四七話 夜叉の心
龍久にとって、雪との再会は何よりも望んでいた物だ。
だが、状況は最悪だった。雪が藤田に向かって刀を振り下ろす、正にその瞬間だった。
「止めるんだ雪、そいつは藤田なんだぞ……」
突然の龍久の登場にその場に居た全員が驚いた。確か幕軍と共に北へと進んでいたはず、どうやって、なぜここに戻って来たのか全く分からない。
「たっ龍久なんでここに、それに……雪って、一体」
「雪、もう止めてくれ! これ以上誰も殺さないでくれ!」
龍久は二人の間に入り、藤田から雪を離した。両の手を広げて庇う様に雪の前に立ち塞がった。
「雪、昔みんなでここを通っただろう! 俺とお前と、藤田とお時――」
「五月蠅い、五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い――――っ!」
声を遮る様に雪は怒鳴った、そして鋭い眼光を龍久に向けた。藤田に向けたものとは違い、怒りと憎しみにまみれたものだった。
「龍久ぁ……お前の声は……頭に響くんだよぉ!」
雪は頭を押さえながら、村正の切っ先を龍久へと向けた。その刃は藤田に向けられたものとは違い、深い憎しみと怒りが込められていた。
「どうして……お前は、そうやってぇぇ、私をいつも苛々させるんだぁ!」
「違うんだ雪! 俺はただお前と話がしたいだけなんだよぉ!」
「五月蠅い、黙れえええええ!」
雪は叫びながら村正を振るう、龍久を一刀しようと刃が振り下ろされる。
龍久は急いで脇差を抜くと村正を受け止めた。
「くっ……強い……」
天満屋の時よりも、雪の力はずっと強くなっていた。既に女が出せる力の域を超えている、これが『夜叉』になるという事なのだろうか――。
ガチガチと噛み合う刃と刃、それが金属音をたてる度に腕がしびれるほど痛い。
「雪頼む、俺の話を聞いてくれ!」
「五月蠅い、お前と話す事なんて何もない!」
雪は龍久を振り払った。龍久はよろけながらも、どうにか体制を立て直した。そして左側へと移動した。
「――くっ」
雪はそれを追う様に体を右に向けるが、龍久は直ぐに左足を踏み出して移動する。
「だあっ!」
「――っ!」
龍久は雪に向けて刀を振るった。左から右へかけてのただの一閃。藤田や土方に比べれば、どうという事もないただの一撃だったのだが――。
その切っ先は雪の白い髪を斬った。
はらはらと、絹糸の様な白い髪の毛が数本水たまりに落ちて浮かんだ。
その光景に驚いたのは、藤田と斬られた当人である雪だった――。
「あっ……」
雪には自信があった、龍久の攻撃だったら避ける事が出来ると、だが龍久の刀は、今雪の髪の毛を斬り落とした。
「俺だって……、ちゃんと剣の修業はして来たんだ」
龍久はそう言って、刀で空を切って見せた。刀身についていた雨粒が空を舞い、地面に落ちていく中、刀を構え直した――。
「雪、俺の話を聞いてくれ」
雨粒が大きくなり強く肌を打つ、髪や顔の輪郭から雨粒が滴り落ちていく。
そしてその雫が、水たまりに落ちて無数の粒となり跳ねた――。
瞬間、村正の切っ先がやって来た。
「うっああっ!」
龍久はどうにか刀でそれを防いだ。切っ先が刀身に当たり、ギチギチと音を立てている。
「ゆっ雪っ!」
力まかせにそれを弾くと、左へと足を踏み出す。雪がそれを追う様に体を向けると、龍久はそれに合わせて更に左へと移動する。
それを見て、雪は歯が削れるほどの歯ぎしりをした。
「龍久、お前ぇ」
そして殺す勢いの眼光を龍久に向けて、怒鳴った。
それはただ一人しか知らないはずの、雪の『大きな弱点』。
「『鬼』と同じ動きをするなぁ!」
***
八日前。
「お前は本当に、良い奴だなぁ龍久」
「えっそうですか……?」
意味をよく分かっていない龍久は首を傾げる。そんな彼を見て土方は小さく笑った。
