三九話 誠の武士
四月三日 下総・流山。
昨日流山に陣を構えた新選組は、再起を図り奔走していた。
特に土方など、幕府の『抗戦派』と接触をしようと躍起になっている。斎藤や監察の島田も、新たに入隊した隊士達に銃の撃ち方と西洋式の戦法を教えていて、新選組は甲府での敗走から徐々に立ち直ろうとしていた。
皆、現実を見つめ始めて来たのだが、ただ一人そうでない者もいた。
「……近藤さん、近藤さん」
縁側で空を見ていた近藤に、龍久は声を掛けた。
よほど呆けているのか、何度か呼んでようやく気がついた。
「ああ……龍久君か、何の用だ?」
「何って……近藤さんが俺を呼んだでしょう」
先ほど世話人経由で彼自身に呼ばれたのだが、どうやらその事さえも忘れた様だ。
近藤はすっかり魂の抜け殻の様になってしまったのだ。
「あっああ……そうだったな、実はトシを呼んで欲しいんだ」
「土方さんはまだ帰ってきませんよ……今日は遅くなるとか言ってましたから」
そう答えると、近藤は『そうか』と残念そうに俯くと黙ってしまった。
本当に京にいた頃の彼と同一人物とは到底思えない、此処まで落ち込んでしまうと哀れとしか言いようがなかった。
「あっ……近藤さん、お茶飲みませんか、あっつ~~い奴でも飲んで、一息つきましょう」
少しでも今の気分を吹き飛ばしたいと、あえて明るく言った。
そんな龍久の気遣いが近藤に伝わったのか、少しだけ笑って頷いてくれた。
「大変だ、近藤さん!」
土方が唐突に帰って来た。
突然の事で驚いたが何時も冷静な彼が、この時は酷く慌てている。
「どうしたんだトシ、今日は遅くなるんだろう、忘れ物か?」
「そんなの使いを出してくれれば俺が届けに行きましたよ、土方さん」
「違う! 薩長の奴らがこっちに向かってんだよ!」
この時、新選組が布陣した所のすぐ傍には、新政府軍の陣があった。
敵は新選組の事はしっかりと把握できておらず、何らかの集団がいる程度にしか考えていなかった様だが、ついに兵を向ける事になった様だ。
「奴ら、とうとうここに踏み込んでくる様だ、それも数が一〇〇・二〇〇いる大軍だ……桁が一つちげぇなら俺が斬り倒して来るんだが、こればっかりはどうしようもねぇ」
「二〇〇! そんなぁ此処には一〇人もいないんですよ!」
今日は皆演習で出払っていて、この屋敷も手薄だった。そんな中の新政府軍の襲来は絶体絶命と言った所だった。
「近藤さん、急いで逃げましょう!」
龍久はすぐ様近藤を逃がす為にあたふたと逃げる準備を始めるのだが、近藤はその場から動こうとはしなかった。
「近藤さん、何やってるんですか! 早く逃げないと囲まれますよ」
「近藤さん此処は俺がなんとかする、だから龍久と一緒に逃げてくれ!」
土方に促されても近藤は動こうとはしなかった。
それどころか近藤は深いため息をついて――、
「……いや、もう駄目だろうな」
そんな弱気な事を口にした。
一瞬耳が可笑しくなったのかと龍久は思った。だがそんな事は無い、なぜなら土方も同じ様に驚いているのだから。
「言ってんだよ近藤さん、新選組の頭のあんたが、そんな弱気でどうするんだよ、良いから早く逃げてくれ」
土方が近藤の背中を押して逃がそうとするのだが、近藤はピクリとも動かない。
「もうここも囲まれているだろう、きっと逃げきれないだろうな」
「だから、それは俺がなんとかする! だからあんたはとっととに逃げてくれよぉ!」
土方の必死の訴えに、近藤は口の端をほんの少しだけ上げて笑った。何もかも諦めている様な頬笑みだった。
「いやトシ、此処はお前が斎藤君達を呼んで来てくれ」
突然の近藤の提案に、土方は戸惑った。今までこうして近藤が自分から意見を言ってくる事がなかったからだ。
「皆で逃げると危険だし斎藤君達も心配だ、俺は龍久君と一緒に逃げるからトシは他の皆を連れて逃げる、そして斎藤君達と合流してから、そうだ……ここからしばらく行った寺の雑木林で落ち合おうじゃないか」
