11.音楽室
「それから亨、おめに変な手紙が来とるけど……」
母から手渡された手紙と称する代物は、黒い封筒の固まりで、これまでに見たことがない異様な気配を解き放っていた。金子亨は、黙って食卓を離れた。差出人の名前が女になっている。このことはおそらく母も気付いていることだろう。
「おい。めしさ、食ってからにしいっちゃ」
慌てふためく母の声が背中から突き刺さってきたが、亨は二階の自室へ飛び込んで、急いでドアに鍵を掛けた。最近は部屋の鍵を使っていなかったが、中学時には、引きこもって籠城するのにとても重宝していた。
すこしどきどきしながら、封筒の端をはさみで慎重に切り取って、中の便箋を引っ張り出す。普段は見慣れない上質な白い紙が入っていた。どこかの高貴な令嬢が、自室で閉じこもって、想いをしたためたかのような、不思議な気品が感じられる。
しかし、活字で書かれた手紙の出だしの文章を読んだ瞬間、金子亨は、みずからが抱いていた淡い妄想が、図らずも、音を立てて崩れ去ったことを思い知らされるのであった。
金子亨くん。覚えていらっしゃるかしら……。川茂小学校が閉校する時に校長を務めていた、計良美祢子です。
なんだ。小学校の時に担任だったおばさんからじゃないか……。
途端に、淡い期待から、食事を抜け出して部屋に鍵まで掛けたみずからの行為が、一気に気恥ずかしいものと化す。それにしても、今頃になって、なんで……?
思えば、川小の子供たちは、みんな良い子たちばかりでした。でもね、川小の思い出って、楽しいものばかりだったかしら? そう。決して、楽しいものばかりではなかったわね。
みんなは、覚えているかしら。川小が廃校を間近に控えた、平成十四年の六月十日――。校舎の一番高いところにあった時計塔の音楽室で起こった、あの忌まわしい出来事を……。
時計塔……。たしかにそんなものがあったな。川小の象徴的な建物だったが、実際に大時計のある屋上までは、のぼったことはない。
でも、屋上から一つ下の階にある教室が、音楽室だった。特別に広い部屋で、壁の高いところには、有名な音楽家の肖像画が、ずらりと並べて掛けてあり、オレンジ色の五線譜が引かれてある黒板の隣には、大きな黒いグランドピアノが置いてあったのを、今でも覚えている。
たしか、校長先生はピアノがうまく弾けなかった。それなのにいつの頃からか、ピアノの美しい音色が、毎日あたり前のように、川小の校舎の中に鳴り響いていたのだ。そうだ。あれはたしか、小三の時だった。金子亨は、音楽室から流れてくるピアノの調べを、階段に座りながらじっと聴いているのが、とても好きだった。
最初にその提案をしてきたのは、航太だった。川小の南に見える山の奥には、幻の池がある。航太はかつて、一人であてどもなくとぼとぼと歩いていったら、偶然、その池にぶち当たったというのだ。航太の話によれば、それはこの世のものとは思えない、実に美しい景観だったらしい。
航太が梢に、二人でいっしょに行こうと申し出た時に、そばで聞いていた柊人が、ならば自分も行くといい出したから、航太と柊人のあいだで小競り合いが生じたのを、梢は今でもはっきりと覚えている。あれはたしか、梢が小二の夏の出来事だった。
結局、妥協案として成立したのが、航太と柊人と梢の三人で、幻の池を冒険するという計画であった。先生たちにはないしょで、事は進んで行った。わざわざ先生に報告して、わずらわせるまでのこともなかろう、というのが柊人の意見であった。
夏休みになってすぐに、計画は実行された。午前十時に川小に集合した三人は、地図も持たずに、すべてを航太の記憶に託して、幻の池を目指して出発をした。その日は雲一つなく、紺碧の空が一面に広がる、まれに見る晴天であった。航太の話だと、三十分ほどで到着するはずだということで、三人はリュックも用意することなく、みんな手ぶらで歩いていった。
幻の池にはなかなか着かなかった。先頭を歩く航太が、おかしい、こんなはずではと、ぼやき始めた。もう、かれこれ一時間も歩いていて、気温は急激に上昇していった。遠くに見える道路のアスファルトから、ゆらゆらと湯気のようなものが立ちのぼっている。その下には涼しげな水たまりが見えるのに、近くまで行ってみると、それはさーっと消えてしまい、残っているのは、触れなくなるほどに熱く焼けただれたアスファルトしかなかった。
しだいに梢の歩みが遅れていった。暑くて頭がくらくらする。水筒を持ってくればよかったのに、誰も水を持ってはいなかった。さらには、佐渡の田舎道ゆえに、自動販売機が置いてあることもなく、しかもこの時の三人は、全員お金を持ち合わせてはいなかった。
