六五話 襲撃
蝦夷の空に、まっ白い絹糸の様な髪がひらひらと舞った。
それはまるで雪の様に、音も無く静かに地面に落ちて行った。
今、その場にはどんな音も存在しなかった。
ただの静寂だけが、その場にあった。
「……あっああ」
無音の時間を破ったのは、龍久だった。
声にならない音を出して、目の前の状況を必死に受け入れようとしていた。
「…………なんで」
そう問われて、土方は小さく息を吐いた。
それはどこか、ため息にも似ていた。
「……なんで、なの?」
そう尋ねたのは、雪だった。
兼定の切っ先は、雪の髪を数本斬っただけだった。
血も出ていなければ、かすり傷さえない。ただ彼女の白髪が数本斬られただけだった。
「……ほら、斬ったぞ」
そして土方は、そう二人に向かって言った。
その言葉に、雪も龍久も、そして針を手に持っていた葛葉も目を丸くして驚いて居た。
「痴話喧嘩は他所でやれ、馬鹿野郎」
そう嫌味を込めて言いながら、土方は兼定を鞘へと納めた。
それはつまり、雪を殺さないという事になる――。
「どうして……私はお前の仲間を殺したんだぞ」
「馬鹿野郎、それだったら俺も同じだ……攘夷志士の奴らも殺したし新政府軍の奴らも殺した、その癖怒っててめぇを殺すのは、それはただの復讐じゃねぇか……そんな事したら、近藤さんに怒られちまう」
己の復讐心を満足させる為だけに、今ここで丸腰の雪を斬るのは、あまりにも武士らしくない、そんな事をしたら、『武士』を目指して共に歩んで来た者達に、怒られてしまう。
「それに、そこの葛が俺を狙ってるしな」
「…………」
そう針を手に持っている葛葉に言った。葛葉は黙って目を逸らして、針を隠した。
そして土方は、視線を困惑している龍久へと向けた。
「龍久、お前は言ったな……この国以外で、武士以外でどうやって生きて行けばいいのか分からねぇと……そんな事ねぇ、俺は元々薬売ってたんだ、そいつがここまで出世出来た、人間生き方を変える事は誰にでも出来るんだ、抗う事は誰にでも出来るはずなんだ」
「……それは土方さんだけでしょう、貴方は『運命』とか未来とか、そう言う物に抗って、ここまで来たんでしょう! こんな北の果てまで来て……それでも抗って!」
「そいつは違うぞ龍久、俺は本当は諦めたんだ……この『運命』をこの未来を、受け入れたんだ、近藤さんが居なくなったあの時に……本当は抗う事を止めたんだ」
共に高みに上り詰め様と、歩んだ者を亡くしたあの時、土方は全てを悟っていたのだ。
こうして時代が変わって行く事を――。
「じゃあ、どうしてこんな所まで来たんですかぁ……諦めたんだったら、降伏でもなんでもすればよかったんだ……」
「……そうもいかねぇよ、俺はあの人に頼まれちまったからな、この新選組の事を」
流山から逃げる時、近藤との別れ際に土方はこの新選組の事を頼まれていた。そして、彼は最後までそれを守り続けた。
「なぁ龍久……お前は俺みてぇに抗う気力が無いって言ったよなぁ、あれは大間違いだ……お前はずっとその女の事を思ってたじゃねぇか、それは抗ってたって言うんじゃねぇのか? 何度拒まれても、何度も打ちのめされてもお前はそいつの事だけ考えてただろう、そっちの方が、俺は出来る事じゃねぇと思うけどなぁ」
「土方さん……」
「お前等はまだ若い、これからなんだって出来る、時代が変わっても国が変わっても、お前にはいろんな可能性があるんだ、それを自分から捨てるんじゃない、諦めるんじゃねぇよ、本当に欲しい未来があるんだったら這いつくばっても掴み取れ、若いのが、散り際なんて考えるんじゃねぇ」
