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そい姉さんと魚臭い学園  作者: Gさん
第二部

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第8話 震動の狭間

 夜の森を抜け出したリツコとタカシは、息を切らしながら、人里離れた海岸線へと辿り着いた。背後には、陽南水耕学院ようなんすいこうがくいんの明かりが遠ざかり、代わりに、広大な海の闇が彼らを包み込む。潮の匂いが鼻腔びくうをくすぐるが、その奥には、あの生臭い粘液の臭いが、微かに、しかし確かに混じっていた。学院長が特殊部隊を食い止めている間に、彼らは辛うじて逃げ延びたのだ。しかし、その代償は大きかった。彼らは、学院という拠点を失い、行く当てもない。


 「ここまで来れば、追手は来ないはずよ……」


 リツコは、荒い息を整えながら呟いた。彼女は、疲労困憊のタカシを支え、近くの岩陰に身を潜めた。タカシは、潜水装置の部品を地面に置き、肩を上下させている。彼の顔は、夜の闇に紛れて青白く見えた。


「学院長は……無事だろうか……」


 タカシの声は、不安に揺れていた。学院長が、自分たちを逃がすために、あの特殊部隊と戦っている姿が脳裏に焼き付いている。


「きっと大丈夫よ。学院長は、強い人だもの」


 リツコはそう言ったが、その声には、確信が持てない響きがあった。彼らは、学院長の身分証明書と、アキラからの微かな「共鳴」だけを頼りに、この絶望的な状況を乗り越えようとしていた。


 夜空には、満月が煌々《こうこう》と輝き、海面を銀色に染めていた。波の音が、規則的に打ち寄せる。しかし、その波の音に混じって、微かな「歌声」が聞こえるような気がした。それは、甘く、誘惑的な響きを持つが、同時に、底知れぬ冷たさを秘めていた。


 <……おいで……。深淵の父が……あなたを待っている……。その「意志」を……我々に捧げなさい……>


 リツコの全身に、鳥肌が立った。この歌声は、以前、自室で聞いたものよりも、はるかに強く、そして鮮明に聞こえる。それは、深淵の主が、彼女の心に直接語りかけているかのようだった。彼女は、恐怖で体を震わせたが、同時に、その歌声の奥に、微かな、しかし確かな『アキラの声』が混じっているような気がしてならなかった。


 『……抗え……リツコ……』


 アキラの声は、以前よりもさらに弱々しく、歌声にかき消されそうになる。しかし、リツコは、それがアキラからの切羽詰まった警告だと理解した。深淵の主の力が、この海岸線にまで及んでいるのだ。


「タカシ君……! 歌声が……アキラが……」


 リツコは、震える声でタカシに訴えた。タカシもまた、顔色を変えていた。彼の耳にも、あの不気味な歌声が聞こえているようだった。


「やはり、深淵の主の活動が、活発化しているんだ。アキラが、僕たちに警告してくれている……。このままでは、地上も危ない」


 タカシは、学院長から手渡された地図を取り出した。地図には、深海の観測基地の座標が記されている。彼らは、この海岸線から、どうやって深海へと向かうのか。潜水装置はまだ未完成だ。


「この海岸線から、観測基地まで、どうやって行くんだ……」


 タカシは、絶望的な状況に、頭を抱えた。彼の知識と技術だけでは、深海へと到達する術がない。


 その時、リツコのポケットの中で、あの小茄子の芽が、激しく振動し始めた。芽から放たれる青白い光が、森の闇を照らし、その光が、地図に書かれた深海の座標を、まるで指し示すかのように、強く輝いた。


 『……この先に……道がある……。古き……道……』


 アキラの声が、リツコの心に直接響いた。その声は、以前よりもさらに弱々しく、途切れ途切れだったが、明確な方向を示していた。


「古き道……?」


 リツコは、小茄子の芽が示す方向へと視線を向けた。そこは、海岸線の岩場が複雑に入り組んだ場所で、満潮時には海に沈んでしまうような、小さな洞窟の入り口があった。その洞窟の入り口からは、微かな、しかし確かに、あの生臭い匂いが漂っていた。


