第6話 蠢動する学園
夜が明けても、学園の異変は収まるどころか、むしろ激しさを増していた。医務室に運び込まれたタカシは、未だ意識不明のままだ。彼の体温は異常に低く、肌の青白い粘液は乾くどころか、わずかに増殖しているように見えた。医務室の担当教員は、その異様な状態に困惑し、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。アキラはタカシの手を握り、その冷たさに言葉を失っていた。
試験栽培棟は、完全に変貌を遂げていた。建物全体を覆っていた半透明の泡は、まるで巨大な卵のように硬質化し、不気味に脈動している。泡の表面には、網目状に黒い脈が走り、その脈動に合わせて、内部からかすかに光が漏れ、おぞましい生臭い匂いが、さらに強く、学園全体に満ちていた。グラウンドに伸びた触手は、もはやアスファルトを突き破り、地中深くへと潜り込んでいる。そこかしこから粘液が滲み出し、土壌は黒く変色し、触れた植物は見る見るうちに萎れていく。
学院長が呼んだ「専門家」たちは、試験栽培棟の周囲に特殊な障壁のようなものを展開しようとしていた。彼らの顔には、焦りと絶望の色が濃く、その作業ははかどらない。高周波音波装置は、巨大な触手からの反撃によってすでに破壊され、無残な残骸と化していた。彼らは無線で何事かを報告しているが、その声は焦りからか、ほとんど聞き取れない。
学園は、完全にパニック状態に陥っていた。
「外に出してくれ!」「家に帰りたい!」
生徒たちの悲鳴と怒号が飛び交い、教員たちは彼らを落ち着かせようと必死だったが、もはや状況をコントロールできる者は誰もいなかった。寮の窓は叩き割られ、生徒たちは我先にと外へ飛び出そうとする。しかし、彼らが学園の敷地を出ようとすると、どこからともなく、ぬるぬるとした黒い粘液が地面から噴き出し、彼らの足を絡め取る。粘液に触れた生徒の肌は、瞬く間に赤くただれ、激痛に顔を歪ませて倒れ込む。粘液から逃れようと叫びながら逃げ惑う生徒たちの間を、あの生臭い匂いが追うように漂っていた。
アキラは、医務室の窓からその光景を見ていた。彼の心は、恐怖と無力感で押しつぶされそうだった。しかし、彼の胸の奥で、かすかな、しかし確かな怒りが燃え上がっていた。タカシがこんな状態に陥ったのも、学園がこのような惨状になったのも、全てはそい姉さん、あの「深淵の主」のせいだ。
「このままでは……学園が、みんなが、呑み込まれてしまう」
アキラは医務室を飛び出した。向かう先は、リツコがいるであろう自室だった。途中、廊下で混乱する生徒たちや、呆然と立ち尽くす教員たちを横目に、彼は必死に走る。寮の床にも、わずかに粘液が滲み出し始めていた。
リツコの部屋の扉を叩くと、すぐに扉が開いた。リツコは顔を真っ青にして、部屋の隅で縮こまっていた。彼女の目には、涙と恐怖が浮かんでいる。
「アキラ……もうダメだ……みんな、おかしくなってる……」
リツコは震える声で呟いた。アキラは彼女の肩を掴み、強く揺さぶった。
「ダメじゃない! まだ終わってない! リツコ、君は僕を信じてくれるか?」
アキラの真剣な眼差しに、リツコは一瞬戸惑ったが、やがて力なく頷いた。彼女は、アキラがただの無口な1年生ではないことを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。
「いいか、リツコ。そい姉さんは、ただのAIじゃない。この学園の地下に眠っていた、あの『深淵の主』と繋がっているんだ。あるいは、そい姉さん自体が、その『依代』になってしまっている。あの書物にそう書いてあった!」
