第2話 秘匿の痕跡
陽南水耕学院の夜は、以前にも増して静まり返っていた。生徒たちは、あの事件以来、夜間の外出を控えるようになり、寮の廊下には人の気配がほとんどない。そんな静寂の中、リツコとタカシは、人目を忍んで図書室の奥深くへと向かっていた。窓から差し込む月明かりが、埃っぽい書架の隙間から、二人の影を長く伸ばす。彼らの心臓は、まるで秘密の探求に呼応するかのように、静かに、しかし確かに鼓動していた。
タカシは、学院のデータベースへのアクセス権限を、教員の目を盗んで手に入れていた。彼は、以前の事件でそい姉さんのシステムに深く関わっていたため、学院のネットワーク構造やセキュリティの脆弱性を、ある程度把握していたのだ。リツコは、その彼の技術力に驚きを隠せないでいた。彼女にとって、タカシはいつも少し頼りない、しかし優しい先輩だった。しかし、今、彼の横顔には、事件の真相を探ろうとする、強い意志と知性が宿っていた。
「学院のシステムログを遡って、あの専門家たちがアクセスした記録を探す。彼らが残した痕跡は、必ずどこかにあるはずだ」
タカシは、低い声でリツコに告げた。彼の指が、キーボードの上を滑るように動き、モニターには無数のコードとデータが流れていく。リツコは、周囲を警戒しながら、彼の作業を見守った。図書室の古い時計が、カチカチと単調な音を刻む。その音が、彼らの緊張感を一層高めていた。
数時間が経過した。タカシの額には、微かな汗が滲んでいる。彼の目は、モニターの光を反射して、鋭く輝いていた。やがて、彼の指が止まった。
「見つけた……」
タカシの声に、リツコは息を呑んだ。モニターには、学院長室の端末から、外部のサーバーへと接続された、いくつかの不審なログが記録されていた。接続先は、一見すると無関係な学術機関のサーバーに見えたが、そのIPアドレスを辿っていくと、最終的に、政府の「未確認現象調査局」という組織の内部ネットワークへと繋がることが判明した。
「未確認現象調査局……」
リツコが呟いた。その名前は、彼女の想像をはるかに超えるものだった。あの専門家たちは、単なる研究者ではなかったのだ。
「やはり、彼らは政府の人間だったんだ。そして、この事件の真相を、徹底的に隠蔽しようとしている。この局のデータベースに、アキラの情報があるかもしれない」
タカシは、さらに深くネットワークの奥へと潜り込もうとした。しかし、その瞬間、モニターの画面が突然真っ暗になり、警告音が鳴り響いた。
「しまった! セキュリティに引っかかった!」
タカシは焦ったように呟き、すぐにキーボードから手を離した。警告音はすぐに止んだが、学院のネットワーク全体に、何らかの異常が発生したことを示す、不気味な静寂が訪れた。
「大丈夫なの、タカシ君!?」
リツコが心配そうに尋ねた。
「たぶん、大丈夫だ。すぐにログを消したから、追跡はされないはず……。でも、これ以上は無理だ。彼らのセキュリティは、僕の予想以上に厳重だった」
タカシは悔しそうに唇を噛んだ。しかし、収穫はあった。彼らは、あの専門家たちが「未確認現象調査局」という政府機関の人間であること、そして、彼らがアキラの行方について何らかの情報を握っている可能性が高いことを突き止めたのだ。
翌日以降、二人の秘密の調査は、より慎重に進められた。彼らは、直接データベースにアクセスするのではなく、学院内に残された、あの専門家たちの「痕跡」を探すことにした。彼らが滞在していた部屋や、使用していた備品、あるいは学院長との密談の際に残されたメモなど、どんな些細な情報でも見逃さないよう、目を凝らした。
