第4章:ルナ・オータムは嵐を運んでくる(4)
これまでずっと誰もいなかった隣に人がいる。妙に落ち着かなくなって、千春はきょろきょろと教室中を見回したり、膝の上で手を握ったり開いたりを無意味に繰り返す。
「あ、あの、周防さん」
いたたまれなくなった末に、室淵が話しているにもかかわらず、小声で紅葉に呼びかける。
「紅葉でいい」
すげなく流されるかと思ったが、意外にも紅葉は、前を向いたままだが、くちびるだけ動かしてこたえてくれた。
しかし、本人がそう言ったとはいえ、初対面の異性をいきなり名前呼びとは、踏み込みすぎではないだろうか。戸惑いながらも、「じゃ、じゃあ、紅葉さん」と呼びかけ直せば。
「『さん』もいらない。気持ち悪い」
ばっさりと切られた。今がホームルーム中でなければ、千春はすっとんきょうな声をあげて、椅子を蹴り立ち上がっていただろう。
今までの人生で、他人を呼び捨てにしたのは、幼なじみの克己だけだ。出会って数分の少女を『さん』抜きで呼ぶというのは、千春には到底あり得ない話である。
しかし。
「『紅葉』って呼ばないなら、無視する」
紅葉はまたくちびるだけでそっけなく言い切り、口を閉ざす。
これは言うことを聞かねば、穏便な対人関係を築けなさそうだ。千春は一度深呼吸し、どきどきする心臓にしずまれと念じつつ、
「じゃあ、紅葉」
と、ややうわずった声を出しながら、一時間目の数学の教科書を取り出した。
「教科書、まだ持ってないでしょ? 一緒に見よう」
だが、それに対する紅葉の応えは。
「いらない」
やはり前を向いたままの、そっけない一言だった。
余計なお世話だったか。少ししゅんとしながら教科書を引っ込める千春だったが。
「ごめん。そうじゃないの」
紅葉の表情がはじめて変わった。ほんの、ほんの少し、眉根を寄せただけの変化だが。
「あたし、見聞きしたものは全部おぼえてて、忘れられないから」
千春は目をみはって紅葉の顔を見つめてしまう。絶対的な記憶力を持つ人の話は聞いたことがある。しかし、実際にそんな人を目の前にするのは初めてで、どう反応していいかわからない。呆然と紅葉の顔を見つめているうちに、ホームルームは終わっていた。




