19.セシアラ公爵家?
どうやらこっちの世界の常識は俺ごときが容易に把握できるものではなさそうだった。
ハスィーによれば、貴族のマナーは表面的なものと、奥深いレベルの2段階に分けられるらしい。
ラナエ嬢やユマさんが俺に叩き込んでくれたものはその表面的なレベルの方で、普通の貴族は成人してもこれが出来ないような奴は即廃嫡されてしまうそうだ。
いや比喩的に。
それ故にそう難しいものではなく、俺でも特訓すれば何とかなったわけだが、深い方のマナーはそんなに簡単なものではないそうである。
ヤジマ学園教養学部基礎コースでやっていたのは、その奥深いレベルの「基礎」だったと。
「なるほど。
だから、ヤジマ学園に人気が出たわけか」
「そうですね。
わたくしも見学した時には驚きましたが、あの水準を維持できればおそらく宮廷でも勤まります。
貴族のマナーとは即ち社交ですから」
知らなかった。
俺としては日本の大学の教養課程をイメージしただけなんだが、こっちの世界ではまさしく貴族社会への登竜門だったわけだ。
それは人気が出るよね。
基礎コースを修了しただけで、ポンポン就職できるのは変だと思っていた疑問が解けた。
「ハスィーも出来るの……って、当然か」
「はい。
わたくしだけではなく、『学校』の卒業生は全員出来ますよ。
出来なければ卒業させて貰えませんでしたので」
それはそうだ。
『学校』の生徒たちは、現在のソラージュの最高水準の教養を身につけているはずだからな。
ていうか、俺を襲ってきた奴も出来るの?
出来が悪そうだったけど。
ハスィーの声が凍りついた。
「レベリオですか。
マナーは特別な才能がないと習得できないようなものではありませんから。
あのような者でも、時間をかければ何とかなります。
随分補習を受けていたようですが」
怖いよ!
ハスィー、まだ俺を襲った連中を許してないな。
それは別にしても『学校』ってそういう教育機関だったのか。
アメリカの海兵隊方式だったっけ。
出来ない者を排除するのではなく、出来るようになるまで続けるという、ある意味地獄のような訓練方法だとどっかで読んだな。
例えば辞書を丸暗記するような事は普通では出来ないけど、覚えなければいつまでたっても解放して貰えない状況に追い込まれたら、本当にどうしようもない人以外は何とかなる。
貴族のマナーもそういうタイプの知識・技能なんだろうね。
「俺、そんなの無理だけどいいの?」
「最初に申し上げた通り、これは貴族社会で一人前であると認められて、受け入れられるための条件です。
マコトさんのように、その他の分野で圧倒的な業績を上げた場合は、マナーなど関係ありません。
一番下から始める必要がないですから」
ハスィーは嬉しそうに笑って俺の腕をとった。
最近やたらにスキンシップしてくるな。
俺の嫁は。
気持ちいいから大歓迎だけど。
でもハスィーはそう言うけど、やっぱマナーが駄目だとみんなに恥をかかせるのではないだろうか。
今からでもちょっとずつ覚えるべきでは。
「そうですね。
どうしてもとおっしゃるのでしたら、わたくしがコーチしますけど?」
「頼むよ。
ゆっくりでいいから」
「判りました。
ではまず、これからのマコトさんに早急に必要になると思われる『公式な会食の場における妻の扱い』についてお教えしましょうか」
クスクス笑いながら言わないでよ!
嵌められた?
そういうわけで、使用人の人が呼びに来るまで俺は延々と「妻の扱い」について練習させられたのだった。
使用人に案内されて長い廊下を通り、たどり着いた広い食堂には既に親善使節団のみんなが揃っていた。
セルミナさんやトニさんたちを含めたフルメンバーだ。
ルリシア殿下もいた。
当然だけど。
ハマオルさんやナレムさんたちも目立たないように控えている。
これが公式の歓迎会だと思っていいのかな。
夕食の席でセシアラ公爵家の皆様を紹介された。
こっちからも、俺が全員を簡単に紹介する。
当主夫妻の他に次期公爵である長男夫婦とそのお子様方に加えて、次女と名乗った落ち着いた態度の婦人とその子供がいた。
「わしの娘たちは、ミラルカを除いてとうに他家に嫁いでおる。
次男と三男はそれぞれ独立してエリンサに住んでおるよ」
なるほど。
セシアラ公爵家は跡継ぎとその次の世代も確保出来ていて、安泰という所だな。
しかし次女の人は?
