第二百五十六話「楽土」での日々 ―forging―
かくして、カナタとレイの「楽土」での日々が始まるのだった。
泥のような眠りから覚めて、まず二人がしたことは入浴である。
『プルソン戦役』を終えてからというもの、彼らは『合成獣』の背中の天幕内で申し訳程度に身体を拭いただけで、汚れをまともに流せていなかった。
レイが『ザガン』に訊ねたところ、「楽土」には温泉――カルデアの底から湧き上がる天然温泉である――も設けられているという。
戦いや柵を離れ、安穏を貪る。そんな『アスモデウス』の欲求を受け、「楽土」は【異形】たちの根城であると同時に、傷ついた者を癒す旅籠の役割も担っていた。
「はぁ~~。気持ちいいですねー」
身体の芯まで染み渡る温かさに、思わず吐息が漏れ出る。
熱々の温泉の中でうーんと脚を伸ばし、凝り固まった筋肉を解さんとレイは全身の力を抜いた。
湯船の縁に頭を預け、立ち煙る湯気の中、しばし目を閉じる。
と、その直後。
ばしゃんっ! と顔にお湯を思いっきり浴びせられてレイは跳ね起きた。
「ちょっ……!?」
見るとちょっとしたプールほどの広さの温泉に飛び込んで、カナタが悠々と泳いでいるところだった。
怒鳴りたい衝動をどうにか堪え、レイは溜息をこぼす。
「全く……元気になったのは良いですが、はしゃぎすぎです」
「だっ、だって、こんなに広かったらさ、泳ぎたくなるのは当然――」
「当然、じゃないです。もう、せっかくのんびり出来てたところなのに……」
「ご、ごめんって。でっでも、広ーい温泉で思いっきり泳ぐの楽しいよ。れ、レイも一緒に泳ごうよ」
「やっ、ボクは泳げませんから――ちょっ、待ってくださいっ!?」
にこっと笑うカナタに手を引かれ、レイは危うく前につんのめってしまう。
咄嗟に抱き留めようとしたカナタであるがお湯の中で足が滑り、背中から着水しそうになった、その瞬間。
『何をしておるか、阿呆!』
女性の声が浴場内に反響し、それと同時に倒れ込もうとしていた二人の身体が空中で静止した。
その声の源に目をやると、そこには一糸まとわぬ姿の青い肌の女性が佇んでいた。
肩の辺りまで伸ばした群青色のショートボブ。包み隠さずさらけ出された乳房は豊満で、腰から尻にかけての曲線美と相まって妖艶な色香を醸している。
理知ある【異形】が一人、『アスモデウス』。昨晩、食堂でレイとひと悶着があった健啖家の女性である。
『朝一番の湯浴みで昨日の穢れを禊ぐ。妾にとってここは、そういう場所じゃ。勝手を働くでない、餓鬼ども!』
「すみませんでした! あの、ボクたち、この時間に貴女が来られるって知らなくて。『ザガン』さんに聞いたら温泉に入ってもいいって言うので、それで……」
『ザガンが? あの阿呆……!』
伸ばした黒い爪を噛みながら顔を歪めるアスモデウス。
憩いの空間にたちまち緊張感が走り出す。が、そんな中でも、月居カナタという少年は相変わらずのマイペースを発揮した。
「あっ、あのっ。ぼ、僕たち、『餓鬼ども』なんかじゃないです」
レイの喉笛からひっと変な音が漏れる。それも意に介さず、カナタはアスモデウスを見据えて名乗った。
「ぼっ、僕は月居カナタ。隣の彼は、早乙女・アレックス・レイ。ざっ『ザガン』さんに案内されて、この「楽土」に来ています。あっ、あの、お姉さんは……?」
『妾はアスモデウス。人は妾を「情欲の悪魔」と呼び、畏れ、そして排斥した』
女の手にはいつの間にか、銀色の鉄扇が握られていた。
その一振りと同時、少年の身体は青色の魔力光に包まれてふわりと浮き上がる。
素っ裸の状態で目前に吊し上げられたカナタを睨み上げ、アスモデウスは問う。
『お姉さん、などではない。妾は悪魔、主は人間じゃ。口の利き方を弁えよ、餓鬼めが』
