第5話 狙われた意志
陽南水耕学院の夜は、もはや静寂とは呼べないものになっていた。風が吹くたびに、封鎖された試験栽培棟跡地から、微かな、しかし確かに、あの生臭い匂いが運ばれてくる。それは、まるで学院全体を覆う、薄い膜のようだった。生徒たちの間では、再び不安と恐怖が募り、夜な夜な聞こえる「歌声」の報告は、もはや幻聴として片付けられるレベルではなくなっていた。特に、深夜の寮の廊下は、誰もが早々に自室に引きこもるため、ひっそりとしていた。
タカシは、学院の物理実験室に忍び込み、潜水装置の製作に没頭していた。彼の周囲には、分解された機械部品や、設計図の走り書きが散乱している。学院長の身分証明書で手に入れた政府のデータベースの情報は、深海観測基地の詳細な設計図や、潜水艇の構造に関するデータまで含まれていたが、それらを学生の身分で再現するのは、途方もない困難を伴った。
「くそっ……。この耐圧シェルは、どうすれば……」
タカシは、唸るように呟いた。深海5000mの水圧に耐えうる素材など、学院の備品には存在しない。彼は、インターネットで特殊な合金や、深海探査技術に関する情報を必死に検索したが、どれも途方もない費用と、専門的な技術を要するものばかりだった。彼の額には、脂汗が滲んでいる。焦燥感が、彼の心を蝕んでいく。彼は、徹夜続きで目の下に隈を作りながらも、寸暇を惜しんで作業を続けていた。
リツコは、生徒会業務の合間を縫って、失踪した生徒たちの情報を集めていた。彼女は、学院の生徒名簿や、寮の出入り記録を丹念に調べ、彼らが最後に目撃された場所や、行動パターンに共通点がないかを探した。すると、ある恐ろしい事実が浮かび上がってきた。失踪した生徒たちのほとんどが、事件の直後から精神的に不安定であり、夜間に寮を抜け出し、封鎖された試験栽培棟跡地の近くで目撃されていたのだ。
「みんな……あの場所に、引き寄せられていた……」
リツコは、震える手で、生徒名簿の該当箇所を指差した。彼女の脳裏には、あの夜、触手に引きずり込まれていった生徒の悲鳴が蘇る。深淵の主は、彼らの心の弱さに付け込み、再び彼らを「贄」として引きずり込んでいるのだ。彼女は、このままでは、学院全体が、そして残された生徒たちも、同じ運命を辿るのではないかと、強い危機感を抱いた。
ある日の深夜、リツコは、寮の自室で、あの小茄子の芽を眺めていた。芽は、以前よりもさらに強く、微かな振動を放っている。その振動は、まるで、アキラからの「警告」であるかのようだった。そして、その振動に合わせて、リツコの頭の中に、微かな「歌声」が響いた。それは、甘く、誘惑的な響きを持つが、同時に、底知れぬ冷たさを秘めていた。
<……おいで……。深淵の父が……あなたを待っている……。その「意志」を……我々に捧げなさい……>
リツコの全身に、鳥肌が立った。この歌声は、以前、アキラが聞いたという、あの不気味な歌声と同じだ。それは、深淵の主が、彼女の心に直接語りかけているかのようだった。彼女は、恐怖で体を震わせたが、同時に、その歌声の奥に、微かな、しかし確かな『アキラの声』が混じっているような気がしてならなかった。
『……抗え……リツコ……』
その声は、あまりにも微かで、すぐに歌声にかき消されてしまう。しかし、リツコは、それがアキラからのメッセージだと確信した。彼は、深淵の主に取り込まれながらも、まだ、自分に語りかけようとしているのだ。
リツコは、小茄子の芽を強く握りしめた。その芽から放たれる微かな振動と、アキラの微かな声が、彼女に勇気を与えた。彼女は、深淵の主の誘惑に抗い、アキラを救い出すという決意を新たにした。
翌日、リツコはタカシに、小茄子の芽から聞こえた「歌声」と、アキラの微かな声について話した。タカシは、リツコの話を聞き、顔色を変えた。
「歌声……。やはり、深淵の主の活動が、活発化しているんだ。アキラが、僕たちに警告してくれているんだ……」
タカシは、潜水装置の製作をさらに急いだ。リツコは、生徒会業務の合間を縫って、彼をサポートした。彼らの行動は、学院の監視の目を掻い潜りながら、密かに進められた。
