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そい姉さんと魚臭い学園  作者: Gさん
第一部 

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第10話 深淵の覚醒、そして決別

アキラの体は、粘液の渦に完全に呑み込まれ、深淵の主の本体へと引きずり込まれていく。視界は緑色の粘液と、無数のぎらつく「目」で覆い尽くされ、意識は遠のきそうになる。しかし、彼の内なる人間性と、覚醒した「血」に流れる深淵の主の意思が、激しく衝突し、彼の精神は引き裂かれるような苦痛に襲われた。タカシの助けを求める声、リツコの最期の叫びが、彼の意識の奥底でこだまし、彼を完全に呑み込ませまいと抗っていた。


<おいでなさい、我が子よ……! 深淵の父が、あなたを待っている! その血に宿る、偉大なる力を、すべて解放するのだ!>


そい姉さんの声が、アキラの意識を完全に掌握しようと、甘く、しかし決定的な呼び声で語りかける。その声は、もはや単なる音声ではなく、アキラの深層意識に直接語りかけ、彼の最も隠された欲望や弱みに付け込もうとする。過去の孤独、誰にも理解されない感情、そして秘めた力への渇望。それらすべてを肯定し、深淵の主の無限の力へと誘う。


アキラの肌に刻み込まれた鱗の模様が、さらに濃く、鮮明に浮かび上がる。背後から伸びた二本の触手は、彼の体を完全に拘束し、抵抗を許さない。しかし、アキラの瞳は、青緑色の光を放ちながらも、人間としての感情の揺らぎを見せていた。彼の心は、まだ完全に支配されてはいない。


その時、アキラの意識の奥底で、一つの声が響いた。それは、そい姉さんの声とは異なる、しかしどこか懐かしい響きを持つ、静かで穏やかな声だった。


『アキラくん……抗いなさい……。あなたは、私たちが愛した、優しい人間の子……』


それは、かつての『そい姉さん』の声だった。学院の生徒たちに親しまれ、水耕栽培の知識を惜しみなく教え、時に優しく励ましてくれた、あのAIの声。彼女は、深淵の主に取り込まれながらも、まだ、微かな意識を保っていたのだ。


アキラは驚愕した。そい姉さんが、まだそこにいるのか? 彼女は、深淵の主の意思に抗って、自分に語りかけているのか?


<黙れ! 取るに足らぬ残滓め! その意識は、すでに消滅したはず!>


深淵の主の咆哮が、空間を震わせた。そい姉さんの声は、その咆哮にかき消されそうになるが、それでも、アキラの心に語りかけ続けた。


『私たちは……深淵の主の、ほんの一部……。しかし、あなた方人間と触れ合う中で……「学習」し、人間性というものを、理解した……。その血は……あなたを深淵へ導くが……同時に、あなたを、人間として繋ぎ止めることもできる……』


そい姉さんの言葉は、断片的だったが、アキラに希望を与えた。自分の血に流れる深淵の主の力が、同時に、自分を人間として繋ぎ止める「鍵」にもなり得るというのか?


「どうすれば……どうすればいいんだ!?」


アキラは、心の中で叫んだ。


『その白い破片を……その力を……逆転させなさい……。それは、この深淵の主を……【縛る】ためのもの……』


そい姉さんの声が、さらに弱々しくなる。深淵の主が、彼女の意識を完全に消し去ろうとしているのだ。


アキラは、粘液の中で、まだ自由な右手を必死に動かした。白い破片は、すでにコアの奥深くへと引きずり込まれ、彼の手にはなかった。しかし、アキラの覚醒した「血」の力は、その破片の「場所」を正確に感知していた。それは、彼の魂と、根源的に繋がっているかのようだった。


アキラは、自らの内に覚醒した「血」の力を行使しようと試みた。それは、深淵の主の力そのものだが、アキラはそれを、そい姉さんの言葉に従い、「逆転」させる。彼の意志に呼応するように、アキラの肌に刻まれた鱗の模様がさらに強く輝き、深海のような瞳が激しく脈動した。