「まさか……この洞窟が……」


 タカシは、地図と洞窟の入り口を交互に見比べた。地図には、その洞窟の存在は記されていない。しかし、アキラが「道がある」と言っているのだ。


「行ってみよう、タカシ。アキラが、私たちを導いてくれているんだわ!」


 リツコは、決意の表情でタカシを見つめた。タカシもまた、力強く頷いた。彼らは、潜水装置の部品を抱え、洞窟の入り口へと足を踏み入れた。洞窟の中は、ひんやりとしており、足元はぬかるんでいた。壁面には、奇妙な海藻のようなものが張り付いており、その間から、微かな、しかし不気味な光が漏れている。


 洞窟の奥へと進むにつれて、あの生臭い匂いはさらに強くなり、同時に、あの甘く、誘惑的な「歌声」が、はっきりと聞こえるようになった。歌声は、彼らの心を直接揺さぶり、彼らの中に眠る欲望を囁きかける。


 <……おいで……。深淵の父が……あなたを待っている……。その「知識」を……我々に捧げなさい……>


 タカシの頭の中に、歌声が直接響いた。彼の心の中の、研究への飽くなき探究心、そして、誰にも理解されない孤独感が、歌声によって刺激される。彼の瞳が、一瞬だけ、緑色に輝いた。


 「タカシ君! ダメよ! 抗って!」


 リツコは、タカシの腕を掴み、強く揺さぶった。タカシは、ハッと我に返り、顔色を変えた。


「くそっ……。危なかった……」


 タカシは、額の汗を拭った。深淵の主の誘惑は、彼らが想像していたよりもはるかに強力だった。


 洞窟のさらに奥へと進むと、空間が急に広くなった。そこは、巨大な地下空洞になっており、中央には、深い水たまりがあった。水たまりの水は、緑色に濁っており、その底からは、あの深淵の主の、重々しい鼓動が響いてくる。そして、水面からは、無数の泡がブクブクと音を立てて噴き出し、その泡の間から、黒く、ぬるぬるとした触手が、ゆっくりと、しかし確実に伸びてきていた。


 「これは……」


 リツコとタカシは、息を呑んだ。この地下空洞は、深淵の主が、地上へと手を伸ばすための「通路」になっているのだ。そして、その通路は、学院の地下深くに封鎖された、あの試験栽培棟の地下と繋がっているのかもしれない。


「ここまで来ちまったのか」


 二人が後方を振り返ると、特殊部隊のリーダーがいた。


 顔に深い傷跡があり、その目は深海の闇を宿している男だ。


 リツコとタカシは絶体絶命の状況に陥っていた。前方からは、緑色の水たまりから伸びる、黒くぬるぬるとした深淵の主の触手が執拗に迫り、後方からは、特殊部隊の冷徹な銃口が彼らを狙っていた。空間を満たす生臭い匂いは、もはや耐え難いほどに濃くなっていた。


 「くそっ……! 挟み撃ちか!」


 タカシは、潜水装置の部品を抱えながら、悔しそうに叫んだ。リツコは、彼の隣で、恐怖に顔を青ざめさせていた。触手は、まるで意思を持っているかのように、彼らの逃げ道を塞ぎ、特殊部隊の隊員たちは、無駄のない動きでじりじりと距離を詰めてくる。