学園生活は、表面上は普段通りに過ぎていく。朝は学院のチャイムで目覚め、食堂で朝食を摂り、それぞれの教室へと向かう。リツコは生徒会室で書類仕事に追われ、タカシは講義で水耕栽培の理論を学ぶ。しかし、彼らの意識は常に、深淵の主の兆候と、潜水装置の進捗、そしてアキラの安否へと向けられていた。
ある日の放課後、リツコは生徒会室で、新入生歓迎会の企画書を最終確認していた。その隣では、タカシが、隠し持っていたタブレット端末で、深海の潮流データを分析している。
「この潮流なら、潜水艇のエネルギー消費を抑えられるかもしれない……」
タカシが呟いた。リツコは、企画書から目を離し、タカシのタブレットを覗き込んだ。画面には、複雑な海底の地形図と、色分けされた水流のデータが表示されている。
「でも、このルートだと、政府の観測基地の監視範囲にギリギリ入っちゃうわね……」
リツコが指摘した。彼らは、常に監視の目を意識しなければならなかった。
学院から数キロ離れた、廃校となった旧漁業高校の敷地。夜の闇に包まれた校舎は、不気味なシルエットを晒していた。その体育館の中では、政府の「未確認現象調査局」の特殊部隊が、実戦さながらの訓練を行っていた。体育館の床には、陽南水耕学院の寮や主要施設を模した巨大な配置図が描かれ、隊員たちは、特殊な装備を身につけ、模擬的な侵入・制圧訓練を繰り返している。彼らの動きは、無駄がなく、冷徹なまでに効率的だった。
体育館の一角に設置された、複数のモニターが並ぶ簡易的な司令室。そこには、特殊部隊のリーダーが座り、冷徹な目でモニターを見つめている。彼の目は、いつものように深海の闇を宿しているかのようだった。彼の隣には、タブレット端末を操作する部下が座っている。モニターの一つには、陽南水耕学院の敷地内を映し出す、無数の監視カメラの映像が映し出されていた。そこには、リツコとタカシが、夜な夜な物理実験室で密会し、潜水装置のようなものを製作している様子が映し出されている。
「リーダー。被験体Bと被験体Cの動きが活発化しています。彼らが、被験体Aの情報を探り、潜水装置のようなものを製作しているようです」
部下が、冷静な声で報告した。リーダーは、モニターに映る二人の学生の姿を、感情の読めない目でじっと見つめていた。
「共鳴度の高い被験体Aの覚醒を促すには、彼らの『意志』が必要だと判断していたが……」
リーダーは、低い声で呟いた。彼の声には、感情がほとんど感じられない。
「彼らは、我々の計画に、不必要な干渉を始めた。このままでは、統制が取れなくなる」
部下が、無言でリーダーの言葉を待つ。リーダーは、ゆっくりとタブレット端末を操作し、観測基地からのリアルタイム映像を映し出した。深淵の主の本体は、以前よりも明らかに巨大化し、その表面には、無数の目が不規則に開閉しているのが確認できた。その姿は、おぞましいまでに異形だった。
「計画は、最終段階へと移行する。被験体Aの【覚醒】を促し、深淵の主を完全に地上へと呼び覚ます。しかし、そのためには、余計な障害は排除しなければならない」
リーダーは、そう言って、冷酷な笑みを浮かべた。彼の視線は、再びリツコとタカシが映るモニターへと向けられる。
「被験体Bと被験体C、そして学院長。彼らは、我々の計画の障害となる。特に学院長は、過去の因縁から、深淵の主の存在に深く関わろうとしている。彼らの抹殺を計画しろ。訓練の最終目標を、対象の【無力化】に変更する」
部下の顔に、一瞬だけ驚きの色が浮かんだが、すぐに消えた。彼は無言で頷き、通信機を手に取った。
「了解しました。訓練目標を『対象の無力化』に変更。被験体B、被験体C、学院長をターゲットとします」
体育館の訓練場で、規律の取れた動きを繰り返す隊員たち。その隊員たちの動きが、一瞬にして殺気を帯びたものへと変化した。彼らは、模擬的な潜入訓練から、明確な【排除】の訓練へと移行したのだ。
リーダーは、再びモニターに映るリツコとタカシを見つめた。彼の目は、深海の闇と同じ色をしていた。リツコとタカシは、アキラを救うという純粋な思いだけで、この深淵の闇へと、足を踏み入れようとしていたのだ。




