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暁の機動天使《プシュコマキア》  作者: 憂木 ヒロ
第六章 覚醒・急

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第百五十四話 銃声 ―Mother―

 銃声が鳴り響く。

 その直後――ガキン、と。

【輝夜】の太刀が閃き、放たれたカナタの銃弾を斬ってのけた。


「……っ!」


 瞠目する少年は汗ばむ手を握り込み、再度の銃撃を試みる。

 マオのアシストで照準を合わせ、即座に発射。

 だが【輝夜】の演算装置がそれを見切れないわけもなく、かわされる。


『他者に頼る戦いなど、恥ずかしくはなくって!?』


 言葉と共に肉薄する白銀の二刀。

 カナタはそれを残り僅かな電力を燃やして飛び上がって回避、すかさず次弾を見舞った。

 

『甘いの』


 手ブレが銃弾の軌道を逸らさせる。

 頭部を掠めて地面に突き刺さっていく弾丸を横目に、カグヤは失望の眼差しを息子へ送った。

 所詮は技術でも経験でも劣る若者。カグヤの掌の上で踊るだけの、モルモット。

 月居カグヤには息子の戦い方全てが分かる。いつか敵対するであろう彼の戦闘データ、それを余すことなく分析した彼女に、敗れる道理などない。


『無駄に動いては余力を減らすだけよ!』

「くっ――!」


 一刀の投擲。

【輝夜】の手を離れたその太刀の片方は、槍のごとく一直線に空中の【ラファエル】へと突き進んだ。

 

「ぐあっ――!?」


 身体を捻って避けようとするカナタだが、間に合わない。

 刃が左肩の付け根に突き刺さり、耐え難い痛みの激流が巻き起こる。

 それでも歯を食いしばって顔を歪める少年は、再度の銃撃を敢行。

 だが、これもカグヤの太刀に切り裂かれ防がれる。


『チッ、バケモンか……!?』


 両断された弾丸が宙に破片を散らす光景を目撃したマオは、戦慄の声を漏らした。

 彼女のシステムアシストで着地し、体勢を立て直したカナタ。

 一歩、また一歩と静かににじり寄ってくる【輝夜】を前に、彼はライフルの引き金を引き絞った。


『無為、無駄、無謀……あなたの戦いは、もはや何の意味も残さない』


【輝夜】の兜から伸びる一対の毛束が触手のごとく蠢き、しなり、連射された弾丸を太刀と合わせて弾き返す。

 少年の射撃は一発も母へと通らない。

 その足音は終わりを言い渡す死神の宣告のように響き、彼の心臓を鷲掴みにした。


「っ、か、母さんっ……ぼ、僕はっ、ただ……」


 カチッカチッ、とライフルが虚しく残弾の尽きたことを持ち主へと報せた。

 カナタは銃を手放して後ずさりしながら、母親の機体を睨んで言葉を紡ぐ。

 対話するのだ。最後まで、諦めずに。たとえ戦いに敗れても、その後彼女の心に残した爪痕が良い方向に働いてくれるのなら、それでいい。

 彼がそう胸中で呟いた、その時だった。


『なに弱気になってんのよ、馬鹿カナタ!』


 マオが、叫んだ。

 

『あたしもそこの男二人も、あんたを信じて託してんのよ!? 信頼されたのなら最後まで責任とって諦めずにやりなさいよ! ここで死んだら、絶対許さないんだからね!!』


 その声は少年の胸を揺さぶり、彼の魂に一つの小さな――だが確かな熱を宿す火を灯した。

 心に燃えだしたその篝火かがりびが、カナタが本当に掴むべきものを明らかにする。

 マナカと目指そうと誓った平和。マオと積み重ねていこうと約束した時間。レイやユイ、シバマルやイオリ、たくさんの仲間たちと生きていきたいと望む未来――それを手にするには、ここでカグヤの野望に屈してはならない。


『別れを言いましょう、カナタ。あなたを育てた経験は、決して悪いものじゃなかった。あなたが私を理解してくれさえすれば、手を取り合って歩む道もあったはずだわ。でも……残念ね』