「でも、それなら土方さんだって、もう一度抗いましょうよ! 土方さんは俺なんかよりも絶対未来のこの国に必要な人ですよ!」
土方はそれに、静かに首を振る事で答えた。
「俺はこの国の事なんて考えた事ねぇよ……、それにな龍久、俺にはもう一緒に歩んでくれる人が居ねぇんだ」
「それは、俺がいますよ! 一緒に歩みますよ!」
龍久がそう言うが、土方は呆れながら彼の額を小突く、それは少し痛いがとても優しい物だった
「おめぇはこいつと歩け、言っただろう? 男の背中がいくらデカくても限度がある……それにお前に背負われるくらいなら、死んだ方がマシだ」
「でもぉ……」
龍久はこの時、雪にはあの異国の男が居ると、そう言おうとしたのだが、言葉にできなかった。ただ泣きそうなくらい目が熱くなってむず痒かった。
「龍久ぁ……」
雪はそっと龍久の手を握った。その温もりはとても愛おしくてたまらない、でもこの温もりを感じるのは自分ではないのだ、自分であってはいけないのだ――だがそれでも、龍久は彼女の手を握り返してしまった。
それは彼の意思とは反する、何かもっと心の奥底の素直な部分の反射的な行動だった。
「……本当にお前は、馬鹿だけど、素直でいい奴だよ」
そういう土方の表情はとても穏やかで、清々しい。一点の曇りのない、男の顔だった。
「土方……」
雪は龍久の手を握り締めながら、土方を見る。
格好良い男の姿だ、そして自分を許してくれた事と、龍久を生かしてくれた事に対して、深くありがたいと思った。
そして雪は、頭を深々と下げて心からの礼の言葉を言った。
「ありがとう」
雪の耳に不思議な音が聞こえた。
何かが破裂した様な音で、雪はそれを何度も聞いた事がある。
一体何の音か、確認する為に顔を上げる。
「……土方?」
すると目の前に居る土方の様子が可笑しい。
足に力が入っておらず、支えを失くした上半身が、真横へと落ちて行く。
それはほんの一瞬の事で、一体何があったのか誰にも分からなかった。
ただこれだけは分かった。
土方が、倒れた事は――。
「ひっ、土方さん……」
「土方!」
龍久と雪は、真横に倒れた土方の元へと近寄る。
一体何があったのか全く分からない、なぜ彼が倒れたのかさえも――。
「龍久、銃だ!」
何があったのか分からない二人に向かって、唯一冷静さを保っていた葛葉がそう叫んだ。
それでようやく、龍久と雪は土方の腹に銃によって空いた穴があって、そこから血が流れ出している事に気が付いた。
土方は、銃で撃たれたのだ――。
「土方さん! 土方さぁん!」
龍久が呼びかけても、土方は答えない。ほんの少しだけ開いている眼には、これっぽっちの生気も宿っていなかった。
「あっあああ……そんなぁ」
雪はもう彼が息をしていない事を確認して、小さな胸が恐怖でいっぱいになった。
そして握っていた手を解いて、血が手に着く事も構わず彼の体を揺すった。
「土方さん、嘘だろう……土方さんがこんな、こんな終わりなんてぇ……」
「ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
雪は涙を流しながら謝っている。
だが彼女のせいなどではない、一体誰が彼を撃ったのだ、誰が彼を殺したのだ。
龍久は顔を上げて、辺りを見渡した時だった。
「随分、待たせてくれたなぁ」
耳障りな聞き覚えのある声がした。声と共に、人影が見えた。
まず見えたのは長く垂れ下がり片目を隠している前髪。
次にもう片方の眼に施された蛇の刺青。
そして不気味なほど色の濃い紫色の水干。
「待ちくたびれて、死んでしまいそうだった」
