嵐を呼ぶお姫 第二部 (34)破滅のラッパ
―― 黙示録
大気が鳴動する。
異変に気付いたヴォーティーとロブスは東の空を仰いだ。
雲一つない夜明けの空に雷とは、何が起こっているのか。
天候を良く知る海賊だからこそ感じる違和感。
「ありえない」
「ロブス、単眼鏡で状況を確認する、それと矢を抜いてくれ」
「矢傷はきちんと処理しませんと…」
「なに、この身体だ、すぐ治る」
ヴォーティーは呪われた身体を笑うと「ふん」と鼻を鳴らした。
水兵長ロブスは巨体を生かして大楯を担ぐと石矢に備えヴォーティーをカバーした。
「急に静かになりましたね船長」
「戦場音楽が消えている…代わりに大気が騒がしいがな」
大楯の陰で単眼鏡を渡し、流れる様に治療を施す。
ヴォーティーは単眼鏡を覗きつつ唸った。
東の空を覆う暗雲は一体何時発生したのか。
天候には理由がある。
海からの水蒸気、気圧、風。
あの雲は自然の摂理を超えている。
人知の及ばぬ何かが起こっている。
単眼鏡に映るは神の悪戯か悪魔の所業か。
邪悪なる漆黒が大地から伸びる。
大神が生み出した聖なる使いが邪悪に反転するのだ、信心深いヴォーティーには耐えがたい光景であった。
「まるで聖典の黙示録だ」
信心深いヴォーティーは聖なる印を胸の前で切った。
失望の戦いで楽園を追われた人間たちが再び神の失望を買い、この大地からも追われて土に還る。
聖典に予言された終末。
ロブスは矢を抜くと火酒を傷口に吹いて手早く包帯を巻いた。
「その身体でも無理やり抜いた矢傷は障ります、あとは船医に」
「ありがとう」
「ところで船長、あれは一体…」
「宗教画にある悪魔のように見える…」
羊の角、燃えるような赤い瞳、獣のような口、蝙蝠の翼…。
「本当に悪魔なんですかね?」
ロブスは信じられないという顔をした。
「天使が居るんだ、悪魔も居るだろう? 現に私もお前も魚介だ」
肉食獣の牙に草食獣の角だ生物の理を超えている。
ヴォーティーは単眼鏡をロブスに渡すと変身を解いて人の姿に戻った。
「敵の石弓は?」
「装填中です。ですがセバス老、戦闘を止めてますね」
ロブスが大楯の陰から戦況を確認する。
ヴォ―ティーもキャリバンの方を見やった。
「キャリバンもだ、停戦か?」
ヴォーティーは耳をこらすと戦場の音を聞いた。
東の副長たち、アナ達の方までも静かだ。刃を弾く音が聞こえない。
この場にいるすべての者が「アレ」を放置しておけないと判断したのだろう。
ヴォーティーは油断なく辺りを見回した。
「よし副長達と合流する、再編成だロブス」
「アイサー」
「嫌な予感がする、いや、これは確信か」
大天使の卵は欲望の種子に変ったのだ。
その禍々しさは自ら体験済みだ。
天使を閉じ込め、人の欲望で悪魔に羽化させる。
あれはそう言う魔導器だ。
祖国タエトが魔導障壁に飲み込まれた時に聞いた沢山の悲鳴。
魔導障壁を生み出す莫大なエネルギーのためタエト王は天使たちを犠牲にしたのだ。
人は再び神の失望を買うというのか。
しかし希望はある。
アナだ。
ヴォーティーから欲望の種子を取り除き、邪悪から解放した。
呪いが完全に解けたわけではないが、悪夢からは解放された。
アナはあの呪われた魔道器を浄化できる。
王族の血か、選ばれし聖女なのか。
ヴォーティーはアナの矜持だと思っている。
純粋に民を救うという心。
パンチョスの誘いに乗らず、タエト人同士が争わない未来に賭ける決意。
アナが王位を継がないのは国が乱れるためだ。
王侯貴族はあの戦争の際に天使を利用し、民を見捨てた。
アナが王位に就き、王侯貴族を救出した後の未来は容易に想像できる。
「ロブス、石弓は来ない。移動しよう」
