次期大公、ワンコを預かる
溺れる者はなんとやら、で、パニック中のシルキーに引っ付かれている次兄は、自分に爪を立てるふわもこワンコを引き剥がすのに、たいそう難儀していた。
シルキーも、眼球などの急所を狙わないあたり、加減している模様だが、次兄にはあちこち引っ搔き傷が出来てしまっている。
主の苦境を見かねたのか、スカーが音も無く立ち上がると、大きな口でシルキーを咥え、次兄からひっぺ剥した。
やだ~っと、じたばた暴れるシルキーは、見ているだけで、何だかごめんなさいと、謝りたくなってくる必死さだ。
キュンキュンと自分を呼ぶシルキーを、次兄は途方に暮れた表情で見ていた。
マイワンコは可愛いが、甘やかす気も無いらしい、が、そのせいで嫌われるのも嫌なようだ。
「殿下、手当てをしませんと」
「すまない、ヨアナ殿」
おずおずとハンカチを差し出すお義姉様に、次兄は頭を下げた。
脳筋にも優しいお義姉様は素敵であるが、次兄よ、貴方はいつも手当て用の無駄に大きな手巾を持ち歩いているでしょう、それにそのハンカチは自分がお義姉様にプレゼントしたものなのだけれど、お義姉様の気遣いを拒否したらそれはそれで腹が立つ――
答えの出ない葛藤に、シャルロッティは顔に出さずに煩悶した。
した、つもりだったが、アレスが青い顔で引いていたので、ナニカが漏れ出したかもしれない。
そして、次兄は、いつも持ち歩いている消毒液を(お義姉様にシャルロッティが贈った!!!)ハンカチにしみ込ませ、傷口に押し当てた。
人に飼われているワンコと言えど、獣は獣だ。
野の獣と同じように、つけられた傷口を放っておけば、破傷風になる危険性がある。
「それで、ラザロス兄上はシルキーをどうしたいのですか?」
吐き出せないもやもやをぶちまける代わりに、シャルロッティは次兄に問いかける。
「――シルキーを、大公家の屋敷に、避難させることは可能だろうか?」
次兄の後ろで、その台詞を耳にしたシルキーの反応は、実に劇的であった。
ガーン
そんな効果音が幻聴として聞こえてきそうなシルキーの顔には、絶 望、の文字が刻まれていた。
そして、うるうると、瞳を潤ませるシルキーの様子は、あ、今の冗談です、と言いたくなるほどの悲哀を湛えている。
ワンコの絶望顔には気が付かないまま、次兄は顎に手をやった。
「シルキーに負担が掛かり過ぎているのか、既に円形脱毛症の症状が出ているのだ。
――このままでは、シルキーが丸禿になってしまう」
何ということだろう。
お義姉様の癒しになりそうな、ふわもこワンコが、想像するだに惨めったらしい、まるはげワンコになるなんて。
次兄の言葉を聞いていたシルキーは、主も自分の身体目当てだったの、とも言いたげに、瞳をウルウルさせながら、しょぼんと項垂れた。
シルキーを咥えているスカーは、同朋を床の上に下すと、慰める様に舐め始める。
どデカワンコは、主は貴女の身体を慮っているの、悪い方向に考えすぎ、と言っているようだった。
「兄上、邸に犬が一匹増えるくらいは構いませんが、シルキーは納得するのでしょうか?」
見た目がメルヘンでも、神獣の血を色濃く残す犬だ。
城に帰りたがって暴れられたら、相当難儀することだろう。
「ぬ」
妹の指摘を受け、次兄は、ようやくしょんぼりしているマイワンコに気づいたらしい。
脳筋は、シルキーの前に膝をつくと、項垂れたままの頭の上に、手を乗せた。
「シルキー、お前が邪魔だというのではなく、この城はお前には騒がし過ぎると思うのだ。
それに、大公家では、お前に頼みたいこともある」
次兄の台詞に、シルキーは潤ませた瞳をぱちくりとさせる。
「大公家には、王位継承権を持つ人間が、二人もいるのだ。
私は自分で身を護れるし、兄上や父上には近衛がいる。
だが、シャルロッティや大公殿の守手は、それよりも数が少なくてな。