「航太、少し休もう。梢ちゃんがふらふらしている」
柊人の提案で、三人は大きな一本杉の木陰に避難をした。ここらは民家もほとんど途絶えており、いちおう舗装がなされた道路であるのに、走っている車はさっきから一台も見られない。
ジリジリと絶え間なく続く、ギターベースのようなアブラゼミの鳴き声と、主旋律を奏でるキーボードのようなミンミンゼミの甲高い鳴き声とが入り混じって、ほてった頭に重くのしかかるように、耳につんざいてくる。座っているのに、世界がぐるぐると回っているように、梢には感じられた。
「さあ、そろそろ行こうか」焦るように航太が立ち上がったが、
「梢ちゃんの調子がまだ悪そうだ。もう少し休んでいこう。
そもそもお前、道がちゃんと分かっとるんか?」と、柊人から誹られて、
「そんなこといったって、前はすぐに池までたどり着けたんだよ。道を一本間違えたのかなあ?」と、航太はますます不機嫌になっていった。
ちょっとここで待っていろ、と一言残して、柊人はいなくなった。しばらくすると、柊人が戻ってきた。
「少し先に民家があった。さあ、梢ちゃん。ぼっぽしちゃるけん」
梢は柊人におんぶされて、三人は民家まで移動した。そこで冷たい麦茶を出してもらって、梢はいくらか元気を取り戻した。
「おばあさん、この近くに幻の池があるはずなんですが、どこにあるんか知りませんか」家主である老女に柊人が訊ねた。
「池なあ……。ああ、羽茂ダムのことかいな。なら、その先の細え道へ入って、山をちょっと登らんきゃならんっちゃ。それに、今日は気温が三十五度になるっちゅうけん、だちかんぞ。悪いことはいわん。行くのは止めときや」
忠告はありがたいが、せっかくここまで来たのだし、今さら引き返すつもりはないと、航太が突っぱねて、三人は幻の池を再び目指すことにした。柊人が老女から道を聞いて、その場にあった新聞の広告紙の裏面に地図を書き記してから出発したので、その後、三人が大きく道を誤ることはなかったが、池までの道のりは想像以上に遠くて、道路の状態もどんどん悪くなっていき、しかも上り坂も厳しかったから、民家を離れてから池に到着するまでに、さらに一時間以上の時間を要した。
ようやくたどり着いた羽茂ダムの池であるが、航太の話とは全く違って、これといった特徴のない、ただの池だった。向こうに赤い橋が架かっているのが見えるが、池を取り囲む道路のガードレールは、見事なまでに赤茶けて、さび付いていた。
「ここが幻の池か。こいつはたいしたもんだな……」
柊人が発した皮肉の一言が、航太に火を付けた。航太は怒ったように、ちょっと散策をしてくる、といい残して、すぐにその場から消えてしまった。一時間経っても戻ってこないので、柊人が梢に、航太を残して帰ろうぜ、と告げた瞬間に、航太が戻ってきた。
「ちょっと先に大杉の公園を見つけた。面白そうだから行ってみよう、との提案だったが、柊人からあっさりと却下された。
「午前と違って、雲行きがかなり怪しくなっている。もうすぐ雷雨がやって来るかもしれんぞ」
柊人からいわれて、空を見上げると、朝とは打って変わって、鼠色の分厚い雲が大空に広がりつつあった。だから、暑さがちょっとだけやわらいでいたのかと、いまさらながら梢は一人で納得をしていた。
三人は山を下ることにしたが、案の定、ふもとまで降りたところで、バケツをひっくり返したような土砂降りとなった。梢のおかっぱ頭も、あっという間にずぶ濡れになってしまい、髪の先から雨水が滝のように滴り落ちた。家の近くに床屋がなかったから、梢の髪はいつも、祖母が散髪ばさみで切っていた。だから、小学校時代の梢の髪型は、常に短くて、切り目が不ぞろいな、おかっぱ頭であった。中学から髪を伸ばし始めたのは、梢にその反発があったせいかもしれない。
三人は、傘も持ち合わせてはいなかった。やがて、鼠色の雲は漆黒と化し、ものすごい地響きとともに、雷が鳴りだした。辺りは一気に、夜のように真っ暗になってしまい、ひとたび雷が光ると、逆に、真っ昼間のように景色が明るくなったかと思いきや、次の瞬間、天地がひっくり返るかのような、落雷の劇音が天空にこだます。そのすさまじさたるや、雷の光が皮膚に当たると、なにかビリビリとしてくるように感じてしまうほどであった。
航太が、雷が鳴っている時に大きな樹の下にいるのは危険だ、というので、三人は道路の脇にしゃがみこんで、ツバメの巣の中にいる雛たちのように、お尻をつき合わせてびしょびしょになりながら、ぶるぶると震えあがっていた。