 息子への愛憎の混淆こんこうした感情を抱くカグヤは、武器を失った彼との距離を徐々に詰めながら言い渡す。

 ――諦めない。

 それだけを強く念じるカナタは、戦場の全てを俯瞰し――そして。

 雄叫びを上げ、駆け出した。


「ああああああああああああああああッ!!」

『自棄になったかしら!? 愚かな――』


 迎撃せんと身構えたカグヤだったが、カナタが一直線に向かった先は違った。

 少年が手を伸ばす先にあるのは、床に転がっているイオリの薙刀なぎなた


『チッ――!』


 がなり立てるアラートが制限時間タイムリミットが間近であることを伝えてくる。

 しかしそんなものは意識の外に押しやり、カナタは一心不乱に仲間の得物へと飛びついた。

 対応を誤ったカグヤはこの時、初めて遅れを取る。

 薙刀を拾い上げてから流れるような動作で踵を返し、そのままの勢いでカグヤへと向かっていくカナタ。

 相対する【輝夜】の構えは居合。

 互いにこれが最後の一撃になるだろうことを確信した上での、刃の一閃を繰り出さんとする。


「はああああああああああああああああああああああああッッ!!」


 少年の瞳が赤く燃え上がる。

 それに伴って機体が薄らと赤き光芒を帯びていく。

 魔力の全てを封じられた状況でなお、真紅の輝きを放つ『獣の力』。

 月居カグヤが至上の美と認める、【異形】が体現する究極の生命力だ。


『――来なさい、カナタ!!』


 カグヤは歓喜に打ち震えた。

 渇望した美が目の前にあり、いま、滅びようとしている。その瞬間に自ら立ち会えることは彼女にとって何よりもの栄光だ。

 銀の長髪を逆立たせ、瞳を鮮血の色に染める女は凄絶な笑みを刻む。


 そして――激突。


 切り結んだのは一瞬。

 抜き放たれた居合が薙刀の刃を受け流していく。

 その勢いのまま太刀を押し込んで敵の胴体を斬らんとするカグヤ。

 女は勝利を確信した。

 だが――刹那。

 

「あああああああああああああああああああああッ!!」


 カナタは、吼えた。

 心を、魂を燃やす少年は、その攻撃を防がれようと足掻きを止めなかった。

 止めてしまったら全てが終わる。たとえ見苦しくとも美しくなくとも、月居カナタは何としてでも母に勝つのだ。

 鋼鉄の肉体に刃が滑り込む。灼熱が神経を焼く。視界が白く明滅する。

 それでもカナタは止まらない。

 

『そんな――』


 胴体に太刀を入れられるのも構わず、突撃の勢いに全体重を乗せての押し倒し。

 地面に擦過していく背中の痛みに喘ぐカグヤは、モニターを支配する【ラファエル】の真紅の両眼に射抜かれて歯噛みする。

 

『私はっ、まだ……!』


 しかし。

 直後、電池切れを告げる無機質な電子音が響き、彼女の視界は暗闇に包まれた。

 折り重なったまま動作を完全停止させた二機。【ラファエル】が流出させる『魔力液エーテル』が赤黒い水溜まりを広げていく中、その生暖かさを感じながらカグヤは目を閉じた。

 仰向けに倒されたために、彼女が自力でコックピットから出ることは叶わない。月居カグヤの人間社会への反逆は、ここで終わりを迎えたのだ。


「こんな……こんな終わり……!」


 美しくない。

 女はそう胸中で吐き捨てた。負けるのならば、この首を斬られて潔く死にたかった。しかし、彼女の身体は惨めに押し倒されたのみで斬られてさえいない。


「嗚呼……空虚ね」



 長い長い螺旋階段を駆け下りるミユキは、ようやく最下層へと辿り着いた。

 脇腹を押さえながら肩で息をする彼女は、肘で扉を押し開けて大空洞内へと突入する。

 