「がっ……が、きじゃ……なっ、ないです。あ、アスモデウス、さんっ……」
宙に浮く少年の身体はひ弱だ。アスモデウスが本気を出せば、昨晩の食堂のテーブルたちのように簡単に捩じり潰される。
それでもカナタは目を逸らさずにアスモデウスの瞳を見つめ続けた。
相対している他者から逃げずに、向き合おうとし続けた。
「ぼっ、僕……貴女のことも、知りたいです。あっアスモデウスさんの目は、哀しいけど、こっ怖くなんかない。あっ貴女は本当は、優しいひとだって、わっ、分かります。だから……」
『ええい、何を言う!? さらに痛めつけんと分からんのか!』
ばしゃん、と容赦なく少年の身体が水中に沈められる。
慌てて彼を助け起こすレイに、アスモデウスは言い渡した。
「出て行け、餓鬼ども。この時間、この場所に金輪際現れるでない」
咳込む相棒の背中を擦りつつ、レイは頷かざるを得なかった。
一朝一夕で何とかなる問題ではない。それは昨晩の時点で察していたことではあったが、人たらしのカナタでさえも通用しないとなると先行きは不透明だ。
『アスモデウス』。彼女が抱えた傷の重さと、痛み。それを理解しなくては、自分たちとの距離を縮めるのは不可能なのだろう。
*
『そんなことがあったとはね。いやー、君たちも難儀だったなあ』
「そうなるように仕向けたのは貴方ですよね、ザガンさん?」
何のことかな、とすっとぼけるザガンをレイは遠慮なく睨みつける。
ザガンという理知ある【異形】はとにかく酔狂なのだ。『リジェネレーター』の理想に乗ってくる辺り、それは筋金入りである。その酔狂に巻き込まれ、朝っぱらから怒れる女王様に遭遇させられたレイたちからすればたまったものではないが。
『まあまあ、そう怒るなって。女王様の裸身を拝めたんだ。大層、眼福だったろう?』
「そんなの見てる余裕なんてありませんでしたよ。あのひとの声が聞こえた瞬間、色んな意味で縮みあがると思いました」
『なぁんだ。もったいない。……ま、与太話はこのくらいにして、やることをやろう』
手を叩いてさっさと切り替えるザガン。
「楽土」に来てからとにかく周りに振り回されっぱなしであることを自覚しつつ、レイは咳払いして眼前の席に掛けるザガンを見据える。
『済まぬ。遅くなった』
「れっレイ。も、持ってきたよ」
と、自動ドアが音もなく開いて鎧姿の大男『ベレト』とカナタが部屋に入ってくる。
用意されたこの部屋を一言で例えるならば、大学の講義室といったところか。
ホワイトボードを背後に立つレイがいるのが教壇で、その正面の長テーブルの席にザガンが着いている。
「ありがとうございます、ベレトさん、カナタ」
ベレトとカナタが一緒に運んできたのは、両手で抱えられるほどの大きさの赤々とした結晶体。
SAMの『コア』。マオとマナカの魂が宿った、【ラファエル】の残骸である。
「まっマナカさん、マオさん。い、一緒に見守っててね」
長机の脇に置いた『コア』を撫でながらカナタは言い、それから教壇のレイの隣に立つ。
これから始まるのはザガンとベレトに向けた、「SAM学」の講義である。
カナタたちがここで生きる条件である、「SAM技術の提供」。それを果たす前にまず、技術の受け手にそれを活かせるだけの知識を身に着けてもらわなければならない。
人に何かを教えるのは得意ではないけれど、SAMに関しては誰よりも詳しいとカナタは自負している。皆に「先生」と呼ばれるレイも隣にいることだし、何とかなるだろう。
「では始めます」
講義が幕を開ける。
二人三脚でカナタとレイは、理知ある【異形】たちにSAMの基礎から叩き込んでいくのであった。
*
教わってばかりでは申し訳が立たぬ――そう言ってベレトは、カナタたちに剣術を教授しようと申し出てきた。