だから、お前に、私の家族の守護を任せたいのだ。
――ヨアナ殿の警護を含めて、やってくれるか?」
シルキーは、瞳を潤ませたままだったが、ブンスカと猛烈な勢いで尻尾を振っていた。
次兄と離れるのは寂しいが、主に家族の守護を任されたのは、嬉しいらしい。
「うむ、頼んだのだ。
お前も一人だけだと心細いと思うから、ユニにも行ってもらうぞ。
シャイル達では、身体が大き過ぎて、慣れない者には威圧感があるようだし、オスフールは、もう仕事を任せてしまっているのだ。
シルキーやユニと離れれば、私も寂しいが、時間が空いたら会いに行くぞ」
私、頑張りますっ、と、自分に抱きついてくるシルキーを、次兄は抱きしめ返して、ぽんぽんと頭を撫でた。
「――と、言う訳で、シルキーとユニを頼んでもいいだろうか?」
「それは良いですが、邸に来るなら、前もって連絡して下さいね。
兄上は、仮にも王族ですから、それなりの準備と言うものがあるのです」
さりげなく、大公家に預けるワンコを二頭に増やした次兄に、シャルロッティは言い含める。
他の有力者との交渉中に、部外者にのこのこ乱入されても困る。
「うむ、鷹便で送っておく」
「いらっしゃるなら、せめて二、三日前にお知らせ下さいね」
速度重視で緊急時用の鷹便を、たかが王都内の距離で使おうとする次兄に、シャルロッティは釘を刺す。
まさか、出発する直前に連絡する気ではあるまいな。
え、と言う顔の次兄を見ると、シャルロッティは己の危惧を笑い飛ばせない。
親しき中にも礼儀あり、と言うが、肝心の礼儀の概念が、脳筋とシャルロッティの間では、どうにも異なっている模様だ。
「おお、そうだ。
ユニを呼ばなければいけないな」
次兄は小さな笛を取り出すと、口に付けた。
だが、次兄が息を吹き込んでも、音は出ない。
犬笛というやつだろうか?
犬笛本体よりも目立つ、『ユニ』と書かれた名札から察するに、ユニを呼ぶための、専用の笛なのだろう。
「――ありがとうございます、殿下」
お義姉様が、そっと微笑んだ。
「ぬ、ヨアナ殿、礼を言うべきなのは、私の方なのだが」
怪訝そうな次兄に、お義姉様は小さく首を振った。
「――殿下は、私を家族と認めて下さったでしょう?
それが、嬉しかったものですから」
お義姉様と養父は、お互いに想い合っているものの、歳の差が歳の差だ。
思い出すだに忌々しい、某勘違い男の様に、二人の間柄をあれこれ疑う者も、それなりにいる。
年若いお義姉様を侮り、好き勝手に言う者もいるようだ。
養父や父王や長兄に、厳重注意を受けている為、シャルロッティは、心の中で血涙を流しながら、制裁を自粛しているけれども。
「父の大叔父の大公殿や、妹のシャルロッティにとって、ヨアナ殿は家族なのだから、私にとっても、ヨアナ殿が家族でいいと思うのだ」
どう反応すればいいのか分からないようで、次兄は、あらぬ方向に目をやりながら、人差し指で頬を掻いていた。
そして、何を思ったか、次兄は、おもむろに『シルキー』と書かれた名札が付いた犬笛を取り出すと、『ユニ』の犬笛と一緒に、お義姉様の手に押し付ける。
「ヨアナ殿、身の危険を感じたら、これを吹けばいい。
これで、ユニとシルキーが呼べるのだ」
次兄の言葉に、お義姉様が頬を染めながら頷いた。
と言うか、脳筋。
お義姉様に、使い古した物を渡すんじゃない。
「――ったぁっ?!
っていうか、またっ?!!!」
アレスが、やってきたユニに撥ね飛ばされていた。
闘神の寵児の癖に、ワンコの体当たりを二度も食らうなんて、アレスは最近弛んでいるんじゃなかろうか?
――そう言えば、アレスは筋肉が欲しいと泣いていたと、前に執事長から聞いていた。
そんなに筋肉が欲しいのなら、次兄に預けてみるのも良いかもしれない。
脳筋同士、きっと気が合うだろう。




