アデルの目
アリスの目が治ってから、教会の朝は少しだけ騒がしくなった。
「……ひっ! 包丁の音が……早すぎる……!」
「あ、あいつ、肉を叩き切る時に笑ったぞ……」
厨房の隅で、子供たちがガタガタと震えながら抱き合っている。
彼らの視線の先には、エプロンをつけた俺――アデルがいる。
俺はただ、朝食のスープに入れる野菜を刻んでいるだけだ。
確かに宮廷仕込みのナイフさばきは高速すぎて残像が見えるかもしれないし、硬いカボチャを切る時に「ふんっ(気合)」と声を出してしまったが、決して彼らを切り刻むシミュレーションをしているわけではない。
(……美味しいスープを作って、栄養をつけてもらおうと思ったんだがな)
俺がため息をつきながら、鍋に岩塩を振りかける。
その仕草すらも、子供たちには「毒の粉を調合している」ように見えるらしい。
その時だ。
「いい匂い!」
厨房の入り口から、弾むような声が響いた。
アリスだ。 彼女は綺麗になった碧色の瞳を輝かせ、トテトテと俺の元へ駆け寄ってくる。
「おはよう、アデル様! 今日の朝ごはんは何?」
「おはよう、アリス。……ただの野菜スープだよ。昨日の残りのパンと」
俺が答えると、アリスはつま先立ちをして鍋の中を覗き込んだ。
グツグツと煮える鍋の蒸気が、彼女の顔にかかる。
「わあ、美味しそう……! アデル様はお料理も上手なのね」
「宮廷では独身寮暮らしが長かったからな。……怖くはないか?」
「え? 何が?」
「俺の顔だ。近くで見ると、食欲が失せるだろう」
俺が自虐的に言うと、アリスはキョトンとして、それからぷぅっと頬を膨らませた。
「もう。アデル様はまたそんなこと言って。……鏡、貸してあげようか?」
「鏡?」
「うん。アデル様が料理している時の顔、すごく真剣で、家族のために頑張るお父さんみたいで……とっても素敵なのに」
アリスはそう言うと、俺のエプロンの裾をギュッと握った。
その無邪気な笑顔に、俺の凶悪な顔面が熱くなるのを感じる。お父さん、か。悪くない響きだ。
アリスはくるりと振り返り、震える子供たちの方へ向いた。
「みんなも、怖がらないで! アデル様のスープ、絶品だよ!」
「で、でもアリス姉ちゃん……あいつ、さっきカボチャを親の仇みたいに……」
「それはカボチャが硬かったからよ! ほら、私が毒見をしてあげるから」
アリスは俺からお玉を受け取ると、小皿にスープをよそい、ふーふーと息を吹きかけてから一口啜った。
「ん~っ! 美味しい! 身体がポカポカする!」
その幸せそうな表情を見て、子供たちの警戒心が少しだけ揺らいだ。
お腹の虫が、グゥと鳴る音が連鎖する。
「……ほ、本当に毒じゃないのか?」
「ひと口だけなら……」
恐る恐る近づいてきた少年に、俺は極力威圧感を出さないよう、無言で皿を差し出した。
少年は決死の覚悟で皿を受け取り、スープを飲む。
「……!」
少年の目が大きく見開かれた。
野菜の甘みと、肉の旨味が溶け込んだ優しい味。宮廷料理長から盗んだ隠し味が効いているはずだ。
「う、うめぇ……!」
「本当か!?」
「俺も食う!」
一度安全だと分かれば、子供たちの食欲は止まらない。
あっという間に鍋の周りに人だかりができ、俺はてんてこ舞いになった。
「順番だ、押すな。おかわりもあるから」
「魔王様! パンちょうだい!」
「誰が魔王だ。……ほらよ」
俺がパンを配ると、子供たちは奪い取るようにして頬張る。
まだ完全に恐怖心が消えたわけではない。「魔王が気まぐれで餌をくれた」と思っている節がある。
それでも、彼らが俺の作った料理を食べてくれている。その事実だけで、胸がいっぱいになった。
ふと見ると、アリスが少し離れた場所で、ニコニコと俺たちを見ていた。
俺は彼女の隣に行き、小声で礼を言う。
「……ありがとう、アリス。君のおかげだ」
「ふふ。アデル様の優しさ、ちゃんと味に出てるもの。伝わってよかったね」
アリスは自然な動作で、俺のゴツゴツした大きな手を、両手で握りしめた。
「私、アデル様の目になってあげる」
「目?」
「うん。アデル様の良いところが見えない人には、私が教えてあげるの。この人は、世界一優しい魔法使い様なんだよって」
その言葉は、どんな栄誉ある勲章よりも、俺の誇りになった。
(左遷も、悪くないな)
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