「しっかりしろよ、そんな面じゃあの女に一瞬で負けちまうぞ」
「あははっ、こんな顔じゃなくても負けちゃいますよ……」
実力は測らずとも分かる、圧倒的に雪の方が上である。それでも上野へ向かわない訳には行かなかった。
「……龍久、お前に教えておきたい事がある」
「えっなんですか……まさか女の口説き方ですか?」
「違う! そんな事今聞いて嬉しいのか、お前」
(少し聞きたかったんだけどなぁ……)
咳払いをして、土方は真剣な面持ちで切り出した。
「あの女の弱点についてだ」
「…………」
それ男を聞いて龍久は苦い表情をした。弱点という言葉が、なんとなく雪を殺す様な表現に聞こえたからだ。
「龍久、これはお前の身を守る為のもんでもある……いいから聞け、あの女は仮面と右目に傷があるせいか左目に比べて視力が落ちている、つまり奴にとっての右側、お前にとっての左側に死角があるんだ」
雪の動くものを見る力は恐ろしい。どんな攻撃でもそれが目に見えるものであれば避ける事が出来る、だがそれはあくまでも目に見ている物だけの話だ。
左眼の視界に入らない、右の蟀谷辺りが無敵の回避力を誇る彼女の、唯一の弱点だった。
「土方さん……いつ気が付いたんですか、雪の弱点」
「昔平助と沖田と戦ってただろう、あいつ左からの攻撃は簡単に避けたが、右からの攻撃には反応が左に比べて遅かった、だからその時に右眼の視力が弱いと分かった」
「……ほとんどあってすぐじゃないですか、やっぱり土方さんはすごいですよ……、俺全然気が付かなかった……」
「おめぇはずっと、あいつにご執心だったからな……、それにあいつはどんなに行っても女だ、男の腕力には勝てやしねぇもしも鍔迫り合いになったら力で強引に弾き飛ばせ」
確かに雪は女では力がある、しかし男とと比べてしまえばやはり弱い。
平助や沖田が蹴られた時も痛がっていなかった事を考えると、雪の強みは回避力と身の軽さと柔らかさ、そして速さだろう。
「……いいか龍久、これはお前の身を守る為のもんだ、お前が死んじまったら元も子もないだろう?」
土方が諭す様に言うと、龍久は小さく頷いた。
***
「いちいちいちいち、癇に障る男だぁ!」
雪は村正を龍久に向かって振り下ろした。
「くうっ!」
龍久は村正を弾き飛ばすと、雪の弱点である左へと移動する。しかしそれを見た彼女は怒り、仮面を引き剥がす様に取った。
「やっぱり……雪光なんだな」
藤田がそう呟くが、その言葉は当人には聞こえていない、ただ目の前に居る龍久にだけ集中していた。
すっかり色が薄くなった両の瞳が、龍久を鋭く睨みつける。それは憎悪以外の何物でもない。
「龍久ぁ! お前なんかに、負ける訳ないだろうがぁ!」
急いで左側に回ろうとするが、雪は先ほどよりも速く村正を振るった。
雪の右眼の視力は確かに落ちた、そこに更に仮面を着ける事によって、ただでさえ狭い左の視野をより削っていた居た。
日常生活ならば、雪の眼をもってすれば仮面を着けて生活するぐらい造作もない。しかし戦いとなれば、その視野の狭さは大きな痛手になる。
それ故に仮面を外した時雪の視野は一部回復する――。
「まっまずい!」
龍久は左へ左へと移動するが、視野の一部が回復した雪はそれに追撃をする事ができる。村正は頬を掠めて行った。
龍久は雪と距離を取った、正直仮面を外した雪に勝つ見込みなどない、気を抜けばすぐに斬り殺されるか撃ち殺されるだろう。
「雪、覚えてるだろう! みんなで無い物買いをして、夜中に店の店主を叩き起こしたよな、あれは俺が悪戯しようって言って藤田とお前が考えた――」
「五月蠅い、五月蠅い!」
言葉をかき消そうと、雪は村正を振るい続ける。龍久はそれを避けながら必死に雪に訴えた、あの頃の彼女に戻って欲しくて――。
