18.隣人?
いつもの癖で明け方に目が覚めると身体の両側から締め付けられていた。
嫁はもちろんだけど娘も夜中に起きてこっちのベッドに移ってきたらしい。
娘はまだ産まれて1年もたってないだろうに。
自力でやれるのが凄いよね。
北方種は成長が早いって本当だな。
その娘は俺の腕を抱え込むようにしてしがみついていた。
ちょっと痛いほどだ。
反対側には絶世の美女である嫁が、こっちは全身を使って俺を拘束している。
マジで足が俺の下半身に巻き付いているんだよ。
寝相は治ったのかと思っていたけどぶり返したか。
しかし困った。
朝練のために起きたいんだけど、これでは身動き出来そうにない。
トイレにも行きたくなってきたし。
とりあえず娘の抱擁からゆっくりと腕を引き抜き、半身を自由にする。
それから俺に何かよく判らないプロレスの技みたいなものを掛けている嫁から逃れようとしたけど駄目だった。
がっちり固定されているんだよ。
しょうがない。
嫁の頬をそっと叩いて呼びかけていると、5分くらいしてから「ふぁい」というような可愛い声が上がった。
「ハスィー。
起きろ」
「……」
「せめて腕を解いてくれ」
「……お早う……ございます」
夢心地だったみたいだが反応してくれた。
よく眠っている所を起こして悪いけど、目が覚めて俺の姿がなかったら何か嫌な事が起こりそうだったからな。
「マコトさん」
「すまん。
まだ寝ていていいから」
「……申し訳ありません」
嫁が拘束を解いてくれたので起き上がってそろそろとベッドから降りる。
まだぐっすり眠ったままの娘を嫁にあてがうと、娘は嫁にしがみついた。
母子だな。
「朝練に行ってくる」
「行っていらっしゃいませ」
嫁は素直に頷いて目を閉じた。
それでいい。
妊婦はよく寝るのも仕事だ。
どっちにしても身重の嫁は朝練に参加出来ないからね。
嫁と娘に毛布を掛けてやってから俺はまずトイレに向かった。
その途端にノックの音がする。
「主殿」
「起きました。
嫁たちはまだ寝ているので」
「お心のままに」
これだけで判ってくれるのも凄い。
トイレで用をたした後、寝間着を脱いで籠に入れ、シャワーを浴びる。
バスタオルで身体を拭いてからロープを着て居間に戻るとソファーテーブルにお茶の用意がしてあった。
運動着と下着も畳んで置かれている。
人の気配もないのに不気味なほどだ。
これが貴族の暮らしか。
召使いの人たちは存在しないものとして扱うんだよね。
もっともこれは地球の常識で、こっちの世界はちょっと違うみたいだけど。
魔素翻訳があるから姿が見えなくても人の気配って感じるんだよ。
存在を無視するなんて出来っこない。
もっとも存在する方が意識して隠れていたら別だ。
気配を殺すって奴?
昔の漫画の忍法とか、軽小説にもそういう能力って出てくるけどこっちの世界ではそれがリアルに出来る人がいたりして。
まあいいか。
汗が引くのを待ってから運動着に着替え、よく眠っている嫁と娘にちょっとキスする。
部屋を出るとドアの前にハマオルさんとラウネ嬢を筆頭にずらっと人が並んでいた。
俺と入れ替わりに数人のメイドさんが部屋に入って行ったけど、全員がまったく音を立てない。
くノ一の集団か?
「奥方様とシーラ様の護衛を兼ねております。
ヤジマ警備から選抜された精鋭部隊でございます」
そう行ってからハマオルさんは声を落とした。
「嫁ができる限りお側についておりますが、現状ではかえって足手まといになりかねないためにご遠慮申し上げております。
本人からお詫びを言付かってまいりました」
リズィレさんも妊婦なんだから当たり前か。
お詫びなんかいいのに。
「そうですか。
よろしくお願いします」
「お心のままに」
俺を中心にして二桁に達する近接護衛の人たちが移動を開始する。
全員、鍛え上げた身体つきだ。
逞しい背中しか見えないんですが。
そのまま廊下を進み、あちこちで頭を下げている使用人らしい人たちを尻目にエントランスを出ると、太陽がようやく昇ってきているのが見えた。
なんかもう、ここまで来るだけで疲れたような。
それでも俺の我が儘でやっている朝練に付き合ってくれる人たちを無碍には出来ないからね。
準備体操の後、みんなで走り出す。
久しぶりにヤジマ屋敷の周りを見るけど、かすかな違和感があった。
風景はあまり変わってない気がする。
別に周囲の屋敷が増えたり減ったりしているわけでもないのになぜ?