ついに梢が、こらえ切れなくなって、泣き出した。これでもかというくらい金切り声を張り上げたけど、航太と柊人が黙ったまま一向に相手にしてくれないので、やがて疲れてしまい、梢は泣くのをあきらめた。
雷雲は三十分ほどで通り過ぎていった。雲がなくなり、ふたたび陽が照ってきた。続いて、蝉がつんざくように鳴き出して、空気が一瞬で暑くなっていった。
「はははっ、これなら濡れたシャツもすぐに乾いちまうよな」
航太の強がる声も、梢には全く聞こえてはこなかった。
三人が川小へ戻ってきたのは、午後の四時過ぎだった。翌日、梢は熱を出して寝込んでしまい、学校を休んだ。あとから聞いた話によると、航太と柊人はこの日、担任の市橋先生からこっぴどく叱られたみたいだった。
漁師の朝は早い。午前三時に床を離れると、金子亨は食卓の上に置いてある握り飯をひとつだけほおばって、急いで実家を出た。徳和の実家から船が泊めてある松ヶ崎漁港までは、車で三十分かかる。結構な距離だ。松ヶ崎には祖父母が住んでいる。祖父は漁師だ。今年で七十九歳になる。そろそろ漁師を引退する年齢でもあるから、孫の亨が漁師になりたいと申し出た時には、祖父は泣いて喜んだ。一方で、亨の両親は、亨が漁師になることには反対であった。いまどき、個人経営で漁師を生業としたところで、収入もろくに期待できないというのがその理由だ。それでも、亨は祖父に弟子入りをして、かれこれ十年以上が経過している。中卒の金子亨には、ほかに職に就きたくても、就ける職業がなかったのも現状であった。
漁港に泊めてある祖父が所有する小型船に乗って、祖父と二人で漁へ出かける。漁場はその日その日で代わっていくし、それを決めるのは経験と直感だ。経験という点に関しては、亨は祖父には全然及ばない。それでも最近は、交替で船の運転もさせてもらえるようになった。もっとも、今日は祖父が運転をしているのだが。さあて、漁場へ着くのは、さしずめ、あと二十分といったところか?
亨はふと上着の内ポケットに手を入れる。実はふところに昨日の手紙をしたためてある。校長先生から送られた手紙。当時のことを老女が一人で懐かしんでいるだけの、内容の薄い手紙だと思えたが、もう一度しっかりと読んでみようと思い、わざわざ持ってきたのだ。というのも、この手紙が発するある種の異様さを、金子亨はなんとなく感じ取っていたからだ。
まさか、あのことがバレてしまったのだろうか……。
いや、そんなはずはない。あれから気の遠くなるほどの長い歳月が流れている。誰もあれを暴くことなどできるはずはない。
手紙に書かれてあった平成十四年の六月十日――。
あの日はものすごい雨が降っていた。バスから降りて、校舎へ入るわずかのあいだに、傘をさしていたにもかかわらず、一瞬でずぶ濡れになってしまったのを、金子亨は今でもはっきりと覚えている。普段より一つ早いバスに乗って登校したので、教室へ入っても誰もいなかった。そもそもこんな早い時刻に、学校に人がいるはずもなかった。
今考えると、ちょっと信じられないことだが、当時の川茂小学校は、夜間に校舎の施錠を行っていなかったのだ。
用務員がやって来るのが七時半頃で、それに続いて教員たちもやって来る。児童が登校するのは八時過ぎとなるのだが、徳和方面からのバスが下川茂のバス停に着く時刻は、八時二十分だった。でも、それより一本早いバスに乗ってしまうと、六時二十分に川小へ着いてしまう。かつて、こうして登校した児童が、正門の前で一時間も待たされることが問題視され、夜間のセキュリティを解除して、いつでも校舎に入れるよう配慮をしたのだ。今にして思えば、おおらかな島の小学校だったゆえに、できたことなのかもしれない。
したがって、校舎の中には今、金子亨しかいるはずがなかった。時刻は六時半。職員たちがやってくるまで、まだ一時間くらいはある。
にもかかわらず、聴こえてきたのだ……。この春になってから、聴くことができなかったあのピアノの美しい調べが……。
金子亨は急いで音楽室へ向かう時計塔の階段を駆けあがった。音楽室の戸は閉まっていたが、ガラス窓を通して、中の様子がうかがえた。
黒くて大きなグランドピアノの椅子に、少女が一人腰かけていた。
長くてしなやかな黒髪――。
少女が気付いて、ゆっくりと眼を上げた。無表情だけどきれいに透き通った鼠色の瞳が、じっとこちらを見つめている。その瞬間、まるで魔法にかけられたかのように、亨の全身は硬直してしまう。
そして、その時たしかに、少女はしとやかに微笑んでいた……。