「カグヤ――っ!?」


 再会を望み続けた彼女の名を叫んだミユキは、見た。

 自らも設計に関わった最高の機体が、機動天使の一機と共に倒れている光景を。そして、力尽きて停止した一機の【イェーガー・リベリオン】を。


「【ラファエル】……!? 一体、誰が……それに、アスマくんとイオリくんは……!?」

「――イオリさん、イオリさんっ! 何とか言ってくれよ、イオリさんっ……!」


 嗚咽の混じる少年の叫びに、ミユキは凍りついた。

【リベリオン】の隣、アスマがひざまずいている前に広がっている赤い液体――その中に、見覚えのあるSAMの内部部品パーツが幾つか浮かんでいた。

 

「うそ、でしょ……?」


 七瀬イオリがSAMごと毒液の餌食となり、溶かされて亡くなった。

 その事実を飲み込むまで、女はしばしの時間を要した。

 ミユキはイオリに謝りたかった。善良で正義感に溢れる少年の悩みに付け込み、危険な道へと彼を誘ったことを詫びたかった。半ば諦めていた再会が叶い、全ての事態が片付いたら彼と真剣に向き合おうと思っていた。

 だが、その全ては泡沫うたかたの願いと成り果てた。

 どれだけ手を伸ばそうが、祈ろうが、死した命が還ることは有り得ない。


「イオリさん、どこに行っちゃったんですか!? 返事してください、イオリさん!? 僕、まだ……あんたと話したいこと、いっぱいあるのに……!」


 粘っこい赤を掻き分けて、アスマはイオリの残骸を求める。

 その肌が毒液に蝕まれてもなお先輩を呼び続ける少年に、ミユキは駆け寄り、心を殺して彼の腕を引いた。


「不破さん……? なんで止めるんですか、イオリさんは、イオリさんは……!!」


 ミユキはしゃがみ込んで、泣きじゃくる少年の肩をそっと抱いた。

 アスマにとってイオリは唯一、心を開ける相手だった。その存在がいなくなって開く心の穴がどれほどのものか、ミユキには推し量ることさえ出来ない。

 喪失を認められずに激しくかぶりを振るアスマに対し、いま彼女がしてやれることは、それだけだった。


 しばらくそうしていると、次第にアスマは少し落ち着きを取り戻した。

 ミユキは彼に一言いってから、【ラファエル】へと歩み寄って機体上に上がり、コックピットの扉――全ての動力が尽きた際、ロックが自動で解除されるようになっている――を引き開けた。