「皆で吉原にだっていったなぁ、あの時俺と藤田は馬鹿飲みしすぎでツケがたまっちまって、お前に馬鹿にされたよな」
「五月蠅い、五月蠅い、五月蠅い!」
乱雑に村正を振り下し、龍久はそれを刀で受け止める。しかし雪は何度も何度も村正を振り下ろし続けた。
「雪、どうしたら昔みたいになってくれるんだ、何をすれば分かってくれるんだ!」
「うっうるさああああああいぃぃぃぃぃぃ!」
雪の怒号に呼応する様に、雨風が強くなった。白髪がまるで逆立つ様に舞っている。
「……雪」
龍久は間合いを取った、今の雪が危険な事は十分わかっているが、あまり離れると銃を使われるかもしれない、距離を取りすぎない様に調整した。
「…………ひさ」
「ゆっ雪?」
「龍久ぁお前の声は……頭に響くんだ、頭が軋むんだ」
頭痛はどんどん強くなり、痛くなる。それは龍久の声に反応する様に、龍久が言葉をかける度に、頭を殴られた様な激痛が走る。
「どうしていつもお前はぁ、私をイライラさせるんだぁ!」
「違う、違うんだ雪、俺はただ、お前に幸せになって欲しいだけなんだよ! 昔みたいに笑ってほしいだけなんだ!」
「私の……幸せぇ……」
今では逆賊は龍久となってしまった。だがそれでも雪を救いたいと、彼女に幸せになって欲しいそう思って行動して来たのだ。時代の波において行かれた自分には、それしか生きがいが無いのだ。
しかしそんな彼の思いとは裏腹に、雪の顔に笑顔は戻らず、凍り付く様な眼光が向けられた。
「私の幸せは、お前が奪ったんだろうがぁ!」
龍久は、何も考えられなくなった。
「俺が……雪を……」
全く自覚がなかった、自分がいつそんな事をしたのか、全く見当もつかない。
「お前がどうでもいい事で、婚約を破棄したんだろう……所帯持ちになるのが嫌だとか、私の父が嫌いだとか……私とは何の関係もない事でぇ、私を追い返したんだろうが!」
「……そっそれは」
それはまだ雪に会う前の事、若さゆえにやってしまった過ちであった。
「私がその後にどうなったかお前は知らないだろう……、女にとって婚約がどれほど重要な物か、私は父に有らん限りの罵声を浴びせられた、全部私が悪いと言われた……でも私が何をしたんだ龍久、私はただ……父に言われたままに婚約を受け入れたんだぞ、顔も知らないお前の所に嫁ごうとしたんだぞ!」
何も反論できなかった、ただの一言も言葉を発する事も出来なかった。
「私がどれほど怖かったと思う! どれほど嫌だったと思う! 顔も知らない会った事もない男の所に嫁ぐのがどれほど勇気のいる事か、それなのに、それなのにお前はぁ、お前はぁ、それを滅茶苦茶にしたんだぞ!」
あの時、雪との婚約を断った時、龍久は正直何も考えていなかった、ただ結納が嫌で知らない女を嫁に貰って所帯を築くのが嫌で、相手の事など何も考えずにただ断った。
自分の事しか考えずに――。
「龍久、あの時からもう私は、『女』として生きる事を断たれたんだぞ! 一度婚約を破棄された女は、傷物として扱われる、もう誰も嫁に貰ってくれない……そんな私に、お前が、お前が幸せになれと言うのかぁ!」
初めに雪の幸せを滅茶苦茶にしたのは他でもない、龍久だった。
自分の我がままで、雪の『女』としての幸せを台無しにして、その彼女に向かって、幸せになって欲しいと願い、笑顔が見たいと思い、ずっとそうしようと努力して来たつもりだった。だがそれは、大きな間違いだったのだ――。
「俺が……俺の、せいで……」
「『女』としても『男』としても生きられない私は、『夜叉』になるしかないじゃないかぁ!」
いつの間にか、雪の眼から小さな雫が毀れていた。
ずっと哀しんでいたのだ、『女』として生きられなくなってしまったあの日から、雪光と名と性別を偽っていた時も、京都に居たあの時も、本当はそれが哀しかったのだろう。