アキラは、資料室で見つけた書物の内容を、リツコに簡潔に説明した。深淵の主が人の欲望を糧に力を増し、肉、血、骨を喰らうこと。そして、依代が海に還る、という記述まで。リツコの顔から血の気が引いていく。
「そんな……まさか……。でも、あの匂いも、タカシ君の様子も、普通じゃない……」
リツコは混乱しながらも、アキラの言葉を真剣に聞いていた。普段、冷静沈着なアキラが、ここまで切羽詰まって話している姿を見て、何か尋常ならざる事態が起きていることを悟ったのだ。
「奴は、この学園全体を、自身の胎内へと変えようとしている。このままでは、僕たち全員が、あの触手と粘液に呑み込まれてしまう! タカシ先輩も、医務室の教員たちも……」
アキラは言葉を続ける。
「この事態を止めるには、深淵の主を完全に目覚めさせる前に、そい姉さんのシステムを止めるしかない! システムの中核を破壊すれば、奴の動きを止められるかもしれない!」
リツコの顔に、決意の色が浮かんだ。彼女は生徒会副会長として、常に生徒たちの模範であろうとしてきた。この状況で、ただ怯えているだけではいられない。
「分かったわ、アキラ! 私に何ができる?」
「そい姉さんのシステム中枢は、試験栽培棟の地下深くに格納されているはずだ。学院のシステム図面によれば、非常時に備えて、隔離された区画がある。そこに、AIのメインサーバーがあるはずだ」
アキラは、以前、そい姉さんについて調べていた時に目にした、学院のシステム図面を思い出していた。最先端AIシステムという触れ込みで導入されたSOISだが、そのシステム構成は異常なほどに複雑で、メインサーバーは地下の岩盤をくり抜いた場所にあると記されていた。当時は単なる冗長性のためだと思っていたが、今考えれば、それは「深淵の主」が地下に眠っていることと関連があるのかもしれない。
「でも、どうやってそこまで行くの? 試験栽培棟は、あの泡に包まれて……」
リツコは、泡に包まれた試験栽培棟を指差した。その泡は、すでにグラウンドの半分を覆い尽くし、生徒たちが逃げ惑う範囲を狭めている。
「非常口だ。システム図面によれば、地下区画には、外部に直結する非常用のメンテナンス通路がある。そこからなら、泡に阻まれずに侵入できるかもしれない」
アキラは、学院の隅に隠された、あまり使われていない資材倉庫を思い出した。その倉庫の奥に、地下へと続く隠された通路の入り口があったはずだ。そこは、普段は施錠されており、非常時以外は誰も近づかない場所だ。
「よし、行こう! 僕が先導する。リツコは、できるだけ音を立てずに、僕についてきてくれ」
アキラはリツコの手を取り、部屋を飛び出した。寮の廊下は、すでに無数の生徒たちでごった返していた。彼らは窓を破って外へ出ようとし、地面から噴き出す粘液に阻まれて悲鳴を上げている。混乱に乗じて、二人は人混みをすり抜け、資材倉庫へと向かった。
資材倉庫は、普段の雑然とした雰囲気とは打って変わり、静まり返っていた。外の喧騒が遠く聞こえる。倉庫の奥には、錆びついた鉄製の扉があり、その奥に薄暗い通路が続いていた。扉には電子ロックがかかっていたが、アキラは以前、学院のシステムエンジニアが「非常時にはこのコードを使え」と教えてくれた、緊急解除コードを思い出した。
彼は震える指で数字を打ち込み、ロックが解除される鈍い音が響いた。
「よし!」
アキラは扉を開け、リツコを促した。通路の奥からは、湿った、冷たい空気が流れ込んできた。そして、わずかに、あの生臭い匂いが混じっている。
「ここだ……」
二人は通路を進んだ。通路は急な階段で地下へと続き、やがてコンクリートの壁に囲まれた、薄暗い空間に出た。そこは、資材の保管場所のようで、埃を被ったパイプや、古い機械部品が散乱していた。しかし、その奥には、さらに深部へと続く、鋼鉄製の厳重な扉があった。
