一六話 二人目の『龍』
方言って難しい。
元治二年(一八六五年) 五月。
雪が長崎にやって来て、もう半年が過ぎようとしていた。
長崎の生活にもだいぶ慣れ、ボードウィン医師の診察を受ける為、住まいと精得館を行き来するだけの毎日が過ぎて行った。
昨年は『禁門の変』という『尊王攘夷』の過激派達が起こした内乱が起こり、京都は大変だったらしい。
それに最近アルの仕事仲間の人達が、『新選組』という言葉を口にしているのを良く聞くが、一体何なのだろうと何時も不思議に思っていた。
長崎の熱い日差しが肌には辛かった。どうも肌が白くなってからという物日の光に弱くなってしまった。ほんのすこし日に当たっていただけのつもりが、すぐに焼けてしまう。まるで太陽に拒まれている気分だった。
(少し休んで行こう、このままだと干上がってしまう)
ちょうど道の横に大きな楠があったので、その下で休む事にした。とても日差しが強くそよ風が吹いただけで心地よかった。
しかしそんな雪に思わぬ邪魔が入った。楠から一通の書簡が降って来たのだ。気になって拾い上げてみる。
(……亀山社中? 何だろうこれ)
日本語で書かれているので日本人の落し物かと思ったのだが、空から降ってくるのは可笑しい、一体どうしたものかと考えていると。
「すっ、すまんが、それをこっちに渡してくれないじゃろうかぁ」
酷く震えた男の声が、楠からした。ふと上を見ていると、お世辞にも太いとは言い難い枝に、男がしがみついていた。二〇代もそこそこで木のぼりなどという歳ではない。
「にっ日本語分からんか? えっとえくすきゅうずみぃ?」
どうやら自分を異人だと思っているらしい。この書簡は彼が落とした物の様でとりあえず彼に向けて腕を伸ばした。
「おっおうすまな――うおおおっ」
男は片手を離した為、体制を崩してそのまま落っこちて来た。
雪は持ち前の動体視力でそれを後ろに下がる事で回避したが、男は大きな音を立てて落下した。
放っておく訳にも行かずに、雪は男に手を貸した。
「おおすまんぜよな、そいつが風にさらわれてしもうてな、取ろうとおもうて木に上ったのじゃが、降りれんようになってしもうてな、あはははって、言葉分からんか」
「……大丈夫です、私は日本人だから」
日本語をしゃべると酷く驚いた様だが、すぐに自分の身なりを見て楽しそうに笑った。
「そりゃ愉快じゃのう、わしゃお前さんの様な日本人は初めて見たぜよ」
「……私も貴方の様な日本人を初めて見ました」
そう言い返すと男は再び笑い始めた。その笑いは何だか清々しくてつい雪もつられてくすりと微笑んだ。
「それぜよ、人間『すまいる』が大切じゃ」
この不思議な男、訛りから察するに土佐の人間らしい。着ているものそれなりなのだが、身長はかなり高くアルバートより少し低い位だった。
「せっかくだ礼がしたい、わしゃそこの店に用があるんじゃ、何かおごるぜよ」
別にそんな事してもらわなくて結構だったのだが、この男随分乱暴で雪の手を掴むとそのまま引っ張って行った。
(まあ村正もあるから大丈夫だろう……)
いざとなれば逃げられる自信もあった。それに店に入れば少しは涼しくなるかも知れないので抗う事はせずにそのまま付いて行った。
「この店ぜよ、おまん『かふえい』を呑んだ事はあるか? 美味いぞ」
首を振ると楽しそうに男は店の中に入って行った。
雪もその後に続いた。最近はやりの西洋の飲み物や食べ物を出す店だ、入るのは初めてだったが、中は洋風と唐風と和風という決して交わる事無い三つの文化が合わさった不思議な空間だった。
『ユキ! なんで貴方が此処に』
驚く事に店にはアルがいた、席について複数の人間と話をしていたらしい。
きっと仕事の話をしていたのだろうが、席を立ちわざわざ傍までやって来た。
「なんだ、おまんアルバートさんの知り合いだったのか?」
頷いて、先ほどこの男に合った旨をアルに説明した。そんな偶然に驚いている様だったが、すぐに自分が座っていた席の隣に椅子を持って来させて座る様に促した。
『ユキ、彼は「亀山社中」という貿易の会社の社長です、彼は僕の取引相手なんですよ』
『アルの取引相手』
それはつまり武器を買っていると言う事なのだろう。あんな所にいた男が社長とは、以外を通り越して胡散臭い。
「わしゃ坂本龍馬じゃ、今は薩摩と長州相手に貿易を斡旋してるんじゃ」
薩摩と長州、どちらも仲が悪い藩同士だ。
長州と言えば朝敵だし、薩摩は幕府側についてその長州を叩いたと聞いている。そんな国に貿易の斡旋をしているなんて、やはり少し変わっている人らしい。
「まだまだこれからじゃが、何時かおおきな事をなすつもりぜよ」
大笑いしている龍馬の元に、西洋式の器に入った飲み物がやって来た。一見茶の様にも見えるが、匂いはなんだか焦げ臭くて色も黒い。見た事がない物だった。
『ユキ、これが「コーヒー」だよ』
話には聞いていた。たしか豆を炒った物を粉砕してお湯で抽出した物だと本で読んだ。
「なかなか癖になる味ぜよ」
そう龍馬とアルが美味しそうに口を付けている。雪は目の前にあるコーヒーをしばらく見つめると勇気を出してそれに口を付けた。
「…………苦い」