 機体がうつ伏せに倒れ、前部が底になっているコックピットの中、操縦席から投げ出されて倒れていたのは銀髪の少年だった。


「王子様……!? あなたが、カグヤと……!?」

「そ、その、声……」


 ミユキに気づき、カナタが掠れた声を漏らす。

 彼の側に飛び降りたミユキは、密着した『アーマメントスーツ』が浮き彫りにするその身体のやせ細り具合に言葉を失った。

 肋骨が浮き上がるほど虚弱な少年が、SAMの最高傑作と戦って打ち勝った――状況から判断すればそうなのだろうが、とても信じられない。


「王子様……いえ、カナタくん。あなたが戦ったのはやはり、カグヤなのね?」

「は、はい」


 抱き起こしながら訊ねるミユキに、少年ははっきりとした声音で答えた。

 心のどこかで「いいえ」を期待していた自分に溜め息を吐きたくなるのを押し殺し、ミユキは「そう」とだけ返す。

 と、その時だった。


『九重くん! 戦いは決したんですか!?』


 橘ヤイチの声。『頂の階段』を下りて『尊皇派』のパイロットたちがやって来たのだ。

 ミユキは【ラファエル】内から声を張り上げ、彼を呼んだ。


「どうやら決着は既についたみたいよ。それでヤイチくん、あなた随分と遅かったけど何があったの?」

『強すぎる魔力波の影響か、エレベータが途中で止まってしまって。こちらからはどうすることもできず……』

「そう……もしエレベータの停止がなかったら、ここでの戦いの結末も変わっていたのかしら」


 最後の台詞は独白めいた小声だった。

 ヤイチの介助を受けてカナタを外に運び出したミユキは、もう一機の【リベリオン】が引っくり返した【輝夜】のコックピットを開くところを目にしていた。

 かつて愛し、そして心も身体も離れ離れとなってしまった彼女。向き合ってもう一度話したいというその願いは、ミユキ自身が抱え、そしてキョウジが託したものだ。

 魔力を使いきり、もはや走って逃げることさえまともに出来ない銀髪の女は、ヤイチらに銃を向けられながら姿を現す。


「……カグヤ」

「ミユキ……来ていたのね、ここに」


 ミユキがその名を呼ぶと、カグヤは弱々しく笑ってみせた。

 昔から変わらない女の白衣姿を前に、ミユキは今すぐ駆け寄って抱きしめたくなった。

 だが、それは許されざる行為だと分かってもいた。そこにいるのは地下都市ジオフロントを恐怖と混乱に陥れた元凶である、反逆者なのだ。人類のために戦った自分と彼女との間には、決して取り払えぬ深い溝が横たわっている。


「ミユキ、あなた……随分と、遅かったじゃない……」


 その声に、その言葉に、ミユキの胸からは熱い感情の渦が湧き上がった。

 月居カグヤは誤った。誰もが彼女を罪人と認め、その死罪を望むだろう。ミユキもそれは否定しない。彼女の理性は、そうなるべきだと明言している。

 しかし、それでも――ミユキは、カグヤに謝ることだけは止められなかった。


「ごめん……ごめんね、カグヤ。あたし、あなたのこと……何も、分かってなかった。あなたがそんな鬱屈した思いを抱えて、人間を信じられなくなっていたなんて、気づきもしてなかった。あなたと別れた後も、いつか何とかするって自分に言い聞かせて……ずっと、逃げてた。あなたにもう一度会って、もう一度拒絶されるのが、怖かったの」


 偽らざる本心をミユキは晒した。それでカグヤが許してくれるとは思わない。だが、言わねばならなかった。互いの心を知らなすぎたが故に起きた悲劇が、今回の事件だったのだから。


「あたし、あなたのことが好きなの。別れてからあなたのことを思わない日なんてなかった。あなたと過ごした時間を忘れたことなんてなかった。たとえあなたが罪人になってしまったとしても……そんなの、関係ない。だって、あなたは……たった一人の、あたしのかけがえのない恋人だもの」


 赤縁眼鏡を外し、不破ではなく明坂ミユキとして彼女はカグヤに想いを伝えた。

 胸に手を当て、声が震えないように凛然と顔を上げて。

 自分たちの運命がどうなるか、およそ予測は済んでいた。だから、泣くわけにはいかなかった。


「……もう。本当に……遅いのよ、あなたはいつも」


 カグヤは呆れたような眼差しをミユキへ送っていた。

 大学時代、課題に追われていた時。『レジスタンス』発足後、開発に納得がいかないからと任期ぎりぎりまで粘って新機体の練り直しをしていた時。寝坊した時。デートの待ち合わせに十分遅れた時。