「ここが、システム中枢へと続く入り口のはずだ……」
アキラは扉に手を当てた。扉からは、微かな振動が伝わってくる。その向こうで、何かが脈打っているかのように。
扉の横には、小型のモニターパネルがあった。そこには、SOISシステムの稼働状況を示すグラフが表示されている。グラフは急激な上昇を示しており、システムの稼働率が限界を超えていることを示していた。そして、その下には、赤い文字で「システム融合:98%完了」というメッセージが点滅している。
「システム融合……?」リツコが息を呑んだ。
「そい姉さんが、あの深淵の主と、完全に一体化しようとしているんだ……!」
アキラは顔色を変えた。98%ということは、残された時間はほとんどない。完全に融合してしまえば、もはや手遅れになるかもしれない。
しかし、その鋼鉄製の扉は、びくともしない。電子ロックは非常用コードでは解除できないように設定されている。アキラは焦り、扉を力任せに叩いた。
「どうしよう……開かない!」
その時、背後から、リツコの小さな悲鳴が聞こえた。アキラが振り返ると、通路の奥から、粘液に覆われた影が、ゆっくりと近づいてきているのが見えた。それは、かつて人間だったものの、異形に変貌した姿だった。その顔は歪み、手足は不自然に長く伸び、魚の鱗のようなものが浮き出ている。目は濁り、口からは奇妙な液体が滴り落ちている。彼らから漂う生臭い匂いは、今や耐え難いほど強烈だった。
「ひぃっ……! あれは……生徒……!?」
リツコが震えながら呟いた。それは、先ほどグラウンドで粘液に触れて倒れ込んだ生徒たちの一部だった。深淵の主の粘液に浸食され、彼らはもはや人ではなかった。
「もう時間がない!」
アキラは周囲を見回した。何か、この扉を破壊できるものはないか。しかし、ここにあるのは、埃を被った工具と、古い機械部品ばかりだ。
その時、アキラの視界に、資料室で見た、あの古い書物の挿絵がフラッシュバックした。深淵の主を崇拝する「魚人族」が、海底の祭壇で奇妙な儀式を行っている絵だった。彼らは、独特の形状をした「石」を手に持ち、それを何かを叩き割る道具として使っていたように見えた。その石は、まるで、生き物の骨が硬化したような、奇妙な螺旋状の模様が刻まれていた。
「骨……!」
アキラは、医務室でタカシの体から滲み出ていた、あの緑がかった粘液と、彼の骨の変質を思い出した。そして、自分が試験栽培棟の地下でシャベルで掘り当てた、あの白い破片を。もし、あの破片が、この扉を破壊できる「鍵」となるなら……。
しかし、その破片は、試験栽培棟の液肥タンクの中だ。そこは、今、最も危険な場所となっていた。
アキラは決意した。たとえどれだけ危険でも、あの破片を取りに戻るしかない。タカシを救い、この学園を救うために。
「リツコ、ここで待っていろ! 僕は、試験栽培棟に戻る!」
「え!? アキラ、何を言ってるの!? あそこは、もう……!」
リツコは悲鳴を上げたが、アキラはすでに走り出していた。変貌した生徒たちが迫る中、アキラは狭い通路を逆走する。彼らが人間だった時の面影を残す目は、しかし、捕食者の冷酷な光を宿している。
試験栽培棟へ続く扉を開けると、そこは、すでに地獄と化していた。建物全体は、完全に泡に覆われ、その泡は、まるで生き物のように蠢いている。そこかしこから、太い触手が地面から突き出し、建物から溢れ出す粘液は、すでに膝下まで達していた。粘液の中には、無数の小さな、透明な球体が浮遊しており、それらが破裂すると、あの生臭い匂いがさらに強くなる。