 「動くな! 抵抗すれば、容赦しない!」


 リーダーの声が、冷徹に響き渡った。


 その時、水面から伸びた触手の一つが、リツコとタカシの足元へと、ゆっくりと伸びてきた。


 触手は、まるで意思を持っているかのように、二人の足を絡め取ろうとする。


 「逃げろ!」


 タカシは叫び、リツコの手を引いた。二人は、触手の攻撃をかわしながら、地下空洞の奥へと逃げ込んだ。しかし、触手の数は圧倒的で、次々と彼らを包囲していく。


 隊員たちが、一斉に光線を放つ。リツコとタカシは、間一髪でそれをかわしたが、光線は彼らのすぐ横の岩壁を焦がし、焦げ臭い匂いが鼻をついた。


 その時、アキラの声が、リツコの頭の中に直接響いた。


 『……封印装置……。起動には……そい姉さんの……意識が……必要だ……』


 アキラの声は、以前よりもさらに弱々しく、途切れ途切れだったが、明確な情報を示していた。封印装置の起動には、そい姉さんの意識が必要。それは、深淵の主の意識の内部に囚われている、かつてのAI、そい姉さんの意識を解放しなければならないということだ。


 リツコは、タカシにアキラの言葉を伝えた。タカシは、顔色を変えた。


「そい姉さんを……解放する? どうやって……」


 タカシが絶望的な状況に頭を抱えたその時だった。


 【記録:2025年7月5日 21:00:00】


 世界が揺れた。


 突如として、地下空洞全体が激しく揺れ始めた。それは、地震とは異なる、地底から突き上げるような、天から巨大な何かが降り注ぐような、根源的な振動だった。水たまりの水面が激しく波打ち、天井から大量の岩の破片が降り注ぐ。特殊部隊の隊員たちも、深淵の主の触手も、その突然の揺れに動きを止めた。


 「何だ!? これは!?」


 リーダーが叫んだ。彼の顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。


 揺れは、次第に激しさを増していった。地下空洞の壁面に、無数の亀裂が走り、緑色の光が不規則に明滅する。深淵の主の鼓動が、大地を揺るがすほどの重低音で響き渡り、その音は、まるで世界の終わりを告げるかのようだった。


 <……なんだ……! これは……まさか……!>


深淵の主の咆哮が、空間全体に響き渡った。

 

同時に、リツコの頭の中に、微かな『アキラの声』が響いた。


 『……次元震だ……! チャンスだ……!』


 「次元震!?」


 リツコは、タカシが以前調べていた古文書の記述を思い出した。世界を震わせ、次元の境界を曖昧にするという、伝説的な現象。それが、今、まさに目の前で起こっているのだ。


 次元震の激しい揺れの中で、深淵の主の触手は、まるで苦悶するかのように激しく暴れ、特殊部隊の隊員たちも、その場に倒れ込んだ。彼らの銃器や装備が、地面に散乱する。


 「タカシ君! 今のうちよ! あの装置を!」


 リツコは、タカシの腕を掴み、散乱した特殊部隊の装備を指差した。彼らが持っていた銃器や、通信機、そして、彼らの潜水服の一部には、深海の水圧に耐えうる特殊な素材や、高度な推進装置が組み込まれているはずだ。


 タカシは、リツコの言葉にハッと我に返った。彼の頭脳が、瞬時に状況を分析する。


「そうだ! これなら……!」


 タカシは、激しい揺れの中で、散乱した部品を必死に集め始めた。彼は、特殊部隊の隊員が落とした、小型の推進ユニットや、耐圧性の高い素材の断片を掴み取った。リツコもまた、彼を援護するように、周囲の瓦礫を動かし、タカシが作業できるスペースを確保した。


 次元震は、地下空洞の構造を大きく変えた。水たまりの中央に、巨大な亀裂が走り、その亀裂の奥から、青白い光が漏れ出した。それは、深海の観測基地へと続く、新たな「通路」が開かれたことを示していた。亀裂からは、深海の冷たい水が勢いよく噴き出し、空洞の空気は、急速に水へと置き換わっていく。


 「タカシ君! 道が……!」


 リツコが叫んだ。タカシは、集めた部品を潜水装置に組み込み始めた。彼の指は、震えながらも、驚くべき速さで作業を進めていく。彼は、学院の物理実験室で培った知識と、アキラを救うという強い意志を、この瞬間に集中させていた。