そう言って気味の悪い笑みを浮かべる、そいつを、龍久は一人しか知らない。
それは陰陽師だった。
最も出会ってはならない敵。それが今、この場に現れてしまった。
自信と悪意と共に、陰陽師はこちらに向かって歩いてくる。
その横には小銃を持った陽元が居る、どうやらあの爆発から生き延びていたらしい。
「お前には騙されそうになったぞ南雲龍久……、まさかそんな髪でこんな所に来るなど……あの糞アマをどんな手で手なずけたんだか知らないが、詰めが甘いぞ」
髪の色を変えるなど未来の技術に決まっている、そんな事が出来るのは陰陽師しかいない、葛葉はまず未来の道具を使わせないので、玉藻が力を貸したと推測したのだろう。
「お前はよく覚えておくべきだな、女はなぁ馬鹿なんだよ、お前がどんなに体を張ってその身を犠牲にしようとしても、その女は此処に来てしまった、お前の気などこれっぽちも考えずになぁ、そんな奴の為に命を張って何が良いんだ、ええん?」
そう言って雪を見下す様に一睨みすると、龍久に視線を移した。
「はいよくできましたとでも言って欲しかったのかぁ? だとしたら愚か極まりな――」
「黙れよぉ」
陰陽師の言葉を遮ったのは、龍久だった。その表情は怒りで満ちている。
「その口閉じろよぉ……、てめぇがそれ以上しゃべるんじゃねぇ!」
龍久は右手で村正を構えて、切っ先を陰陽師へと向ける。この男を殺せない事は分かってはいるが、どうしても許せない。だが今は雪が居たので、彼女を守る為にその前に出た。
「龍久前に出すぎるな、奴の相手は俺がする!」
更に葛葉が龍久の隣へやって来て、陰陽師に向かって身構える。
「この藻野郎、いっつもいっつもいいところで邪魔しやがってぇ!」
「ふふん、藻は酷い、せめて妲己とでも呼んでもらいたい物だ」
玉藻と言うのは、元は中国の狐の妖怪だったとされている。その時の名は妲己、悪行の限りを尽くし、国を破滅へと導いた悪女の名前だ。
「センスがねぇなぁ、この酒池肉林野郎!」
針を三本ほど右手で持つと、それをいつでも妲己と名乗った陰陽師へと放つ用意をする。
「(龍久、雪様を連れて逃げるんだ、森の中へ行けばまけるかも知れない)」
「……葛葉」
確かに妲己と互角にやりあえる可能性があるのは、葛葉だけだ。雪は戦意を失っており、戦う事は出来ないだろう。
今は彼女をどこか安全な場所に連れて行く事が優先されるのだ。
「行けっ、龍久!」
葛葉は針を妲己に向かって投げた。どれも注意を葛葉に逸らす為の物である。
「目障りな……」
妲己がそう言うと、水干の袖口から光沢を持った銀色の液体が出て来て、それが巨大で鋭い槍の様な塊を整形したかと思うと放った。
「行くぞ雪!」
龍久は雪と逃げようと、足を踏み出した時だった。視界の隅に、眼に突き刺さる様な光が見えた。
その瞬間、龍久に向かって金属の塊が飛んで来た。
「――っ!」
反射的に、龍久は村正でそれを防ごうとした。
だが重さも固さも、圧倒的に塊が上回っており、村正ではそれを受け止めきれずに、根本近くから真っ二つに折れた。
だがそれでも塊の勢いを落とす事は出来なかった――。
塊は龍久の右腕を貫いた。
それでも止まらず、龍久はそのまま吹っ飛んで行った。
そして雪からかなり離れた所でようやく勢いを失くして、地面に突き刺さった。
まるで巨大な杭の様なその塊が、龍久の右腕を穿ち、大地に縫い付けていた。
「あっ……あああ」
雪は全てを理解して、絶望に打ちひしがれた。
そして北の大地に、雪の悲鳴が響き渡った――。
「龍久あああああああああああああああああああああああああああっ」