悪い話ではなかった。
斎藤達と合流出来れば新政府軍とそれなりに渡りあえるかも知れない、更に少人数の方が逃げやすく小回りも利くだろう。
「分かった、局長のあんたがそう言うならそうしよう」
「まずはトシ達が行くんだ、俺も後から龍久君と行こう」
二手に分かれる事になった、特に龍久は局長の護衛という任務もあるので責任重大だ。
土方と他の隊士達は、まだ新政府軍に囲まれていない裏口から出て行き、そのすぐ後に近藤と龍久が行く事になった。
「近藤さん、斎藤達なら任せてくれ、俺が責任を持って連れてくる、だからあんたは逃げる事だけに専念してくれ」
土方は近藤を少しでも安心させようとそう誓った。
そんな彼を見て近藤は、小さく微笑みながら言った。
「あぁ、斎藤君や皆を頼んだよ、トシ」
あえて念押しする様に、そう言った。
彼にそう頼まれて、土方はより使命感を持って裏口の小さな戸から出て行った。
久しぶりに近藤の穏やか表情を見れた気がする。何時も明後日の方を向いていて、何時もの彼の力強さという物が感じられず、不安だったのだがやはり危険が迫れば頼りになる局長へ戻ってくれるのだ。
(近藤さんを何としてでも守らないと……)
土方と同じくらいの使命感を抱きながら、龍久は刀を差し荷物を懐へと突っ込んだ。
そして戸口を開けて外を見渡す。
「……土方さんも行ったみたいですね、今なら敵もいません、近藤さん行きましょう!」
幸いな事に新政府軍はまだ屋敷の裏までは回ってきていない様だ、このままなら近藤と逃げる事が出来る、龍久の胸に希望が出て来た。
「近藤さん? どうしたんですか、早く行きましょう」
こんなに逃げるには絶好の機会だと言うのに、近藤は歩を進めようとはしなかった。何をやっているのだろうか、このままでは新政府軍に囲まれてしまう。
「近藤さん?」
一体どうしてしまったのだろうか、近藤は再び小さな頬笑みを浮かべると、龍久の両肩にぽんと手を置いた。
その意味を龍久が理解する前に――衝撃がやって来た。
近藤が龍久を突き飛ばしたのだ。
外に追い出された龍久、地面に体を擦りながら倒れた。
一体何がどうなったのかちっとも理解できない、だから近藤に聞こうと体を起こす――。
ガチャッという音と共に、戸に閂が掛けられた。
「なっ、近藤さん! 近藤さん!」
閉められた戸を叩きながら、龍久は必死に近藤の名を呼んだ。なぜ彼がこんな事をするのか、訳がちっとも分からない。不安と恐怖で胸の中がざわざわした。
「開けて下さい近藤さん! 開けて下さい、近藤さん、近藤さん!」
「…………龍久君、早く行くんだ」
戸の向こうからその様な近藤の声が聞こえた。耳が可笑しくなったのかと思ったが、幻聴ではなかった。
「何言っているんですか、土方さん達が待っているんですよ! 斎藤さん達を呼んで皆で逃げるんでしょう!」
「…………龍久君、今ここから逃げ出しても敵はすぐに俺達を見つけるだろう、そして全員捕まって終わりだ……でも、此処に一人残って時間を稼げば、他の皆は助かるだろう」
そこまで聞いて、龍久の馬鹿な頭でもようやく理解出来た。
近藤は自分一人が新政府軍につかまるつもりなのだ、そんな事をすればどうなるか、この馬鹿な頭でも理解できる。
「そんな事したら殺されるに決まってる! あいつらが敵を生かすなんてありあえないでしょう!」
まして数々の攘夷志士を斬った新選組の人間を生かしておくはずがない、きっと殺されるに決まっている。
「龍久君、俺はずっと武士になる事だけを夢見て生きて来たんだ……、旗本の君には分からないかもしれないだろうが、俺の一番大切な夢だったんだ、だが……もう終ってしまったんだろうなぁ、何処で道を間違えたのか分からない、もしかしたら農民が武士になるなんて、始めから間違いだったのかも知れないな……なりたいからなる、という時代じゃない、諦めずに望み続ければ叶うと言う訳ではないんだなぁ……」