ヴォーティーは上着のカフスを直すとスカーフを整えて立ちあがった。
「アナ様の援護に向かう」
ヴォーティーは帽子を被り直し、ズボンに着いた泥を払うと強い眼差しで指示を出した。
「ツナとスピンは入り江に移動だ、ボートで待て。ロブスは私と来い、さあ諸君見たかあの白い光を、アナ様があの悪魔を討ち払う光だ」
東に灯るアナの光。
「我らが姫はあの悪魔に対抗しうる唯一の光だ。行こう我らも」
「「「アイサー船長!」」」
大楯を担ぎ直したロブスと共にヴォーティーはアナの元へ走った。
――キャリバンとタッソ
キャリバンは身体を抑え込む様に震えると、抑えていた殺気が溢れ出した。
東の悪魔に呼応するように右手の半片手剣が仄かに光る。
教会に祝福された聖騎士の剣が邪悪に呼応しているのだ。
「時間が無い、タエトの騎士よ悪いが急ぐ」
キャリバンの瞳が妖しく光り剣を背負うように構え直した。
一息に片を付ける構えだ。
タッソの背に冷たいものが走る。
防御を無視し、半片手剣を両手で振るう必殺の構えだ。
カウンターを喰らえば自身も危うい諸刃の剣。
しかし一体誰がこの化け物に対し相打ち覚悟で剣を振るえるというのであろう。
再び上段に構えたキャリバンを制してタッソは叫んだ。
「タンマ! タンマ! ちょい待てパロの!」
「今更命乞いか?」
タッソはタエト式の待ての仕草で遠くパンチョスが居る方向を指した。
「違うって、あれを見ろ!」
キャリバンは振りかざした剣を止め、東の空を睨んだ。
雲一つなかった空に渦巻く暗雲。
明らかに自然の作り出したものではない。
禍々しいそれは周囲から伸びる闇の触手を取り込んで大きくなっていく。
炎が見える。
闇が生える。
悪魔が炎を吐き、アナを襲っている。
禍々しい気が大気に満ち、大地から邪悪が湧き出るようだった。
遠くに見えるアナ達の傍に立つそれは明らかに人のサイズではない。
「遅かったか…」
天使の卵は闇に堕とされ、欲望の種子という呪われた魔導器に変ったのだ。
「…パロの、なんか知ってる顔だぞ? なんだアレ?」
キャリバンはタッソに振り向きもせず唸った。
「おい、パロの! なんだあれって聞いてるんだ? お前ん所の姫さんの仕業か?」
身の丈が知りうる生物の物ではない。
神話の時代の巨人族の様でもあるが人というより獣じみ過ぎる。
タッソの任務はドルシアーナ公女の身柄確保である。
公女が王家を継いでタエト王国は主権を取り戻す。
そう言う筋書きと聞いている。
魔導の類が絡んでいるとは聞いていたが悪魔退治なんぞは想定外だ。
「あれはお前た…いや今は説明している暇はない」
キャリバンは発しかけた言葉を飲み込むとアナのいる方向へ走り始めた。
「おいちょっと待てって!」
騎士タッソもキャリバンに続く。
歴戦の騎士であるタッソは理性では死を感じつつ、本能で理解していた。
あれを止めねば全員死ぬ。
ヘンリエッタも、竜人戦争からの付き合いの部下も、無関係な市民もだ。
「だけどパンチョス殿は生き残りそうで怖ぇえよな」
竜人戦争の退却戦を思い出して身震いした。
圧倒的な戦力差、個体差の竜人軍を尻目に退却をしてのけた。
危険な退却戦の方が籠城戦より被害が少なかった。
部下、一般兵士、馬、従騎士、輜重兵に散髪屋に至るまで。
みな貴族、騎士の財産だ。
負け戦にどれだけ被害を減らせるかが真に有能な将軍であるとタッソは考える。
大軍を率いて鮮やかに勝つ才能は目立つし評価されやすい。
しかし、軍事の基本は相手のリソースをどれだけ削るかだ。
この戦場で負けても次で挽回できるよう被害を最小にする判断が速く、逃げ足が速い。しかし勝つ場面ではしっかり勝つ。