リツコは、生徒会副会長という立場を利用し、学院内の立ち入り禁止区域や、普段は入れない場所へとアクセスする機会を伺った。彼女は、生徒会業務を装って教員室に出入りし、専門家たちが使用していた部屋の鍵を、さりげなく確認したりした。タカシは、彼女の行動力と、機転の利く対応に、改めて感心していた。
数日後、リツコは、学院長室の隣にある、普段は使われていない小さな応接室に、専門家たちが使用したと思われる痕跡を見つけた。部屋は綺麗に片付けられていたが、テーブルの脚の裏に、小さなメモが貼り付けられているのを発見したのだ。それは、専門家の一人が、うっかり貼り忘れたものなのだろう。
メモには、いくつかの数字と、短い単語が走り書きされていた。
『被験体A—深海深度—座標—収容プロトコル』
リツコは、そのメモを慎重に剥がし、タカシに見せた。タカシの顔色が変わる。
「これだ……! 被験体Aは、やはりアキラのことだ。そして『深海深度』『座標』……これは、アキラが今、どこにいるかを示している可能性がある!」
タカシは興奮したように言った。しかし、メモに書かれた数字の羅列は、彼には意味不明だった。それは、単なる数字ではなく、何らかの暗号化された情報である可能性が高かった。
「『収容プロトコル』って何だろう……。アキラを、どこかに閉じ込めているってことかしら……」
リツコは不安そうに呟いた。アキラが深淵の主の「血」を引く存在に変貌した以上、政府機関が彼を危険視し、どこかに隔離している可能性は十分に考えられた。
二人は、そのメモの解読を試みた。タカシは、インターネット上の暗号解読サイトや、情報セキュリティに関する論文を読み漁った。リツコは、学院の図書館にある、古い地図や海に関する資料を調べ、メモに書かれた数字が、もし座標だとしたら、どの海域を指すのかを推測しようとした。
しかし、彼らの知識だけでは、その暗号を解読することはできなかった。それは、彼らが想像するよりもはるかに高度な、政府機関が使用するような、特殊な暗号化技術が用いられているようだった。
調査は行き詰まった。しかし、二人は諦めなかった。アキラがどこかで生きているという希望が、彼らを突き動かしていた。
ある日の放課後、リツコは生徒会室で、文化祭の企画書をまとめている最中だった。その時、生徒会室の扉がノックされ、学院長が入ってきた。学院長は、以前よりもさらに顔色が優れず、疲労の色が濃かった。
「リツコ君、少し話がある」
学院長は、重い口調で言った。リツコは、胸騒ぎを覚えた。学院長が、自分に直接話しかけてくることは、滅多にない。
「はい、学院長」
リツコは、背筋を伸ばして答えた。学院長は、リツコの向かいの椅子に座り、深くため息をついた。
「あの事件のことだが……。君は、あの夜、試験栽培棟の地下で、何を見たのかね」
学院長の言葉に、リツコは一瞬、息を呑んだ。彼は、事件の真相を知っているのか? それとも、何かを疑っているのか?
「私は……タカシ君を助けようと、地下へ向かいました。そして、あの泡と、触手と……」
リツコは、言葉を選びながら、あの夜の出来事を語り始めた。しかし、アキラが深淵の主の「血」を引いていたことや、そい姉さんが最後に語りかけた言葉については、伏せたままにした。
学院長は、リツコの話を黙って聞いていた。彼の表情は変わらないが、その瞳の奥には、深い悲しみが宿っているように見えた。
「そうか……。君も、大変な目に遭ったな。あの事件は、学院の歴史において、決して語られることのない、禁忌となるだろう」
学院長は、そう言って立ち上がった。そして、リツコに背を向け、窓の外の、封鎖された試験栽培棟跡地を見つめた。
「しかし、リツコ君。君は、あの夜、アキラ君の姿を見たか?」
学院長の問いに、リツコの心臓が大きく跳ねた。彼は、アキラの行方について、何かを知っているのか?