そう哀しげに言う近藤の言葉が、龍久の胸に突き刺さる様だった。
長年の夢が潰えて、近藤は生きる希望を失ってしまったのだろう、だからこんな事をしているのだ、彼は自暴自棄になっているのだ。
「だからって、こんな風に幕引きにするのは間違ってますよ! 夢ならまた探せばいいじゃないですか、近藤さんならすぐに見つけられますよ!」
何の根拠も無い、紙きれの様に薄っぺらい言葉だった。
こんな言葉では、彼を説得する事なんてできないのに、龍久の口からはもっと重みのある言葉など出てこなかった。
「…………新しい夢を見るには、俺は少し歳をとりすぎた、それに俺の武士に成りたいと言う夢は、何物にも代えがたい物だったんだ、だから他の夢を追いかけるのはもう出来ないんだ………だから俺の夢はここで終りだ、此処が俺の終着点だ」
龍久は戸口にしがみつく様にしながら震えていた。
こんな時、説得するだけの言葉を持ち合わせていない自分への怒りと、これほどまでに頑張った人が報われないという哀しみが混ざり合って、龍久は肩を震わせていた。
「龍久君、俺だってトシほどじゃないが格好良い所を見せたいんだ、だから俺に、新選組局長としての見せ場をくれ……、皆の命を救えるなんてとても良い事じゃないか」
近藤の優しい言葉が今はとても哀しかった。
だが彼が今自暴自棄などではなく、純粋に隊士を救いたいと思ってる事は伝わって来た。覚悟を持って、近藤は答えを出したのだろう。
「後世の人間が俺達の事を何と言うのか分からない、もしかしたら俺なんて名前さえ出てこないかもしれない……それでも、俺は何の後悔も無いさ……例え夢が叶わなくても、人に後ろ指を指されても――」
「そんな事無いです!」
龍久はつい感情的になって大きな声で叫んでしまった。
涙が零れるのを必死でこらえながら、龍久は戸口の向こう側へと叫んだ。
「近藤さんは、誰が何と言おうと『誠の武士』です! 他の人間がなんて言っても、俺が絶対に言い返します、近藤さんは誰よりも武士らしい武士だって!」
龍久の知っている旗本の中に、これほど武士道を突き進んでいる人間などいなかった。
彼以上に武士らしい男など、他に居ないだろう。
「……ありがとう龍久君、君のその言葉だけで、俺は十分救われたよ」
「近藤さん! 待って下さい、近藤さんが居なくなったら土方さんはどうするんですか! 新選組だって、近藤さんが必要なんですよ!」
龍久の必死の訴えに、思う所があったのか、近藤はしばらく黙った。
そして胸に溜め込んだ息を全て出すと、龍久に向かって言った。
「君に、頼みがあるんだ……」
流山のとある場所。
斎藤と合流した土方は、近藤と龍久の到着を待っていた。
新政府軍を警戒し、隊士のほとんどを雑木林の中に隠して、今か今かと待っていた。
「遅い、もうついてもいい頃じゃねぇか……」
距離の事を考えれば、二人の方が先についていても可笑しくないので、土方は気になって、今にも探しに行ってしまいそうだった。
斎藤が止めに入ろうとした時、木の陰からこちらを覗く幽霊と目が合った。
「――――っ! あっ……たったっ龍、久!」
まるで幽霊の様に影を背負った龍久だった。今にも人を祟りそうな雰囲気を醸し出していた。
「龍久、おめぇおせぇじゃねぇか……まあいい、近藤さんはどうしたんだ」
「…………」
龍久は何も答えなかったそんな彼を見て、土方は徐々にそれを理解した。
そして一目散に走り出した。
「待って下さい、土方さん!」
近藤の元へ行こうとする土方の前に、龍久が両の腕をいっぱいに広げて立ち塞がった。
そんな彼を見て、土方は睨み殺す様な鋭い目つきを向ける。
「なんのつもりだ龍久! まさか通さねぇとか言うんじゃねぇだろうなぁ」
「………はい」
龍久が弱弱しく答えると、土方は炎の様に燃え上がる怒りに任せて、目の前に立ち塞がる龍久の胸倉を掴み上げた。
「副長!」