 いつだって、カグヤは眉を下げて小さく溜め息を吐いていた。

 その度に小言をいいはしたけれど、最終的に彼女は笑ってこう口にするのだ。


『やっぱりあなた、興味深いわ』と。


 変わらぬカグヤの瞳に安堵したように、ミユキは頬を僅かに緩めた。

 彼女とまた、【異形】が来る前の平和ボケした穏やかな日々を過ごしたい――その未来を最後に夢想して、ミユキは懐に手を入れる。


「……少し、待ってくれないかしら。最後に、カナタと話をしたいわ」


 自力で立つことも叶わず【ラファエル】の身体に背中を預けているカナタのほうを向き、カグヤは言った。

 彼女は膝立ちになって息子と目線を合わせ、乾いた声で名前を呼ぶ。


「カナタ。あなたの名前はね、ミユキが付けてくれたものなの。遠い彼方かなたにある平和へと歩んで行けるようにって、願いがこもった名前よ」


 明かされた名付け親の存在と、その由来に目を見開くカナタ。

 手を伸ばして銀髪を慈しむように撫でてくる母親に、少年は微かに震える声で訊いた。


「ね、ねえ、母さん……かっ母さんは、み、ミユキさんと同じことを、願っていたの……?」

「ええ。ずっと昔……だけど昨日のような、あの日々では」

「だ、だったら、いいんだ。そ、それで十分……」


 少年は母親に対する承認欲求からSAMに乗り、戦い始めた。

 彼は母からの愛情を渇望し、そして自らに向けられた愛情が実験動物モルモットとして扱うための「飴」であったのだと気づかされた。

 だが、カグヤにも確かにカナタへの愛という感情があったのだ。

 息子が平和な未来で過ごせるようにという願い――それはカナタを愛し、想ったことの証左にほかならない。


「ね、ねえ、母さん……ぼ、僕を、抱きしめてよ」


 それはカナタの、息子としての最後のお願いだった。

 まだあどけなさを残す少年らしい頼みに、カグヤは微笑んで応えた。

 背中に腕を回し、その胸で息子を抱き留めて、彼女はしばらくそうし続けていた。


 ――手放したくない。


 それはカグヤの、母親としての最後のエゴだった。

 まだ繋がりを望む女の我が儘を察したように、カナタは目を閉じて母の胸に顔を埋めた。

 背中に腕を回し、残った精一杯の力で抱き返して、彼は少しの間、その温度に心を委ねた。


「お別れね、カナタ。多くの無辜むこの民の命を奪った私は、決して許されない罪人。これからは私のことなんて忘れて、恋人や友達、仲間たちと一緒に歩みなさい」

「そ、そんなの……や、やだよ。わっ忘れたくなんかないよ。どっ、どんな罪を犯しても、母さんは僕にとって、たった一人の母さんだから……!」


 身体を離し、言葉で突き放す。

 カナタのその訴えにカグヤは何も返さなかった。身を翻し、改めてミユキに向き直る。

 それきり、彼女が息子を振り返ることはなかった。


「ミユキ……私の代わりに、カナタを頼むわね。これからはあなたが、彼の母親になってあげて」


 穏やかに微笑む女のその顔は、かつてミユキが彼女の息子を名付けたあの日と重なった。

 懐の中でグリップを握る指先が強張る。今すぐそれを放り捨てて、カグヤとカナタとを連れてどこまでも逃げ出していきたい衝動に駆られる。

 だが、自分が『レジスタンス』の一員であったというアイデンティティは、彼女が最後の一線を踏み越えることを許さなかった。


「『魔導書ゴエティア』の中身に関してはあなたと早乙女博士に託すわ。その真実をどうするかは、あなたが決めなさい」

「……分かったわ」


 ミユキは短く応じた。長く話せば話すほど、自分の決意が揺らいでしまう確信があった。

 これから行うのは、けじめを付けるための儀式だ。

 月居カグヤという罪人を処刑し、彼女という人間と決別するための儀礼だ。

 幼い少女のように恋に酔っていられた時代は、既にミユキの手からはこぼれ落ちた。これからは自分が名付け親となった少年の「母」として、彼女は生きて行かねばならない。

 だから――。


「さようなら」


 過ぎし日は還らない。

 死んだ者は戻らない。

 それでも、人は前に進まなくてはならない。前に進んでいくことで、人はいつの時代も発展と、それに付随する幸福を手にしてきたのだから。

 その道の途中で誤ることもある。全てが正しく清浄であるわけではない。清濁を併せ呑みながら、正しさと間違いとに折り合いを付けて人は歩んでいくのだ。

 縋る過去と渇望する未来。その狭間に生きる一人の小市民として、ミユキはカグヤへ別れを告げた。 


 銃声が鳴り響く。

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