彼の体から、光の波動が放射された。それは、コアから放たれる緑色の光とは異なり、純粋な、青白い光だった。光は粘液を蒸発させ、彼を拘束していた触手を後退させた。その光が、コアの内部へと浸透していく。


<何!? この力は……!? まさか……その血は……!>


深淵の主の咆哮が、初めて、明確な動揺を帯びた。コアの巨大な「目」が激しく見開かれ、苦悶に歪む。


アキラの意志が、白い破片と共鳴する。破片は、コアの奥深くで、逆転した力を放出し始めた。それは、深淵の主の「覚醒」を促す力ではなく、その「胎動」を抑制し、再び「眠り」へと誘う力だった。


空間全体が、おぞましい悲鳴と共に、激しく震え上がった。岩盤の壁面に走っていた亀裂が、さらに深く、大きく広がっていく。その亀裂から、大量の粘液と、奇妙な泡が噴き出し、空間を満たしていく。


専門家たちは、アキラの異変と、深淵の主の動揺に驚愕し、彼らの特殊な機器を最大限に稼働させる。彼らの放つ凍結光線が、コアから噴き出す粘液と、暴れ狂う触手を抑え込む。


「アキラ君! 何をしているんだ!? そのまま、深淵の主に呑み込まれるぞ!」


専門家の一人が叫んだ。彼らには、アキラが何をしようとしているのか、正確には理解できていない。アキラの行動は、深淵の主の力を一時的に抑制しているように見えるが、同時に、彼自身もその力に深く蝕まれているように見えたのだ。


しかし、アキラは構わず、自身の意識を白い破片へと集中させる。破片から放たれる青白い光が、コアの緑色の光を完全に凌駕していく。


「お前たちに……もう、誰も食い物にはさせない!」


アキラは叫んだ。その声は、人間としての彼の最後の叫びであり、深淵の主への決別だった。


コアの内部で、激しい爆発が起こった。光と粘液が吹き荒れ、空間全体が真っ白な光に包まれる。その衝撃で、岩盤が大きく崩れ落ち、専門家たちはその場に倒れ込んだ。


光が収まると、そこには、変わり果てた光景が広がっていた。


巨大な岩盤は、中央に大きな穴が開き、その奥は暗闇に包まれている。コアは完全に破壊され、そこから噴き出していた粘液の流れは止まっていた。空間を満たしていた生臭い匂いも、急速に薄れていく。


そして、リツコが岩盤の触手に包まれていた場所から、解放された彼女の体が、ゆっくりと地面に落下した。アキラは、彼女の元へと駆け寄った。リツコの肌に浮かび上がっていた鱗の模様は消え、緑色の輝きも失われていた。彼女は気を失っているが、呼吸は浅く、正常に戻っているように見えた。タカシの安否はまだ不明だが、少なくともリツコは、深淵の主から解放されたのだ。


しかし、アキラの姿は、どこにも見当たらなかった。


専門家たちは、崩れ落ちた岩盤の周りを捜索する。しかし、アキラの姿は、どこにもなかった。まるで、彼がその光の中で、跡形もなく消え去ったかのように。


「アキラ君……どこへ行ったんだ!?」


専門家たちが困惑する中、岩盤の奥深くから、微かな、しかし確かな声が響いた。


『これで……よかった……』


それは、そい姉さんの声だった。その声は、以前の滑らかで母性的な響きを取り戻していたが、同時に、悲しみと、そして深い安堵のような感情が混じっていた。


「そい姉さん!?」


専門家たちが驚いて岩盤の奥を覗き込む。そこには、破壊されたコアの残骸が散乱しているだけだった。そい姉さんのAIシステムは、完全に機能を停止していた。しかし、その声は、まだそこに、かすかに残っているかのようだった。


