思うのは馬鹿だけだと、リディアはぎゅっとナインの手を握り返した。


 その時、馬車の扉が大きく揺れ、がたがたと揺すられるのがわかった。現代でもたまに聞く、扉を外から誰かが開けようとしている……まさにそれとそっくりな状況だ。


(ダ、ダイアウルフってドア開けられるの!?)


 犬がドアを開けて欲しいと隅っこを引っ掻くのは知っていたが、どう考えてもそれとは動きが違う。


「は、破壊されないでしょうか!?」


 思わずナインに身を寄せて聞けば、彼女は銀色の瞳を細くしてじっと扉を見つめている。


「防御魔法が掛かっていますので。ただ、相手の魔力が高い場合は……」

(開くかもしれない!?)


 じっとドアを見つめるうちに、背後のナインがすっと片手を前に出した。金色の光が溢れて収縮し、手に大きな宝石の嵌った杖が出現する。


「何者であろうと、開いた場合は吹っ飛ばします」


 静かに告げられた台詞に、リディアは固唾を呑んだ。やがて低い唸り声と同時に扉が歪み、冷たく……生臭い空気が馬車の内に流れ込んできた。


「……下がって」


 ぐいっと座席に後ろに押し込められ、代わりにナインが前に出る。ばき、と嫌な音がして扉がひしゃげ、大きくなった隙間から巨大な鼻っ面が突っ込まれた。


 喉を悲鳴が駆け上るが、リディアは済んでのところで飲み込んだ。必死に下腹部に力を入れてぎゅっとナインのマントを握り締める。グルグルという不穏すぎる音が響き、濡れた犬歯が巨大な口の端から零れ落ちている。


「扉が破壊されるのと同時に撃ちます」


 決意のみなぎる声が冷静に告げるのを聞いて、リディアは全身の震えを止めようと奥歯を食いしばった。ダイアウルフが扉を突き破れば、もうこの馬車は防護されたものではなくなる。そこから先は乱闘の中に身を置かねばならない。


(絶対に大丈夫……だいじょうぶ……ダイジョウブ……)


 素早い動きでダイアウルフの鼻っ面が引き抜かれ、一秒と立たず突き込まれた。その衝撃でドアはばらばらに破壊され、扉と同サイズの狼の顔が車体に突っ込まれた!


 その瞬間、ナインは杖の先から膨大な魔力を放った。


 それは光の束となってダイアウルフに直撃し、巨体を彼方へと吹っ飛ばす。


「きゃ」


 だがその反動に、リディアは対応していなかった。前方への急激な力の放出は、同時に後方へ反動をもたらす。それをナインは魔法で身体を固定することで耐えられるが、普段、誰かを護って戦うことのない彼女は後方にいる守護対象者へのそれを失念していた。


 そのため、反動を直で喰らったリディアは強かにドアに身体を打ち付け、それだけでは飽き足らず扉の外へと大きく放り出された。


(わ、わ、わ!?)


 背中の痛みはともかく、放り出される感触に慌てふためく。このまま背中ごと落下したら骨の一本でも折れるのではないかと恐怖が過った。それと同時に受け身でも習っておけばよかったとくだらない後悔が胸を過る。


「お嬢様!?」


 完全にリディアの戦闘耐性の無さを失念していたナインが振り返って叫ぶ。慌てて防御魔法を掛けようとするが、それより先にリディアはぎり、と心臓が締め付けられるのを感じた。


「痛ッ」


 どっと怨嗟の声が湧き上がる。



 ──あの男を許すな コロセ……コロセッ! ……コロセエエエエエッ!



(リ……ディア……?)



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