龍久が潰してしまった、小さな幸せ。
自分があの日あんな馬鹿な事をしなければ、雪は今頃『女』として幸せに暮らしていけたのだろうか、こんな風に『夜叉』になどならずに済んだのだろうか――。
「あっああ、あああああああっ」
腕に力が入らなかった、まるで自分の腕ではない様に力が抜けて、刀が地面に落ちた。そして足からも力が抜けて、龍久は両膝を着いてしまった。
「龍久ぁ、どうして、どうしてお前はいつもこっちを向いてるんだよぉ……どうしておんなじ方を向いてくれないんだよぉ」
「雪……、どうしたらいいんだ、どうしたらお前は幸せになれるんだ……?」
彼女の幸せを奪ったのは自分だ、だから彼女が幸せになれるのだったら、自分はなんでもする、それが彼女への償いになるのなら、それで彼女が笑えるのなら――。
「龍久……」
龍久は顔を上げた、雪は自分を見下ろしている。
しばらくの間を開けた後、その口から言葉が紡がれた――。
「龍久……死んでよぉ」
「えっ……」
意味が理解出来なかった。今まで散々罵詈雑言の類を言われたが、それを超えて、今まで一番心に突き刺さった。
「お前の声を聴くと、頭が軋むんだ……胸が苦しいんだ、だから……死んでよぉ龍久ぁ、私の為に今ここで死んでよぉ」
雪の両目から涙が毀れている、それを見ていると龍久の眼からも涙が零れ落ちる。
「あっああ……俺は、俺がぁ」
雪にとって、一番邪魔だったのは他の誰でもない。龍久自身だった。
雪を苦しめていたのは、他の誰でもない龍久なのだ。
「ごめんなぁ雪……、ごめんなぁ……」
自分の命で彼女が幸せになれるというのならば、それに従うしかなかった。この命で雪の気持ちが晴れるなら、それで償えると言うのなら、その刃を受けよう――。
龍久は頭を垂れ無抵抗の意思を示した。雪はそれを見ると村正を構え、哀しそうに見下ろしていた。
(雪ごめんなぁ……、俺ここで死ぬから……)
右足で踏み込みながら、雪は村正を振り下ろした。鈍く光る村正は、一寸の狂いなく龍久に向かって振り下ろされる。
(幸せに、なってくれ)
そして、凶刃は振り下ろされた――。
「どけぇ、バカ久!」
瞬間、龍久を踏み越えて藤田の鋭い突きがやって来た。
「あっ――」
龍久に意識を集中させていた雪は、その後ろから突如現れたその最速の突きに反応することが出来なかった。
雪の喉に、渾身の突きが炸裂した。
華奢な雪の体では、藤田の渾身の一撃を耐える事などできるはずがない。
雪の体が地面から離れて、宙を舞って吹っ飛んで行った。
「ふっふじたぁ」
藤田の手には刀ではなく、鞘があった。
龍久を見下ろすと、藤田はその胸倉を掴んで引き寄せた。
「このバカ久、何やってるんだ!」
藤田は憤慨していた、今にも顔から火が付きそうなくらいに怒っている。
そして龍久を捨てる様に離すと、怒りで肩を震わせていた。
「ダチがダチを殺そうとしてるのに、止めねぇダチがどこに居る!」
「藤田……」
「なんでお前らはいっつもいっつもぉ! この五年でお前らに何があったのかなんて俺は知らねぇけどなぁ、俺もお前らの友達じゃねぇのかよぉ、この馬鹿野郎がぁ!」
藤田は何時だってそうだった、いつも自分と雪の間に入ってくれる、頼もしい兄の様な男だった。
「次同じ事してみろこの俺がぶっ殺すからな! この馬鹿野郎!」
「……藤田」
言って居る事は支離滅裂だったが、藤田の言葉は龍久に十分すぎるほど伝わった。
しかし、彼の言葉が届かない人物もいた――。
「げほぉ、げほっ、うえっ……ふっふじたぁ」
雪は苦しいのか喉を押さえて立ち上がった、まだ呼吸も乱れていて、まともでないことは見ればわかった。
「ひどいよぉ……藤田君だけはぁ、友達だって思ってたのにぃ……なんでこんなにひどい事するんだよぉ」
