次期大公、目覚める
ああ、空気が美味しい。
圧迫感に阻害されることも無く、思う存分吸い込める空気に、シャルロッティは感動を覚えた。
目を瞬けば、視界に入るのは、長兄の私室の天井である。
むくりと起き上がり、シャルロッティは自分が長椅子に寝かされていたことに気づく。
「やあ、妹よ、思っていたよりも、早く目が覚めてよかったよ」
横からの長兄の声に、首を動かせば、テーブルを挟んだ向かい側の長椅子に、長兄夫妻が座っていた。
傍目には暑苦しいくらいの密着具合だが、仲がよろしく結構だ。
この調子で、早く世継ぎを作ってほしいものである。
そうすれば、未だに長兄を諦めれ切れていないらしい、未婚のご令嬢方(嫁き遅れ含む)も踏ん切りがつくかもしれない。
「……ゼノン兄上、どうしましょう?
脳筋が脳筋を呼んだようなのですが、このままでは、死人が出てしまいそうです」
シャルロッティは、目下のところの最大の危惧を口にする。
流石に、鬼子と呼ばれる彼女と言えど、自分がわんこ集団のモフリ攻撃で気絶する予想など、立ててはいなかった。
シャルロッティは、気絶する直前は本気で死ぬかと思ったが、わんこ集団にモフられ圧死などと言う、間抜けな死因など御免被る。
真顔のシャルロッティに、長兄はそれはそれは優し気な笑顔で首を振った。
「シャルロッティ、あんなに賢い犬達を、ラザロスと同じと思ってはいけないよ。
ただ、人との関わりが少なすぎて、うっかりラザロスを基準にしてしまっただけのようだね」
「成程」
なんと哀れなワンコ達であろうか。
次兄の様な脳筋が、まともに接した初めての人間とは。
シャルロッティの思考を読んだのか、長兄は困った様に微笑む。
「ラザロスも、主としては悪い人間ではないと思うよ?
ラザロスは、自分の責が及ぶものには、何であれ、誠実であろうとするからね。
あの子達についても、張りきって洗いに行ったし」
まあ、次兄の責任感の強さに関しては、シャルロッティも知っている。
忙しい執務や鍛練の合間を縫っては、いざという時の己の代替品たるシャルロッティの訓練をつけるくらいだ。
ただ、次兄の最大の問題点は、その責任感の発露の仕方が、何処まで行っても脳筋仕様と言うことだろう。
「ラザロス殿がワンちゃん達を綺麗にしたら、撫でさせてもらえないかしら?
――昔飼っていた子を縊り殺されてから、中々触れ合える機会が無くて」
期待するように、両手を合わせる兄嫁に、長兄は蕩けそうな笑顔で頷く。
「それは問題ないだろうね。
ラザロスは狭量な人間ではないし、あの子達も私が撫でたぐらいでは、殺されて皮を剥されない様だし」
――長兄夫妻の間に漂う、キラキラとした桃色の空気と、会話の内容の殺伐具合の落差が酷い件について。
権力の中枢に近しい王族と言うものは、やはり、己の身を守れないものを、能天気に侍らせるべきではないらしい。
キャッキャウフフと、モフモフとの触れ合いに想いを馳せている万年新婚夫婦に視線を向け、シャルロッティはしみじみと考えた。
権力は、余りにも簡単に人を狂わせる。
唯の愛玩動物は、守護が無ければ、水面下で蠢く醜怪な思惑の犠牲になってしまいかねないのだ。
しかし、次兄が連れてきた、元は女神の守護者であったという神の犬の末裔達は、その点を心配しなくても良い。
次兄は自分の事しか頭になかったであろうが、是非とも、長兄夫妻にワンコを貸し出してもらいたいものだ。
……因みに、触れただけで毛皮になることも、無暗に怯えられることも無い為、シャルロッティには、モフモフに対する過剰な憧れなど存在していない。
せいぜいが、兄達に生温い視線を向けるぐらいだった。
と、控えていた侍女の一人が、次兄とワンコ達の来訪を告げる。
何故か、生乾きの髪で部屋に入って来た次兄が、小脇に抱えていたのは。
「……ラザロス兄上、何ですか、その白い毛玉は」
「毛玉だ」
「見れば分かりますっ!」
「毛玉なのだ」
「……ラザロス、本当に紛らわしいから、改名しようね」
東方の伝承の、幸せを呼ぶ白い毛玉を彷彿させる、ほわほわとした見た目の立派な毛玉であった。




