二二話 大政奉還
五月 長崎。
その知らせが届いたのは、突然の事だった。
『亀山社中』は、『海援隊』と名前を変えてしばらく経った。この四月に合った『海援隊』の運用船いろは丸は、紀州藩の船と衝突して沈んでしまった。
大切な船が沈没してしまい『海援隊』は紀州藩に対して賠償請求をしている真っ最中の事だった。
久しぶりに会った龍馬の口からその事実を知った。
「……高杉さんが、死んだ?」
あの下関で会った高杉が、自分に銃を送ってくれた高杉が、あのとても清々しい人が、死んでしまった――。
「労咳じゃき、わしにもずっと秘密にしとった……知らせを聞いてわしも驚いたぜよ」
雪は知っていたのだ彼が労咳であった事を、でもそれでも龍馬が変える世界を共に見ようと約束していた。それなのに、死んでしまった。
「こじゃんと血を吐いて、この辞世の句を残して死んでしもうた……」
雪は一枚の紙を受け取った。
そこには高杉の直筆らしい文字で、力強く描かれた言葉があった。
『おもしろきこともなき世をおもしろく』
雪はその紙を胸にあてがえた。実にあの人らしい句だった。
両の眼から涙が流れていた、雪はそれを拭う事も出来ずにただ握り締め続ける事しか出来なかった。
「雪……」
龍馬はそんな雪の頭を優しく撫でてやるだけだった――。
雪は長崎の海を見つめる。
すぐにでも下関へ行って、彼の墓に花を供えたかったがいろは丸を失ってしまった故それも出来ずにいた。だから代わりにこの海に花を手向けた。
(高杉さん、貴方が逝ってしまったなら、私だけでも龍馬が変えた世界をこの目にしっかりとおさめようと思う……それが私に出来る貴方への唯一の事だから――)
花は波に呑まれて何時しか沖の方へ流されて見えなくなった。
このまま高杉の元まで流れておくれと願いながった。
「龍馬……これからどうするの?」
「そおじゃのぉ、やりたい事ならある……わしゃ『蝦夷』に行って開拓をしようとおもうちょる」
雪も初めて聞く事だった。『蝦夷』この国の北端にある国で、寒さが厳しく今だ人の手が入っていないらしい。
「今から行くの? 『海援隊』はどうするの?」
「まあ待てまだ先の話じゃ、やりたい事はそれじゃがやる事は別にある、まずはそっちをやってからじゃ、雪」
「やる事って何? 龍馬」
雪は眼を丸くして龍馬の答えを待った。龍馬はそんな雪の顔を見て頬笑みながら答えた。
「それはのぉ――――」
***
一〇月一四日。
この日、日の本をひっくり返す様な事件が起こった。
『大政奉還』。
三〇〇年の歴史を誇った徳川幕府がこの日、政権を朝廷、つまり天皇に返したのだ。
これが何を意味するかというと、長年政権を牛耳り日本を衰退させた徳川家が、その政治主導権を天皇に返すと言う事、徳川家が独断で政治を行えなくなると言う事だ。
今の今までその罪で討幕を試みようとしていた長州や薩摩にとって、これはあまりにも予期せぬ事態となってしまった。
しかも、それを有ろう事かあの坂本龍馬がやった物だから、両藩の困惑は計り知れない。
そして困惑したのは薩長だけではない、当然幕府側も混乱していた。
「大政奉還……どうなるんだ、幕府は」
ぼそりと龍久は呟いた。
大政奉還がなされてもう一月ほど経ったであろうか、いまだにこの状況を上手く呑み込めずにいた。
「なんだ龍久でけぇため息なんてついて……」
土方がやって来て、龍久にそう声を掛けた。この六月に西本願寺の屯所から不動堂村に屯所を移転した。
なんだかまだ勝手が良く分からず、どうやら彼の部屋の近くだったらしい。
「いえ、これから幕府はどうなるんだろうって考えたら、なんだか不安で……」
「どうにもならねぇだろう、ただなる様になるだけ……だろうな」
