第百七十九話 皇女の追憶 ―Transient dream―
声を掛けてきたのは、黒髪で眼鏡をかけた青年だった。
「ミコトさま」
皇居内の庭園、緑の広がるその一角に立つ金木犀の下。
咲いた花の香りを楽しみながら微睡んでいたミコトは、その声に重い瞼を開けた。
微笑みかけてくる許嫁の彼を見上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「あら、タカネ……ごめんなさいね、わたくし、少々ウトウトしてしまいまして……」
「良いのですよ。こんなにも暖かな昼下がりなのです、誰だって眠くなりますよ」
十歳のミコトと、二十二歳のタカネ。十二歳もの年の差があるにも拘らず、二人は実の兄妹のように親しい仲だった。
ラフな私服姿のタカネはミコトの隣に腰を下ろし、目の前で日を浴びて煌めいている池を眺める。
「この庭で殿下と話せる時間も、あと半年を切ってしまいましたね。来年の四月から、私は政治家への道を歩むため、御門先生の事務所に入ることになりました」
「御門って……御門前首相のことですの?」
「ええ。父のツテにはなりますが、どうにか採用が決まったのです」
「それでも、凄いではありませんか。あなたはきっと、御門首相を超える政治家さんになれますわ!」
年の割にかなり大人びた口調で褒めてくるミコトに、タカネは苦笑した。
「言い過ぎですよ」と謙遜する彼に「わたくしは本気で言っているのです」と頬を膨らせるミコト。
小さな桃髪の少女にとって、タカネは幼い頃から色々なことを教えてもらってきた、誰よりも尊敬できる人だった。
「わたくし、タカネの進路が決まって嬉しいです。でも、寂しくもあります。タカネとなかなか会えなくなってしまうと思うと……」
「直接顔を合わせられなくとも、必ず毎週電話します。手紙だって出します。それならば、多少は寂しさも紛れるでしょう」
しゅんと俯くミコトの頭を撫で、タカネは穏やかな声音で言った。
そうされていると不思議と心が落ち着いてきて、ミコトは肩の力を抜く。
「ねえ、タカネ。……ツグミは、元気にしているでしょうか」
「……あいつは蓮見家を去りました。気になさる必要はありません」
ミコトがツグミを話題に出すと、タカネはいつも不機嫌になる。
昔は三人で仲良く話し、一緒に遊んだ仲だったのに――今では嫌悪を隠そうともしない。
「どうして……どうして、そのような言い方をするのですか。あなたたちは、兄弟でしょう」
「――殿下には私がいます。ツグミのことなど気にせずに、私だけを見ていればいい」
問いかけには答えず、タカネは語気を強めてミコトの顎に指を添えて押し上げた。
眼鏡の下から射抜いてくる青年の瞳に、少女は息を止める。
「殿下は私の許嫁です。私はミコトさまを愛し、ミコトさまは私を愛す。それだけで十分ではありませんか」
約束された未来。二人で添い遂げる人生。互いの両親はそれを望み、多くの国民が賛成している。
幼いミコトは言われるがまま、タカネに頷きを返すしかなかった。
自らの中にある彼への尊敬や親愛の情を、恋情であるのだと自らに言い聞かせて。
「そう、ですわね。ごめんなさいね、タカネ」
それ以来、ミコトはタカネの前でツグミについて一切話すことはなかった。
しかし、彼への心配は途切れずに続いた。皇居の使用人や宮内庁の役人にそれとなしに聞いてみても、皆が首を横に振った。
タカネが大学を卒業し、御門前首相の秘書として働き始めてからも、ミコトは姿を消したままのツグミを思った。
そして二年が過ぎた、ある日のこと。
『黒羽ツグミ』という男がアングラ勢力の中で頭角を表してきている、という噂を彼女は耳にした。
*
ツグミはミコトより九歳年上の少年だった。
彼が家を出て行ったのは十七歳、『学園』で二年の頃。週末に皇居に足を運んでは『学園』での出来事を語ってくれた彼のことが、ミコトは好きだった。
「友達とこんなやんちゃをしたんだ」と楽しげに言ってくる彼には呆れることもあったが、どうしてか憎めなかった。
そして彼から授業や訓練の話を聞いて、内心SAMやパイロットに憧れを抱いた。