斎藤が土方を止めようとするが、今の土方を止める事は誰であろうと出来ないだろう。
「てめぇだけのこの逃げてきやがって、そんな腰抜けが邪魔すんじゃねぇ! 副長命令だ、ここをどけぇ」
「…………ここは、通せません」
龍久の返事を聞いて、土方の怒りは爆発した。
土方は、龍久の頬を思い切り殴った。・
あまりの衝撃に吹っ飛び、地面に倒れる龍久。
局長を置いて逃亡するだけではなく、副長である土方に対しての態度。
特に前者に対して、土方が怒らないはずがなかった。
「近藤さんを置いて逃げやがって、そんな腰抜け野郎なんざぶち殺してやる!」
兼定を引き抜き、その切っ先を龍久に向けた。
「副長、冷静になってください! ここで龍久を殺してどうするんですか!」
斎藤が止めに入るが、土方は聞く耳を持たず、いつ龍久を切り殺しても可笑しくない殺気を放っていた。
龍久は口元を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……例え副長命令でも、俺は聞けません……土方さんを行かせるなって俺は命令されてるんですから」
「命令……だと……」
驚き戸惑う土方に向かって、龍久は真っ直ぐに言い放った――。
「これは、近藤さんの……局長の命令です!」
体から力が抜けていくのを、土方は感じた。
近藤の命令、局長の命令。
その言葉は、まるで頭を殴る様な威力を持っていた。
「近藤さんは……自分が投降して時間を稼ぐからその間に逃げろと、そして俺に土方さんを守ってくれって……そういって自分から薩長の奴らの所へ……」
龍久の言葉を聞いて、土方の頭の中に近藤の言葉が甦って来た。
『斎藤君や皆を頼んだよ、トシ』
あれは、こういう事だったのだ。
あれは、新選組を頼むという事だったのだ。
「……ふざけんなよ近藤さん、俺は、俺はぁあんたと上り詰めたかったんだ、田舎もんの百姓が、一体どこまで上へ行けるか……」
なぜあの時不思議に思わなかったのだろうか、今思えば近藤が自分からあんなことを言い出すのは可笑しかった。
今思えば、あの時の近藤の表情はいつもとは全く違っていた。
なぜ気が付けなかったのか、後悔ばかりが湧き上がってきて、それが重くのしかかった。
「俺は、俺はあの人を武士にしたかった……他の誰よりも武士道を極めようとしているあの人と、俺は上へ行きたかったんだ……それなのに、それなのに…………あんたがいねぇんじゃ、意味ねぇじゃねぇかよ…………近藤さん」
土方は空を見上げた、共に高みへと上り詰めようとした男を見る様で、その姿はとても哀しげだった。
龍久は彼の肩が震えているのを見て、涙こそ見えないが大粒の涙を流しながら泣いているのだろう。
そう思うと、龍久の目からほろりと一滴の涙が零れ落ちた。
輪郭をそっとなぞる様に、一本の筋を作って流れ落ちていった。
この日、新選組局長近藤勇は、大久保大和という幕府から賜った変名で、新政府軍へと投降した。
その後、近藤の正体がばれて、身柄は転々と移されてゆき、新選組はおろか、幕府でさえもその所在は分からなくなってしまった。
そして四月一二日、新選組は幕府軍へと合流した。
***
とある森の中の、ある屋敷。
揺らめく蝋燭の明かりを挟んで、二人の人間が向かい合っていた。
片方は長い黒髪を垂らし片目を隠しており、紫色の水干を着ている男である。
もう片方は青い着物に白い羽織を着た、長い黒髪の人で歳は二〇後半か三〇ぐらいの人であろう。
「いっ嫌だ、嫌だ!」
羽織を着た方の人が酷く拒絶して、畳を這いずって水干の男へと縋り付いた。
「お願いだよ、それだけは嫌だよぉ、止めてお願いだから……」
懇願するが、水干の男はただその光景を見下ろすばかりであった。
そして気味の悪い笑みを浮かべて、それを突き飛ばした。
「嫌だ、絶対に嫌だあぁ!」
羽織の人はわんわんと泣くのだが、水干の男はそれを見下ろすだけであった。