土方は頭が良い。龍久の様な学の無い男とは違い、何時だって冷静に物事を見る事が出来る人だ。だから政治などにも詳しいのだろうと思ったが、そうでもなかった様だ。
「今更政権を朝廷に返して内乱を防いだつもりだろうが、どうせ新しい政権に幕府の上役共も参加して良い様にするつもりだろうさ」
「それじゃあ、何も変わらないって事ですか……」
ならなぜわざわざ大政奉還なんてしたのだろうか、ますます分からなくなった。
「多少は上がごたごたするだろうが、俺達がする事は変わらねぇさ……」
「土方さんは、何をするんですか?」
興味本位で聞いてみたのだが、土方は珍しく少し照れくさそうに答えてくれた。
「俺は近藤さんを上に行かせてやりてぇ、俺達を田舎侍やら壬生浪と言って馬鹿にした連中を見返してやりてぇんだ、だからあの人を偉くするのが俺の目標だ」
鬼の副長の意外な一面を垣間見たきがした。
近藤はいい人だ、面倒見も良いしこの新選組が居心地良いのはきっと彼のお陰だろう。
「俺達がやる事は……何も変わらないんですよね」
それを聞いて安心できた。変わらない事があると思うと、それが軸となって自分がぶれていないと感じられるからだ。
「龍久、後で暇があったら薬を総司の所に届けておいてくれ、あいつ俺が持って行くとのまねぇんだ」
「あははっ、沖田さんと土方さん本当に仲がいいですよね」
「馬鹿言うんじゃねぇ」
そう言った土方の顔が穏やかだったのを、龍久は見逃さなかった。
「よし、俺も仕事に戻るか」
そう気合いを入れて歩き出した時だった――。
「こんにちわんこそば~~」
突然床下から葛葉が現われた。
今まででもっとも衝撃的な登場で、龍久は尻もちをついた。
「いやもう一月以来会ってなかったから一〇ヶ月ぶりくらい? 浮気してなかったか?」
「おっおまなんでそんな所から出てくるんだよ! あと浮気ってなんだよ!」
「だってお前に声かけようとしたら、鬼が来てさ、しぶしぶ床下に隠れ潜んでました」
「隠れ潜むな! 一〇月もどこに行ってたんだよ……心配してたんだぞ」
「珍しくデレデレだなぁ、なんだ藤堂がいなくなってさみしかったのか? おーよしよし葛葉君が慰めてあげよう」
少し素直になった途端につけあがる葛葉の鳩尾に、思い切り肘鉄を入れる。
「たっ龍久君随分アグレッシブになったじゃないの……いててっなんでそれが恋愛に向かないのかしら」
「どうでもいいからとっとと要件を言えよ、俺だって仕事があるんだぜ」
流石に一〇月ぶりの葛葉との再会といえども、今は職務があるので手短に済ませるつもりだった。
「ああ実は明日の夜一緒に出かけようと思ってな」
その言葉は何処かで聞いた事がある。三条大橋の時も島原の時も葛葉はこうやって自分を誘って来た。流石に三度目となると、龍久でも気がついた。
「……雪がいるのか、この京に」
「流石に気がつくか……」
葛葉は何時になく真剣な表情で龍久に向かい合った。その眼差しに龍久は圧倒されそうになった。
「明日の夜、近江屋に行くぞ……そこにいる」
雪がいる。雪が京都にいる。それを聞いただけですぐにでも探しに行きたかった。
「今までとは違う、今度はちゃんと準備も出来るんだ、上手くやれよ」
ちゃんと話をしろと言っているらしい。
だがその口ぶりからすると、葛葉自分と雪がどの様な関係だったかを全て知っている様な感じだ、だが彼にそれを話した覚えはない。
それに過去の二回もそうだが、どうして葛葉は雪が現われる場所が分かるのだろうか、龍久の理解の範疇を超える事が多すぎて頭がこんがらがって来た。
「それで行くのか?」
葛葉がそう尋ねて来た、答えなんて分かり切っているのに――。