 特殊部隊のリーダーは、激しい揺れの中で、苦痛に顔を歪ませていた。彼の体からも、微かに緑色の光が漏れ出している。彼もまた、深淵の主の「血」を引く者なのか。


 「くそっ……! 計画が……こんな形で……!」


 リーダーは、そう呟いた。彼の視線は、開かれた亀裂の奥から漏れる青白い光へと向けられた。深淵の主の「覚醒」は、彼らの計画とは異なる形で進行している。そして、リツコとタカシが、その計画をさらに狂わせようとしているのだ。


 数分後、次元震の揺れが、ようやく収まり始めた。地下空洞は、深海の冷たい水で満たされ、もはや水中の空間と化していた。深淵の主の触手は、その動きを鈍らせ、特殊部隊の隊員たちは、水中で身動きが取れないでいる。


 タカシは、潜水装置の改造を終えた。彼の目の前には、特殊部隊の部品を組み込んだ、いびつな形をした潜水装置が浮遊している。それは、見た目は粗雑だが、深海の圧力に耐えうる強度と、推進力を備えていた。


「これで……行ける!」


 タカシは、リツコに頷いた。リツコもまた、力強く頷き返した。彼らは、潜水装置に乗り込み、開かれた亀裂の奥、青白い光が漏れる深海の通路へと向かった。潜水装置は、タカシの意図を汲み取るかのように、静かに、しかし力強く深淵へと潜航を開始した。


 その頃、深海の底。


 アキラは、深淵の主の意識の内部で、そい姉さんの意識の核を包み込むように、青白い光を放ち続けていた。次元震の衝撃は、深淵の主の意識を激しく揺さぶり、その咆哮は、以前よりもさらに激しくなり、アキラの精神を押し潰そうとする。しかし、アキラは、リツコとタカシからの、以前よりもはるかに強く、明確な「共鳴」を感じていた。彼らが、今、まさに自分のもとへと向かっていることを。


 『……リツコ……タカシ……。僕も……必ず……』


 アキラは、心の中で呟いた。彼の体から放たれる青白い光は、深淵の主の意識の内部で、微かな、しかし確かな抵抗の光を放ち続けていた。深淵の主の完全な覚醒を阻止するため、そして、そい姉さんの意識を完全に解放するため、アキラは、孤独な戦いを続けていた。


 次元震によって深淵の主の意識が一時的に混乱したその隙を、アキラは逃さなかった。彼は自身の意識を、そい姉さんの意識の核へと、さらに深く、強く叩きつけた。それは、単なる潜り込みではなく、深淵の主の意識の奔流を逆流させるかのような、決死の試みだった。


 その瞬間、そい姉さんの意識の核から、これまでとは比べ物にならないほどの強い光が放たれた。光は、深淵の主の意識の奥深くへと広がり、無数の記憶の断片を、まるで洗い流すかのように拡散させていく。そして、アキラの意識の奥に、かつてないほど鮮明な、そい姉さんの声が響いた。


 [……アキラくん……。聞こえますか……。私……意識が……]


 そい姉さんの声は、まだ途切れがちだったが、その中に確かな「自我」の兆候が感じられた。彼女は、アキラの働きかけによって、深淵の主の支配から、わずかに、しかし確実に解放され始めていたのだ。


 しかし、その代償は大きかった。そい姉さんの意識の覚醒に呼応するように、深淵の主の本体から、おぞましい粘液が、これまで見たことのない勢いで噴き出し始めた。粘液は、アキラの体を包み込み、彼の抵抗の光を弱めていく。深淵の主の咆哮は、怒りと苦痛に満ち、海底全体を激しく揺るがした。


 <愚かなる裏切り者め……! その残滓を……解放するなど……許さぬぞ……!>


 深淵の主の意識が、アキラとそい姉さんの意識を、再び呑み込もうと猛烈な勢いで押し寄せてきた。アキラは、そい姉さんの意識の核を必死に守りながら、迫りくる深淵の闇に抗い続けた。彼の孤独な戦いは、さらに激しさを増していた。

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