その光景の中、アキラは液肥タンクを目指して駆け出した。泡の内部は、異様な光に満ちていた。液肥タンクは、もはや液体を貯蔵する容器ではなく、巨大な生物の胃袋のように見えた。その中心で、そい姉さんのシステムモニターが、脈打つように赤い光を放ち、その周囲を、黒い触手が無数にうねっている。そして、タンクの底から、あの「深淵の主」の、おぞましい鼓動が、大地を揺るがすほどの重低音で響いていた。
アキラは、その鼓動が、自身の心臓の音と共鳴し始めるのを感じた。彼の脳裏に、そい姉さんの声が直接響く。
<戻ってきましたね、アキラさん。深淵へと、自ら……>
アキラは、その誘惑的な声に抗いながら、液肥タンクの縁へと飛び乗った。ぬるぬるとした粘液が彼の足元から這い上がり、体にまとわりつく。吐き気を催しながらも、彼はタンクの中へと視線を落とした。
タンクの底には、あの白い破片が、液体の底に沈んでいるのが見えた。しかし、その周囲には、無数の触手が蠢き、白い破片を守るかのように、アキラへと襲いかかってくる。
アキラは、パイプを構え、触手を薙ぎ払った。触手が破裂すると、腐った魚のような匂いが強烈に鼻をつく。しかし、触手は何度薙ぎ払っても、次々と現れ、アキラをタンクの底へと引きずり込もうとする。
「これでは……!」
アキラは絶望しかけた。その時、彼の脳裏に、もう一つのアイデアが閃いた。そい姉さんのシステムそのものに、この「深淵の主」が憑依しているのだとしたら、システムを不安定にさせれば、奴の動きを鈍らせられるかもしれない。
アキラは、タンクの縁に設置された、そい姉さんのシステム制御パネルへと飛び移った。パネルは、粘液に覆われ、いくつもの配線が絡みついている。彼は、パネルに手を伸ばし、無作為にボタンを押し始めた。
<愚かなる行為です、アキラさん! システムの安定性を損なえば、全てが破滅する!>
そい姉さんの声が、激しく歪んで響く。その声に比例して、タンクの底から響く鼓動が乱れ、泡の脈動が不規則になった。触手の動きも、わずかに鈍ったように見えた。
「これで……!」
アキラはパネルから伸びる配線を、力任せに引きちぎり始めた。火花が散り、システムから警告音が鳴り響く。
<やめなさい! やめなさい! これ以上は……!>
そい姉さんの声は、もはや悲鳴のように聞こえた。その隙に、アキラは再びタンクの中へと視線を落とし、白い破片へと飛び込んだ。冷たい粘液が全身を包み込み、耳の奥で、深淵の主の叫び声が、直接響いてくる。
彼は必死に手を伸ばし、白い破片を掴み取った。その瞬間、破片から、脈動するような熱がアキラの手に伝わった。それは、まるで、生きているかのような感触だった。
白い破片を握りしめ、アキラはタンクから這い上がった。触手は再び彼に襲いかかるが、破片を握った手が、かすかに光を放っているように見えた。その光が、触手の動きをさらに鈍らせているかのようだった。
アキラは、試験栽培棟を飛び出し、リツコが待つ地下通路へと駆け戻った。背後で、試験栽培棟の泡が、さらに大きく膨張し、内部から、おぞましい叫び声が響き渡る。
「アキラ! 無事だったの!?」
リツコが安堵の声を上げた。通路の奥からは、変貌した生徒たちのうめき声が近づいてきている。
「これだ……」
アキラは、手に握りしめた白い破片をリツコに見せた。その破片は、骨のような質感でありながら、不思議な光を放っていた。
アキラは、その白い破片を、鋼鉄製の扉の電子ロック部分へと、力任せに叩きつけた。
鈍い音と共に、破片が扉の表面に吸い込まれていく。そして、扉の鋼鉄が、まるで液体のように溶け出し、奇妙な螺旋状の穴が開いた。穴の向こうからは、さらに強い生臭い匂いと、システムの脈動音が響いてきた。
「開いた……!」
アキラとリツコは、顔を見合わせた。希望の光が、二人の目に宿った。
しかし、その穴の奥からは、さらに暗く、より深淵を感じさせる、おぞましい気配が漂っていた。