ハマオルさんがすっと寄ってきた。
俺の疑念を感じたか。
魔素翻訳って便利?
「ユマ様からの言伝で、この辺りの屋敷はすべてヤジマ商会が購入したとのことでございます」
何だってーっ!
じゃあ、隣近所の人たちはみんな関係者なの?
「はい。
所有権はヤジマ商会、つまり主殿にありますが、社宅ということで幹部職員に貸し出しているとのこと。
後は警備の者が」
その時周りを走っている人垣が割れて、誰かが寄ってきた。
まだ若いイケメンって、ジェイルくんかよ!
「お早うございます。
マコトさん」
「お早う」
思わず返してしまってからごく自然に俺と並んだヤジマ商会の大番頭を見る。
満面の笑みというか、歓喜の表情?
涙ぐんでいたりして。
「どうしたの?」
「いえ。
申し訳ありません。
本当にマコトさんがお戻りになられたのかと思うとつい」
何なの?
まあいいけど。
ジェイルくんに続いて走り寄ってくる人がいる。
知らない女性……じゃなくてソラルさんか!
そういえばジェイルくんとソラルさんって婚約したんだっけ。
嫁からの手紙で知っていたけど忙しくて何もしてなかった。
「お帰りなさいませ。
マコトさん」
「ありがとう。
ソラルさんも元気そうだね」
元気というか、何か妙に色っぽいな。
やっぱジェイルくんと事実上の新婚状態だからか?
「遅くなったけど改めて。
婚約おめでとう。
いつ結婚するの?」
こういう質問が出来るようになったのも俺が既婚者で子供がいるからだな。
やっぱ中年化しているような。
「まだ未定です」
ジェイルくんは照れながらもあっさり応えた。
「妊娠がはっきりしたらすぐにでも婚約式を挙げます。
それまではマコトさんのお名前をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
ああ、そういうことね。
ジェイルくんはもはや世襲貴族だからな。
慣習に従って子供も出来ないうちからソラルさんを正室にすることは難しいんだろう。
出来ないわけじゃないけど色々と憶測を呼びそうだしね。
そもそも歴とした貴族であるジェイルくんがヤジマ商会の幹部とはいえ平民の嫁を娶る動機が弱い。
俺たちにしてみれば、ジェイルくんほど能力も立場もある人が身分だけのどっかの貴族令嬢を娶る方が不自然なんだけど、世間はそうは見ないわけだ。
ソラルさんに子供ができないうちに結婚してしまうと、どっかの誰かが正室の立場を狙って強引に自分の娘を押し込んでくる可能性がある。
もちろんそんなことはジェイルくんの上司が許さないんだけど、逆に言えば俺が明確にその意志を露わにしなければ判らないからね。
よし判った。
「もちろんだよ!
俺の名前を自由に使っていいから」
「ありがとうございます。
ヤジマ大公殿下」
ジェイルくんはそう言ってニヤッと笑った。
そんな笑い方が出来るようになったんだな。
相当鍛えられて、もう古狸レベルと見た。
ヤジマ商会、任せていい?
「それはお断りします。
私はあくまで『大番頭』ですので」
残念。
俺がヤジマ商会を辞めるに当たっては後任が必要なんだけど、ユマさんは断固拒否しているしね。
今までも実質的な会長だったジェイルくんならぴったりだと思ったんだが。
「ヤジマ商会の会長はマコトさん以外には勤まりませんよ。
存在自体が指針になるような方でなければ誰もついていかないでしょう」
先回りされてしまった。
でもそうか。
もうヤジマ商会の会長って経営能力とかそういう問題じゃなくなってしまっているのだ。
日本に例えると総理大臣ではなく天皇陛下が必要だと。
ジェイルくんは総理大臣がぴったりだね。
でも総理大臣は国家の君主にはなれない。
ある意味象徴でなければならないからね。
現場で事業の指揮を執っているようでは駄目なんだよ。
困ったなあ。
何とかしないと俺が引退出来ない。
まあいいか。
後でユマさん辺りに頼めば何とかなるだろうし。
それはそうと気になる事がある。
ヤジマ屋敷の周りには誰が住んでいるの?
ジェイルくんが事も無げに言った。
「もちろん大幹部は全員です。
ラナエ殿やヒューリア殿はもちろん、事業部長以上の者はほぼ全員が屋敷を構えていますよ。
常時住んでいなくても本宅はここです。
みんなマコトさんのお側に侍りたいのは一緒ですからね」
パネェ。