長い付き合いの上官パンチョス卿はそういう将軍であった。
「まずは合流するとするか」
キャリバンは戦場を駆けた。街から今まで走り続け、先行部隊を瞬殺し、ヘンリエッタの弓を躱し、石弓隊を翻弄し無酸素運動でタッソを斬りつけていた後とは思えない運動量である。
並みの騎士なら、いや剛の者でも酸欠と筋肉疲労で倒れる活躍ぶりだ。
パンチョスから聞いて十分すぎる準備と作戦で迎え撃ったタッソであったが全く衰えない。キャリバンの無尽蔵の体力に舌を巻いた。
「パロの、あんた足が速いな」
板金鎧を着て自分について来られるこの男も中々のものだとキャリバンは評した。
もっともタッソについては剣を交えて理解していた。
腕が立ち、部下を思いやる判断の速い騎士だ。
何より自分の剣戟をあれだけ受けられる男を知らない。
「キャリバンでいい」
「俺はタッソだ」
名乗りも上げず騎士同士が戦っていたのかとタッソは可笑しくなった。
必死過ぎだろう。
「キャリバン、あいつ何なんだ?」
「タッソは教会が嫌いか?」
教会の宗教画にある悪魔そのものではないか?と肩をすくめる。
「自慢じゃないが俺は騎士の叙任以来、教会には欠かさず行っていたんだぜ」
「では何故?」
なれば宗教画ぐらい見たことがあるだろうと疑問に思う。
「そりゃあキャリバン、金だ。絵を見るのに銅貨3枚もかかるんだぜ? 貧乏騎士のくせに部下が居る。部下にパンも喰わせんで呑気に絵画鑑賞でも無いだろう?」
領地なしの元タエト騎士がどんな生活を送っているのかキャリバンは察した。給与を払っていた貴族は軒並み結界の中である。
命がけで祖国を守った先は失業が待っていたというわけだ。
「なるほど、それはすまない」
「で、アイツはその宗教画の悪魔に似ているんだな?」
タッソはどう戦うか脳内で戦闘プランを描いた。絵は見たことが無いが聖典に記された悪魔の情報を思い浮かべる。
恐ろしい、人間では勝てない、天使が追い払うべき存在。
「聖典の情報は役に立たないし、見たまんまそのものだな」
だがやり様はありそうだ。
キャリバンも悪魔を睨む。
「あいつを何とかしなくては、タッソお前の兵は?」
キャリバンが周囲の戦力を確認する。
「お前さん達が意外と苦戦してくれたんで無事な奴の方が多い」
とはいえ大楯屍兵がなぎ倒されたのを見て、大楯では防ぎきれないとは判る。
「よく訓練された良い兵だ」
「そりゃどうも」
屍兵の方は全滅か?
石弓隊に弓魔女、セバスチャン、大楯、ヴォーティーとロブス、海賊の散兵、騎士二人、アナ様とパンチョス。屍兵大楯兵の残存。
キャリバンは戦場に混在する戦力を把握した。
あとは相手の戦力だが、正直未知数だ。
しかし身体の全細胞が阻止せよと訴える。
あれは世に出し、解き放って良いものではない。
生まれたばかりの今、叩く他ないと。
血液が沸騰する。
内側から何かが目覚める。
邪悪を討て。
闇を掃え。
お前はそう作られた。
「カタリナ…」
「キャリバン、気のせいかあいつデカくなってねえか?」
火を吐き、殴り、暴れる悪魔にアナ達は防戦一方であった。
「気のせいではなさそうだ」
悪魔は雄牛の頭ほどもある拳を振るい大楯を薙ぎ払った。
パンチョスの指示か、大楯隊は受け止めずに往なしたのだろう、すぐさま隊列を整える。
炎には陣形を整えて隙間なく大楯で陣を張る。
よく訓練された自慢の部下である。
「無駄死にはさせたくねえな、クロのヤツ新婚だしな」
タッソのため息にキャリバンが笑う。
タッソは部下想いで優秀な指揮官だと思う。
敵同士でなかったら意外と美味い酒が飲めそうだとキャリバンは思った。
「あの攻撃をまともに受けたら大楯とて持たないだろう、大したものだ、柔らかく受け止めている」