「雪光目を覚ませ! なんであんなに思いあってたお前らが、こんな事になってるんだ、分かる様に話してくれ!」
しかし藤田の言葉は、もう雪には届かない。雪は二人を睨みつける。
「お前ら全員、私とは違う! 私と同じ奴なんていないんだぁ! みんな、みんな、私の敵だあああああ!」
親友である藤田からの一撃で、雪の闇は広がってしまったのだろう。
先ほどまで少なからず藤田への攻撃に躊躇いがあった雪だが、今はそれも無くなった。
腰のホスルターから短銃を引き抜くと、撃鉄を引いた。
「まずいぞ藤田ぁ!」
「分かっているバカ久!」
銃に対抗する手段などない、二人がただどうすればいいのか迷っていると、雪はその銃口を向けた――。
「お前ら全員、皆殺しだぁ!」
「待ってよぉぉ、龍久君!」
それは到底この場に合わない、何ともふざけた言葉だった。
それは到底この場に合わない、一人の男の言葉だった。
「きっ菊水さん!」
菊水が龍久の正面に向かう様に立って居る――つまりそれは、彼が雪の真後ろに居るという事だった。
「ひどいよぉ、僕を置いて行っちゃうなんてぇ……はぁはぁ、僕は走れないんだよぉ」
まともに歩けない足を引きずりながら、菊水は一歩また一歩とこちらへ近づいてくる。
「駄目だ、菊水さん逃げてくれぇ!」
菊水が雪に勝てるはずもない、むしろ今の雪なら何の関係もない彼を撃ち殺してしまうかもしれない。
「……へぇ?」
間の抜けた声を上げる菊水、雪は振り返って突然現れた謎の人間を睨みつける。菊水も目の前に居る雪の存在に気が付いて、彼女を見る。
「君は……」
雪を見ながら、菊水はそっと右手を伸ばした。
「――――っ!」
攻撃かと思った雪が急いで身構えるが、菊水の手に力などなく、ただ雪の白髪の頭にぽんと置かれた。
それは頭を撫でているとしか思えない、そんな光景にしか見えない。
その光景を見ているだけの龍久と藤田、更に撫でられている雪が何も言えない中――菊水が優しく雪に語りかけた――。
「何が怖いんだい?」
それは全く意味の分からない言葉、だが菊水はそれを真剣に雪に問うていた。
「あっ……」
雪は驚いて、目を見開いていた。
雪にも分からないのだ、この人の言って居る意味が、この男が何者なのかが――。
ただあれほど苦しかった胸が、軋んでいた頭が、嘘の様に安らいだ。
だがそれが怖かった、この人にこれ以上撫でられてはいけないと、そう強く思った。
「さっ触るなぁ!」
「えっ、うっうわああああっ」
雪は急いで菊水を突き飛ばした、彼に抵抗できるはずもなく地面に倒れた。
だがただ突き飛ばしただけで、そこに殺意は存在しなかった。ただ拒絶しただけだった。
「…………」
尻餅を着いている菊水を、雪は見下ろした。
そして仮面と村正を拾い上げると、雪は龍久達に背を向けて逃げ出した――。
「まってよぉ、君は何が怖いんだい!」
菊水が呼びかけるが、雪は振り返る事もせずただ逃げ出した。
そしてあっという間に、彼女の姿は見えなくなってしまった――。
「……ゆっ雪、なんで……」
殺そうと思えば簡単にできるはずだった。
菊水など丸腰の上に足が悪いのだ、雪なら殺すのに造作もないだろう。
だが龍久には、雪が菊水を恐れている様に思えた。まるで彼を怖がって逃げている様に思えて仕方がなかった。
「たっ龍久君、起こしてよぉぉ、僕は一人じゃ立てないんだよ」
菊水が手足をバタバタと振り回して、まるでひっくりかえた亀の様に助けを求めて来た。
龍久は彼に手を貸して立たせてやった、こんな貧弱な人を、なぜ雪が強く拒んだのか、いくら考えても分からなかった。
「……龍久」
振り返ると、藤田と父親がこちらに向かい合っていた。
そして藤田が真剣なまなざしと共に、こう言った。
「全て話してもらうぞ、雪光の事もお前の事も……」




