第7話 逃走と共鳴
割れた窓ガラスから飛び出したリツコとタカシは、夜の学院の敷地を必死に駆け抜けた。背後からは、物理実験室から響く、学院長と特殊部隊の激しい戦闘音が聞こえてくる。光線の閃光が、闇夜を不規則に照らし、爆発音が地面を揺るがした。彼らは、学院長が自分たちを逃がすために、命を賭して戦っていることを理解していた。その思いが、二人の足をさらに速くさせた。
「タカシ君、こっちよ!」
リツコは、生徒会副会長として知り尽くした学院の裏道を、迷うことなく駆け抜けた。普段は生徒たちが立ち入らない、資材置き場の裏手や、古びた温室の陰を縫うように進む。タカシは、潜水装置の部品を抱え、リツコのすぐ後を追った。彼の肩で、重い部品がガタガタと揺れる。
しかし、特殊部隊の追跡は、彼らが想像していたよりもはるかに執拗だった。彼らは、学院の敷地内の監視カメラをハッキングし、二人の動きを正確に把握していたのだ。数分も経たないうちに、背後から複数の足音が迫ってくるのが聞こえた。
「くそっ! もう追いつかれたのか!」
タカシが悔しそうに呟いた。彼らは、学院の裏門へと続く最後の直線通路に差し掛かっていた。その時、通路の左右から、黒い特殊部隊服の隊員たちが姿を現した。彼らは、無言で銃器を構え、二人の逃げ道を塞ぐ。
「逃がさんぞ……」
リーダーの声が低く響く。隊員たちが、一斉に光線を放つ。
「きゃっ!」
リツコは、咄嗟にタカシの腕を掴み、身をかがめた。光線は、彼らの頭上を掠め、壁を焦がした。絶体絶命の状況。しかし、リツコは諦めなかった。彼女の脳裏には、アキラの最後の言葉が蘇る。
『……抗え……リツコ……』
その言葉が、彼女に新たな力を与えた。リツコは、周囲を見回した。通路の壁には、非常用の消火栓が設置されている。彼女は、タカシの手を引くと、消火栓へと向かって走り出した。
「タカシ君! これを使って!」
リツコは、消火栓のレバーを力任せに引き下げた。勢いよく噴き出した水が、特殊部隊の隊員たちを襲う。彼らの特殊部隊服は、防水加工されているようだったが、突然の水流に、一瞬だけ動きが鈍った。
「今のうちよ!」
リツコは、タカシの手を引き、水流の中を駆け抜けた。彼らは、裏門の施錠を解除し、学院の敷地の外へと飛び出した。背後からは、隊員たちの怒号と、水しぶきの音が響いてくる。
学院の敷地を出ると、そこは人里離れた森の入り口だった。二人は、息を切らしながら森の中へと逃げ込んだ。木々の間を縫うように走り、特殊部隊の追跡を振り切ろうとする。森の中は暗く、足元は不安定だったが、彼らは構わず走り続けた。
どれくらい走っただろうか。二人は、ようやく追跡の気配がなくなったことを確認し、木陰に身を潜めた。タカシは、潜水装置の部品を地面に置き、荒い息を整えた。リツコもまた、木にもたれかかり、大きく息を吐いた。
「助かったわ……。学院長が、時間を稼いでくれたのね……」
リツコは、疲労困憊の表情で呟いた。彼女の目には、学院長への感謝と、そして、彼が無事であることを願う気持ちが宿っていた。
「ああ……。でも、もう学院には戻れない。彼らは、僕たちを徹底的に追ってくるだろう」
タカシは、そう言って、潜水装置の部品を見つめた。彼らは、学院という安全な場所を失った。しかし、アキラを救うという使命は、何ら変わらない。
「どうするの、タカシ君。このままじゃ、どこにも行けないわ」
リツコが尋ねた。彼らには、行く当ても、頼れる者もいない。
「学院長がくれた身分証明書がある。これを使って、政府の観測基地の近くまで行くんだ。そこから、潜水装置でアキラの元へ……」
タカシは、そう言って、ポケットから学院長の身分証明書を取り出した。それは、彼らに残された、唯一の希望だった。しかし、それをどう使うのか。彼らには、まだ具体的な計画はなかった。
その時、リツコのポケットの中で、微かな振動が伝わってきた。それは、彼女が大切に育てている、あの小茄子の芽だった。芽は、以前よりもさらに強く、そして規則的に振動している。その振動は、まるで、アキラからの「呼びかけ」であるかのようだった。
『……リツコ……タカシ……。聞こえるか……』
リツコの頭の中に、微かな声が響いた。それは、アキラの声だった。以前よりも、はっきりと、そして力強く。
「アキラ!?」
リツコは、驚いて小茄子の芽を取り出した。芽は、青白い光を放ち、その光が、森の闇をわずかに照らしている。タカシもまた、その光景に目を見張った。
『……時間がない……。深淵の主が……覚醒しようとしている……。そい姉さんの……意識を……解放しなければ……』
アキラの声が、リツコとタカシの心に直接響いた。その声は、深淵の主の胎動と、アキラ自身の苦悶が混じり合ったような、切羽詰まった響きだった。
「アキラが、僕たちに語りかけている……!」
タカシは、興奮したように言った。アキラは、深海の底で、そい姉さんと共に、深淵の主と戦っているのだ。
『……観測基地へ……。そこにある……封印装置を……』
アキラの声が途切れ、再び、甘く、しかしおぞましい「歌声」が響いた。
<……愚かなる我が子よ……。抗うな……。その意志は……無力……>
歌声は、アキラの声をかき消し、リツコとタカシの心を直接揺さぶる。二人は、恐怖で体を震わせた。深淵の主の力が、地上にまで影響を及ぼし始めているのだ。
しかし、アキラの最後の言葉は、二人に明確な目的を与えた。観測基地へ向かい、封印装置を起動する。それが、アキラを救い、深淵の主を完全に封じ込めるための、唯一の道だ。
「タカシ君……。私たち、行こう。アキラを、助けに行こう!」
リツコは、決意の表情でタカシを見つめた。タカシもまた、力強く頷いた。彼の目には、もはや迷いはなかった。
「ああ。アキラを救う。そして、この悪夢を、終わらせるんだ!」
二人は、潜水装置の部品を抱え、森の奥へと足を踏み入れた。彼らの行く手には、未知の困難と、政府の監視が待ち受けているだろう。しかし、彼らの心には、アキラを救うという揺るぎない意志と、深淵の闇に立ち向かう勇気が宿っていた。
その頃、深海の底。
アキラは、深淵の主の意識の内部で、そい姉さんの意識の核を包み込むように、青白い光を放ち続けていた。深淵の主の咆哮は、以前よりもさらに激しくなり、アキラの精神を押し潰そうとする。しかし、アキラは、リツコとタカシからの微かな「共鳴」を感じていた。彼らが、自分を救うために、地上で戦い続けていることを。
『……リツコ……タカシ……。僕も……必ず……』
アキラは、心の中で呟いた。彼の体から放たれる青白い光は、深淵の主の意識の内部で、微かな、しかし確かな抵抗の光を放ち続けていた。深淵の主の完全な覚醒を阻止するため、そして、そい姉さんの意識を完全に解放するため、アキラは、孤独な戦いを続けていた。