気になったけど聞けずにいたら、ミラルカ様と紹介されたご本人が話してくれた。
「私は結婚しておりません。
子供には恵まれましたが」
シングルマザーか。
珍しいな。
ミラルカ様も公爵令嬢なので、もちろんエルフだ。
外見的にはまだ20代半ばと言っても通るだろうが、その子供たちは十代後半に見える。
何も知らないで紹介されたら絶対に兄弟だと思うよね。
子供達は金髪じゃないので、お相手はエルフじゃなかったんだろう。
つまり子供たちの年齢は外見と一致するとみていい。
ということは、ミラルカ様はアラフォーなのでは。
いやそんなことはどうでもいい。
地球だったらスキャンダルだけど、どうもこっちでは大した問題ではないらしいからな。
ミラルカ様やその子供たちも別に萎縮している様子はないし、結婚しているかどうかはあまり関係がないのかもしれない。
ああ、そうか。
「結婚」するということは自分の家名を捨てるわけだから、逆に言えば結婚しなければ生まれ育った家から出ないことになるわけか。
結納金という形で財産分与が行われるのだから、それがないのなら実家に住み続けても不思議じゃない。
いい方法だな。
感心していると、隣に座ったハスィーが小声で教えてくれた。
「エルフは子供が出来にくいとされていますので、女性の場合一人でも産めばもう勝ちです。
お相手がエルフかどうかは問題にされません。
セシアラ公爵領は裕福な土地ですから、ミラルカ様とそのお子様方を養う余裕は十分にあるということですね」
「それって行かず後家ってことなの?」
「形としてはそうなりますが、ミラルカ様も何らかの形で働いておられるはずです。
公爵家ともなれば、社交だけでも大仕事ですので。
現公爵殿下の令嬢なら、いくらでもお仕事はあります」
なるほど。
働かざる者食うべからずか。
ミラルカ様の場合は実家が裕福で仕事の機会も十分にあるから、シングルマザーでもやっていけるんだね。
こっちは江戸時代だから、まだ家長制度が生きているのだ。
ていうか貴族だからな。
それでも男なら独立して自前でやっていくことが推奨されるみたいだけど、女性の場合は実家に留まれるということだ。
次世代を担う子供がいればむしろ安泰か。
感心していると、ハスィーの逆隣に座っているセルミナさんが言った。
「実際には、ミラルカ様はかなりの権限を持っておられると思いますよ」
「権限とは?」
「居候という立場ではなく、セシアラ公爵家における発言力もかなりあるのではと。
ミラルカ様にはお子様がいらっしゃいますから、つまり子供を産める能力があると既に証明されているわけです。
しかも公爵家令嬢でエルフ。
今でも求婚が絶えないはずです」
そうなのか!
確かにエルフは子供が出来にくいという話だから、跡継ぎがいない貴族家では子供を産めることが証明されているエルフは引っ張りだこだろう。
しかも正真正銘の公爵令嬢。
ちょっと身分が高すぎるけど、伯爵くらいまでなら無理すれば何とかなる。
ミラルカ様は純粋なエルフだし、実際のお歳はともかく見た目では若くて綺麗な令嬢にしか見えないからね。
垂涎の的といったところか。
「それを蹴ってセシアラ公爵家に留まっておられるということは、それだけの旨味があるからです。
まあ、お子様の将来なども計算に入れておられるとは思いますが」
凄い。
政治的な分析だな。
俺なんか、そんなのは全然判らないもんね。
プロに任せて引っ込んでいればいいか。
まあ、そのために傾国姫と外務省書記官が俺についていてくれるわけだが。
ぼんやり考えながら食事を終えて、お茶を楽しんでいるとセシアラ公爵殿下が話しかけてきた。
「ところでヤジマ大使殿。
明日からの予定のことだが」
「あ、はい。
こちらの希望はお伝えした通りですので、ご許可頂ければ」
よく知らないんだけど、ヒューリアさんが作った書類に俺がサインした奴を予め届けてあるはずだ。
セシアラ家側でそれを許可するかどうかということになるけど、俺は正直どうでもいい。
やれと言われたことをやるだけで。
所詮は案山子(泣)。
「もちろんヤジマ大使殿の思い通りにやって頂いて結構なのだが、こちらからも案内をつけたいと思ってな」
「ありがたく承りますが?」
「それは重畳。
ミラルカ」
「はい」
公爵殿下に話を振られて、ミラルカ様がゆったりと微笑んだ。
これはちょっと凄いかも。
ユマさんを思わせる危険な香りがビンビンくるぜ!
そのミラルカ様は自分の影になっている誰かを手で示した。
「ヤジマ大使殿に、わたくしの娘を紹介させて頂きます。
サリア」
「はい。
お母様」
立ち上がったのは、見事な赤毛と緑色の瞳が印象的な美少女だった。
年の頃は十代半ばか。
細身だけど鍛え上げられた姿態と猛禽みたいな鋭い視線がただ者ではない雰囲気を醸し出している。
胸があるから男の娘じゃないよね?
「改めて自己紹介させて頂きます。
サリア・セシアラです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
ヤジマ大使閣下」
ハスィー、そんなに腕を引っ張らないで!