「傭兵家業が長くてね、オウガ討伐やら魔獣相手に多少は経験がある」
キャリバンの感想にタッソは自慢げに笑った。
しかし、これから戦うのは見た事も無い怪物で、危険度はオウガなんぞの比ではない。
これは不安ではなく正確な状況分析だ。
アナとパンチョスが連携して囮になり、大楯隊をうまく活用しているが大楯隊が突き出す槍が通らない。
そこいらの魔獣であれば大楯で攻撃を防御し槍衾がセオリーだが、まるで通じていない。
質量が違うのだ。
あの自重を支える筋肉、骨格。
それに地中から湧き出る闇の触手。
魔力。
でたらめな強さだ。
「まあ、でたらめと言ったらキャリバンもでたらめだ」
悪口ではない。
この男ならと希望が見える。
キャリバンのデタラメな強さならあるいはと期待する。
「む?」
「褒めてるんだよ」
タッソは続けた。
「恐らく最大火力はキャリバンとこのお姫さんだな、それとヘンリエッタの石弓部隊。石弓の初速が落ちる前、せめて100フィル以内には近づきたい。それと接近戦ではキャリバンだ、大楯を撫で切る半片手剣であればダメージを与えられるだろう?」
―― 破滅のラッパ
「あれは…タッソ?」
ヘンリエッタは鷹の目のような視力をこらした。
今まで殺し合ってきたキャリバンと共にタッソが悪魔に向かう。
パンチョス卿が指揮を執りその巨大な悪魔と戦っている様だ。
残存している屍兵だろうか、大楯兵たちがその腕に薙ぎ払われている。
弱兵とはいえ脆すぎる。
あれが何者なのか解らないが野放しにしてはならぬという事だけはわかる。
教団が欲していた「卵」とやらの正体なのか、その異形の巨影から感じる物は破滅そのものだった。
「ヘンリエッタ、力を貸せ、元はタエトを守る騎士同士だろう?」
セバスチャンはヘンリエッタに眼差しを向けた。
タエトの民があの異形に蹂躙されるのが容易に想像がつく。並みの者では圧倒的な恐怖にひれ伏すであろう。
見た事も無い怪物であるが一目で判る。
あれは解き放ってはいけないモノだ。
ボスであるパンチョス卿も停戦し、目標である「姫」と共闘している。
ヘンリエッタは状況を呑み込んで頷いた。
「再びの失望のあと、破滅を知らせるラッパが鳴りました…」
ヘンリエッタは聖典の一節を呟いた。
「教団の求めている魔導器は何なの? あの姿は悪魔にしかみえない」
ヘンリエッタは悪魔の頭上に渦巻く暗雲を見て拳を握り締めた。
「あれは人間の欲望を吸って育つ魔導器なのだヘンリエッタ」
中に閉じ込められた天使は人の欲望を吸って悪魔になる。
「欲望…」
とはいえセバスチャンもあれほど大きく変態したものは初めてだった。
「アナ様は天使を解放するためにアレを集めていなさる」
「天使を解放? 何のために? 王位? 信仰? 正義? 」
「ヘンリエッタ…答えは一つではなくアナ様は最善を探している」
「最善?」
「この国に…いや世界に巣食う闇は深く、絡み合い、一人の力では解く事が出来ないのかもしれぬ」
聖騎士王が正義を謳い、秩序を求めた時代ではない。様々な利権が、欲望が、渇望が渦巻いている。
かつて楽園と言われた肥沃な土地は瘦せ衰え、大地は活力を失い、商業物流の発展と共に政治は複雑になってきた。
竜人戦争とやらが何故起きたのか。
単なる侵略戦争ではない。
「それよりも今は悪魔だ」
ヘンリエッタは頷いた。
「過去の経験では天使の卵に侵された者は自我を失い暴れ狂う…生半可な事では死ねず、周りを破壊して大地を痩せさせる。あの黒い触手は大地の力を吸い取っているのだ」
「それって…」
「急がねば…あれ程の変態を遂げるなぞ未知の領域だ」
ヘンリエッタは素早く兵を集めると石弓兵と共に前進した。