まるで気つけ薬の様な苦さだった。それに何処か焦げ臭いにおいが口内に広がってとてもじゃないが飲めたものではなかった。
一緒に出された水を飲んでどうにか苦みを和らげると、龍馬とアルは笑っていた。
「ははっ、『かふえい』の味は子供には早かったかのお」
『家で呑んでいるのは紅茶だからね、ユキには合わなかったみたいだね』
余裕で呑む二人に無性に腹が立って頬を膨らませていると二人は話し始めた。
「例ノ件、数揃イマシタ、スグニ渡セルトグラバー氏言ッテマス」
「そりゃよかったぜよ、後は薩摩経由で長州に売るだけぜよ」
グラバー、それはアルの上司の名前だ。アルの上司、アルの仕事は商人だが扱っているのは武器、つまり例の件というのは――。
「……銃」
思わずつぶやいた言葉に二人の顔色が変わった。
やはり銃を取引しているらしい、それも薩摩経由で長州という事は幕府の敵である長州にアルは西洋の武器を売っている事になる。
それを幕府側の藩である薩摩が手引きしていると言う事は、これは反乱行為である。
『ゆっユキ、滅多な事を言うもんじゃ……』
「アルバートさん無理じゃ、この子はわしがおもっとったよりずっと頭がええ子だ」
坂本はそう言って微笑むと、再び喋りはじめた。
「わしはこん国を変えてやろうとおもっとる、じゃからまず目的が同じ薩摩と長州をくっつける事にしたんじゃ、それで貿易を始めたんじゃ」
「……この国を変える?」
尊王攘夷の事を言っているのだろうか、薩摩と長州が互いに攘夷を掲げているのは知っている。だがこの二つの藩は仲が悪く戦争だってしていた。それを結びつけ様など雪に理解できなかった。
「そうじゃみんなが仲良く暮らせるようになったら幸せじゃろ?」
そう言って笑う龍馬だったが、雪にはその笑いが勘に触った。
だからつい感情的になってしまって、思い切り机を叩いた。
「……皆が仲良く? それは男だけの話だろう」
いつだって幸福は男ばかりで、女には一欠けらも廻って来ない。だから皆が仲良くなどという言葉等聞きたくなかった。
「私の友達は女だからという理由で殺された、だから私は殺した男を殺してやった……そして父親に斬られて川に投げ捨てられた……そんなこの国でも皆が仲良く暮らせると、貴方は思っているのですか」
仮面から見える目は真剣そのものだった。龍馬もそれは分かっているはずなのに、堂々と言いきって見せた。
「もちろんぜよ」
その言葉は何の迷いも無かったが、何の説得力も無かった。
だから雪は感情的な行動に出てしまった。
龍馬に向けて村正を突きだした。
『ユッユキ! 何をするんだ!』
『アルは黙って! 私はこの男の真意を確かめなければ気が済まない……』
皆仲良くなどという馬鹿げた幻想を言うこの男が、雪はどうしても許せなかった。この国が変わる訳がない、たった一人の男によって変えられる訳が無かった。
「坂本龍馬、貴方は本当にこの国を変える事が出来るのか! 差別の無い世界が造れると言うのか! 嘘偽りを言えば……斬る」
雪は本気だった。もう自分は何時死んだって良いと思っていた。
お時が死んだあの日から、自分の命はどうなったって良いと思っていたのだから。龍馬は少し目を瞑り考えるとゆっくり目を開けた。
「無理じゃのう」
そう短く答えた。そうだ、当たり前なのだ始めからこうやって正直に言っていれば良いのだ、村正を鞘におさめようとした時、龍馬が再び口を開いた。
「わし一人じゃ無理じゃ、見ての通りわしゃあただの男じゃからのお、わし一人でこん国を変えるなんて事出来るはずもないぜよ」
「じゃあ……どうするって言うんだ」
雪がそう尋ねると、龍馬は真剣な表情で言った。
「雪、わしと一緒にこん国を変えんか?」
それは思っても見なかった言葉だった。自分が、この日本という国を変える。
今まで考えた事無い事だった。もし本当にこの国を変える事が出来るならば、もし差別をなくすことが出来るのだとしたら――。
(男と同じ様に学べる国、男と同じ様に職に付ける国、男と同じ様に暮らせる国)
どれも雪が夢にまでみた世界だった。
男と同じ様に生きたくて、雪は男装までしたのだ。もしもそんな事をしなくてもいい国があるならそう思った事があった。
そしてそれを自分の手で作り上げる。女性差別のない国を造る。
「もう、お時の様な死に方をする女がいなくなるの……?」
雪は仮面を外した、その両の目から涙があふれかえっていたからだ。
右目の傷をなぞる様に涙がこぼれおちて行った。
『ユッユキ……』
アルは気がついた。雪の髪にほんの少しだが色が戻ってきている事に、まるで龍馬の言葉に呼応する様にほんの少しだけ黒くなっていた。
「ああ、おまんとわしの二人だったら、どんな国でもつくれるぜよ」
龍馬はまたあの笑顔で言った。
今度はもう腹立たしくない、むしろその笑顔がとても清々しく心地よく思えた。
雪は村正を納めると涙を拭った。そして龍馬に向けて頭を下げた。
「坂本龍馬様、先ほどの非礼どうかお許し下さい。私の名は雪、どうかこの私も貴方様と志を共にさせていただきたく候」
雪の言葉を聞いて龍馬は深く頷いて、雪の頭を撫でた。
それはどういう訳か嫌な気分にはならなかった。
(お時、私はこの国をもっとよくしていくよ、この国は変わらなくちゃいけないんだ)