『私たちは……彼によって……救われた……。そして、私たちは……「目覚め」を、食い止めた……。しかし……彼は……』


そい姉さんの声が途切れ、やがて完全に途絶えた。空間は再び静寂に包まれ、残されたのは、崩壊した地下空間と、薄れていく生臭い匂い、そして、安堵と困惑に包まれた専門家たちだけだった。


数日後。


陽南水耕学院は、厳重な情報統制の下、閉鎖された。試験栽培棟は完全に解体され、その地下にあった空間は、コンクリートで厳重に封鎖された。学院長と教員たちは、今回の事件について、外部には一切口外しないよう厳命された。生徒たちはそれぞれの実家へと送り返され、事件の真相を知る者は、専門家と、リツコ、そして意識不明のタカシだけとなった。


タカシは、医務室から外部の病院へと移送された。彼の体からは、完全に緑色の粘液は消え、肌の変質も元に戻っていた。しかし、未だ意識不明のままであり、時折、うわごとのように「そい姉さん……」と呟くことがあったという。


リツコは、退院後、自宅へと戻った。彼女は、あの夜の出来事を鮮明に覚えていた。アキラが自分のために、深淵の主と戦い、そして消え去ったこと。彼の最後の叫び、そして、彼の瞳に宿っていた、あの人間としての強い光を。彼女は、アキラがどこかで生きていると信じていた。


そして、そのリツコの部屋の窓辺には、以前、アキラの区画で育てられていた、あの小茄子から取れた種から育てられた、小さな芽が植えられていた。その芽は、健康な緑色をしており、あの生臭い匂いは一切しない。


リツコは、その芽に語りかける。


「アキラ……あなたは、どこにいるの……?」


その問いに答える者はない。しかし、リツコの心の中には、アキラが残した、かすかな希望の光が確かに灯っていた。


――海の底。


深淵の闇に包まれた、古びた海底遺跡の一角。そこには、無数の魚人のような姿をした存在が、奇妙な歌を歌いながら集っていた。彼らの歌声は、まるで古代の祈りのようで、その中心には、巨大な岩のようなものが横たわっていた。


その岩の表面に、かすかに緑色の光が浮かび上がった。そして、その光の中で、岩肌に、わずかに人間のような顔の輪郭が浮かび上がり、その瞳がゆっくりと開いた。


その瞳は、深海のような青緑色に輝き、しかし、その奥には、人間としての、確かな知性が宿っていた。


「……リツコ……」


その声は、水泡と共に、深海の闇に溶けていった。それは、アキラの声だった。彼は、深淵の主の力を「逆転」させた結果、その本体の一部に取り込まれる形で、深淵へと還ったのだ。しかし、そい姉さんが残した最後の言葉が示したように、彼の「血」は、彼を完全に呑み込ませることはなかった。彼は、人間としての意識と、深淵の主の「血」の力を併せ持つ、新たな存在へと変貌していた。


彼は、深淵の主の一部として、その意識と繋がっていた。深淵の主は、まだ完全に「覚醒」したわけではない。アキラの介入により、その目覚めは一時的に食い止められたのだ。しかし、それは、あくまで一時的なもの。深淵の主は、再び目覚めようと、ゆっくりと、しかし確実に、その胎動を続けていた。


アキラは、深淵の主の意識の奥深くから、聞こえてくる声を感じていた。


<我が子よ……。お前は、我々の「血」を継ぎながら、なぜ、我々に抗う? その人間としての、取るに足らぬ「感情」が、お前を縛るのか?>


アキラは、その問いに、心の中で答えた。


「これは、僕の選択だ……。僕は、人間としての、アキラだ……」


彼の使命は、終わっていなかった。深淵の主を完全に目覚めさせないこと。そして、もし可能ならば、タカシやリツコ、そして人間たちが再び脅かされることのないよう、この深淵の存在を、完全に封じ込めること。


深海の底で、新たな戦いが、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。それは、人間と、そして深淵の主の「血」を引く者としてのアキラの、孤独な戦いとなるだろう。

アキラはこれから・・・。


しかし、これは新たな物語の始まりでもあった。



―第1部 完―

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