だが、ミコトは皇族。命を落とす危険のあるSAMパイロットになる道など、周囲の大人たちが許すはずもない。
だから、叶わない夢だと諦めていた。
しかし、ある時。
皇居のあの金木犀の下で、蓮見ツグミは言ったのだ。
「ねえ、ミコトさま。ミコトさまってホントは、SAMパイロットになってみたいんでしょ?」
「……なっ、何故そう思うのです?」
その憧憬は誰にも話していなかったはずだ、とミコトは分かりやすく声を震わせた。
するとツグミは目を逸らしたミコトの肩をぽんと叩き、兄と比較して野性的な雰囲気を纏う顔に子供っぽい笑みを浮かべてみせた。
「だってさぁ、ミコトさま、俺からSAMの話聞くときすげぇ目キラキラさせてんじゃん。そんなの、そばで見てりゃあ分かるって」
全て見透かされていたのだと発覚し、顔を真っ赤にするミコト。
桃色の前髪で顔を隠す彼女は、首を横に振りながら消え入りそうな声で言った。
「しっ、しかし……わたくしにとって、それは許されない夢なのです。わたくしは皇女として生まれましたから、ずっと、籠の中。危険な戦いなど……出来ません」
「それってさ、自分の考え?」
その質問の意味がミコトには捉えられなかった。
彼女のこれまではほぼ全て、周りの大人たちが決めたことだったから。両親や兄姉、タカネらに従順に生きる――それが、幼いミコトなりの処世術だった。
手がかからない優秀な子。そう言われて育ってきたタカネを見てきたミコトは、それが正しい生き方だと思ってきた。
そこから外れるのは間違いだと。
だが、ツグミは彼女のその考えを、真正面から打ち砕いた。
「違うでしょ? それはさ、陛下たちや兄さんがそう言うだろうってだけの話じゃん? ミコトさまがSAMに乗りたいってんなら、はっきりと言ってやればいいんだよ。『わたくしは、十六歳になったら「学園」に入ってSAMに乗ります』って」
己の意思を主張すること。どうしても叶えたい夢を貫くこと。
箱庭娘だったミコトを変えたのは、ツグミの言葉だったのだ。
「ミコトさまはいい子ちゃん過ぎるんだよ。もうちょっと、我が儘な子になったっていい」
そう言ってくれたツグミはそれからひと月も経たないうちに『学園』を辞め、蓮見家を出て行った。
それは奇しくも、ミコトが両親に初めてSAMパイロットになる夢を打ち明けた翌日であった。その時、ミコトはツグミのおかげで話す勇気が出たのだと口にしてしまった。
案の定、両親は大反対した。自分が彼の名を出してしまったからツグミはいなくならざるを得なくなったのではないか――そんな強迫観念に彼女は駆られ続けた。
*
何度も両親へ説得に説得を重ねた結果、ミコトは『学園』への入学を許可してもらえた。
そうして入学を果たし、彼女はSAMパイロットとしての才能をみるみるうちに伸ばしていった。
【機動天使】の【ガブリエル】という機体を与えられ、最前線で戦う大勢の兵士たちの支援を鼓舞の役割を担った。
現場の兵たちの声を聞き、彼らがどのような思いで命懸けの戦いに臨んでいるかを知った。
そして、ヒトと【異形】の狭間に生きる『新人』の存在を認知し、【異形】とヒトとの関わり方を考え始めた。
幼少期と比較すれば、随分とミコトは心身ともに大きくなった。
だが、それでも彼女の憂いは消えなかった。
自分を「皇女」の枠に押さえ込み、政治的に利用しようとしているタカネ。黒羽組を率いているという噂のあるツグミ。
兄のように慕っていた二人とあの金木犀の下で池を眺めて笑い合う夢を、最近になってミコトはよく見る。
自分もタカネもツグミも、あの頃の純朴さは捨ててしまった。拾い上げようとしても、水のように指の間をすり抜けて消えてしまう。
「……ずっと夢の中にいられたら、どれだけ幸せなことでしょう」
朝起きてベッドを抜け出る。カーテンを開けて白い日差しを感じる。それだけのことが、追憶の夢の後ではひどく億劫に感じられた。
ツグミに会いたい、とミコトは思った。
会って話をしたい。ミコトはまだ、殻を破れていない。そうするだけの勇気がない。
だからあの時のように、彼の言葉に背中を押してもらいたかった。
彼に攫いに来てほしかった。囚われの姫を助け出す、王子様のように。