「アキラは……あの光の中で、消えてしまいました……。私は、彼がどこに行ったのか、分かりません……」
リツコは、苦しそうに答えた。嘘をつくのは、心苦しかった。しかし、アキラの秘密を守るため、彼女はそう答えるしかなかった。
学院長は、静かに頷いた。
「そうか……。私も、そう報告を受けている。だが……」
学院長は、そこで言葉を区切った。そして、ゆっくりとリツコの方を振り返った。彼の目に、鋭い光が宿っていた。
「リツコ君。君は、あの事件の後、タカシ君と、何かを調べているのではないかね」
リツコの全身に、冷たいものが走った。学院長は、彼らの秘密の調査に気づいているのか? 彼女は、咄嗟に言葉を探したが、何も出てこなかった。
「君たちの行動は、学院のセキュリティシステムに、微かな痕跡を残している。そして、タカシ君がアクセスしようとしたデータベースは、我々が管理するものではない。政府の、極秘情報が格納された場所だ」
学院長の声は、以前よりも厳しく、そして冷徹だった。彼は、全てを把握しているかのようだった。リツコは、観念した。
「学院長……私たちは……」
リツコが言いかけた時、学院長は手を上げて、彼女の言葉を遮った。
「言わなくていい。私は、君たちの行動を咎めるつもりはない。むしろ……」
学院長は、そこで言葉を区切ると、リツコに近づいた。彼の顔には、苦渋の表情が浮かんでいた。
「むしろ、君たちに、協力してほしいことがある」
リツコは驚いて、学院長を見上げた。学院長が、彼らに協力を求める? 一体、何を?
「あの事件は、まだ終わってはいない。深淵の主は、一時的に封じられたに過ぎない。そして、アキラ君の存在が、その封印を不安定にしている可能性がある」
学院長は、そう言って、机の引き出しから、古びた地図を取り出した。それは、この地域の海底地形図だった。地図には、いくつかの赤い印がつけられており、その印の一つが、学院の沖合、深海の底を示していた。
「この赤い印は、深淵の主の活動が確認された場所を示している。そして、この印の近くで、最近、奇妙な現象が報告されているのだ。海底から、あの生臭い匂いが漂い、漁師たちが、奇妙な魚を目撃しているという報告が……」
学院長の声は、重く、そして絶望的だった。深淵の主は、再び目覚めようとしている。そして、その目覚めは、アキラの存在と深く関わっているのだ。
「私は、君たちに、アキラ君の行方を探してほしい。そして、深淵の主の活動を、阻止してほしいのだ」
学院長の言葉に、リツコは息を呑んだ。それは、彼女たちが密かに抱いていた使命と、完全に一致していた。しかし、学院長が、なぜ彼らに協力を求めるのか?
「学院長は……私たちを、信じてくれるんですか」
リツコが震える声で尋ねた。
「信じるしかないのだ。君たちだけが、あの事件の真相を知り、そして、アキラ君と最も深く関わっていた。それに……」
学院長は、そこで言葉を区切った。彼の目に、かすかな希望の光が宿る。
「君たちには、アキラ君を救うという、強い『意志』がある。それが、この絶望的な状況を打破する、唯一の希望かもしれない」
学院長は、リツコに地図を差し出した。地図には、赤い印の他に、いくつかの小さな文字が書き込まれていた。それは、リツコとタカシが解読できなかった、あの暗号の断片だった。
「この地図には、あの専門家たちが残した、深淵の主に関する情報が記されている。そして、アキラ君の行方を探るための、重要な手がかりも……。ただし、これは、政府の極秘情報だ。外部に漏らすことは、絶対に許されない」
学院長は、そう言って、リツコの瞳を真っ直ぐに見つめた。彼の目には、彼が背負う重い責任と、未来へのかすかな希望が混在していた。
リツコは、地図を受け取った。その地図は、彼女たちの秘密の探求を、学院長公認の「任務」へと変えるものだった。しかし、それは同時に、彼らが深淵の闇へと、さらに深く足を踏み入れることを意味していた。
その夜、リツコはタカシに、学院長との会話と、手に入れた地図について話した。タカシは、驚きと、しかしどこか納得したような表情で、地図を広げた。
「この暗号……学院長が、解読方法を知っているのか?」
タカシが尋ねた。
「いいえ。でも、学院長は、この地図を渡してくれた。そして、私たちに、アキラを探してほしいと……」
リツコは、学院長の言葉をタカシに伝えた。タカシの顔に、新たな決意が宿る。
「分かった。この地図と暗号を、僕が必ず解読してみせる。そして、アキラを、必ず助け出す」
タカシは、地図に書かれた暗号の羅列を、食い入るように見つめた。彼の頭脳は、すでにその暗号の解読へと向かっていた。
二人の水耕栽培学園での「日常」は、もはや単なる日常ではなかった。それは、深淵の底で続く、アキラの孤独な戦いと、地上で彼を救おうとする二人の、秘められた使命が交錯する、新たな物語の始まりだった。