その様子を見守っていたザガンも何やら触発されたのか、数日後には魔法を教えてやろうと言い出してきた。
それからは人と【異形】、お互いに教え合う日々の繰り返し。
大体の場合、午前中はカナタたちがSAMについて教鞭を執り、午後になればベレトかザガンのどちらかが師範役となるのだった。
『細っこい容貌の割に筋が良いな、貴様は。それに対して……』
「もっ、もう、むっ無理ですっ……! うっ腕が棒になっちゃいます……!」
この日は結晶の発する光に照らされる「楽土」最下層の広々とした空間にて、カナタたちはベレトに師事していた。
SAMという武器がない今こそ、心身を鍛え直せ――そのスローガンのもとひたすらに体力作りのトレーニングから始めた二人だったが、カナタのほうは早々に音を上げてしまっていた。
「おや、カナタ。君という人がそんなに早くギブアップしてしまうとは……」
「ばっ馬鹿にしないでよね。れっ、レイだって魔法の訓練の時はうんうん唸るばっかで全然できないくせにっ」
ちょっと煽るとすかさずカウンターが打ち込まれる。
しまった、と頭を抱えるレイを脇目にベレトは苦笑し、提げていた剣を鞘に収める。
『いったん休め。訓練は十分後に再開する』
「はい」「はっ、はい……っ」
剣の振り方。身体の構え方。敵と向き合う時の脚の動かし方。
単純で、だからこそ大事なことをベレトはカナタたちの肉体に改めて叩き込んでくれた。
汗を流すのはカナタとしては苦手だったけれど、レイが隣にいてくれたから頑張れた。いつか『学園』で過ごしたあの日々のように、互いが互いを高め合っている感覚だった。
『違う、そうじゃない! もっと念じるんだ! 目の前のものがリアルに動き出す様をイメージしろ!』
「そう言われましても……!」
魔法の訓練ではレイが苦戦する番だった。
地面に置かれた小石とにらめっこし、ひたすらにそれが浮き上がる光景をイメージする。上手く行けば触れずとも物を動かすテレキネシスなる魔法が発動するらしいが、レイは何度チャレンジしても未だに成功できていない。
「えへへ、見て見てー」
と、カナタは呑気にいくつもの小石をタップダンスのリズムで踊らせているというのに。
ああもう! と天を仰ぐレイの脇にしゃがみ込み、ザガンは鷹揚な口調で言う。
『まあ焦るな。元々、SAMがなければ人間の魔法適性なんて限りなく低いんだ。ここは『コア』のもととなった『カラミティ・メテオ』由来の結晶で溢れているから普通より魔法を扱える可能性が高まるってだけで、それも劇的なものでもない。『獣の力』……別の魂の残滓を肉体に宿したカナタくんが特別なんだ』
そうですかと素直に飲み込めるほど、レイは諦めのいい人間ではない。
首を横に振り、彼は決然とした表情で返す。
「いいえ……ボクも魔法を使えるようにならなきゃいけないんです。SAMがない現状、ボクらは身一つで戦わなきゃならない。魔法を使えないボクのせいで、カナタにばかり負担をかけさせるわけにはいかないんです」
ザガンと出会う直前、【狼人型異形】に襲われたときもそうだった。
何も出来ない。守れない。そんなのは嫌だとレイは強く思う。
だから力を手に入れたい。SAMが無くとも自立して戦えるだけの、力を。
『良い覚悟だ。……方法を変えよう。俺たちにとっては必要がなく、理論だけが頭の中にあった手段だが、試す価値はある』
「そう、ですか。ぜひ、やらせてください!」
ザガンはレイに期待を掛ける。彼はSAMに乗った状態であれば魔法を自在に操れるが、それは元々の素質なくして成し得ないことだ。今はまだ、それが開花していないだけ。
新たなアプローチに思い至ったザガンに、レイは意気込む。
【異形】犇めく大穴の底、魔力を灯す結晶が照らす下で、少年たちの鍛錬の日々は穏やかに過ぎていくのだった。




