91:奇妙な巡り合わせ
夜も更け、誰もが寝静まっているであろう時間帯に、アクウィナスは一人、テラスでワインを片手に満天に輝く星空を見上げていた。
そしてクイッとグラスを傾け喉を潤した後、静かに目を閉じる。
「……まさかお前がこの国へ戻って来るとはな――」
独り言のように、そのままの状態で言葉を出した。
すると背後から小さな影が現れ、月明かりに照らされてその表情が明らかになっていく。
アクウィナスはゆっくりと目を開け、その人物の正体を完全に把握しているように口を開く。
「――リリィン?」
その影の正体は、日色の旅仲間の一人――リリィンだった。
「ふん、戻りたくて戻って来たわけではないわ」
アクウィナスは彼女に振り向く。不機嫌そうに口を尖らせながら喋る姿は子供にしか見えない。
「フッ、しかし驚いたぞ。あのような者とともにいるとは。どういう風の吹き回しだ?」
「それが貴様に関係あるのか?」
「随分な言い草だな、兄に向って」
「ふざけるな。貴様を兄などと思ってはいないわ」
「フッ……相変わらずだな。……む?」
アクウィナスが何かに気づいたようにリリィンの背後に視線を向ける。だが彼女はすでにその気配に気づいていたかのように肩を竦める。
「出て来てもいいぞ」
彼女の言葉に従って影から現れたのはシウバだった。
「……優秀な護衛役もいるみたいだな」
シウバを見てアクウィナスは感心する。
「ふん、ただ単にコイツが心配性なだけだ」
シウバは口を挟まず、普段とは違って真面目な表情でリリィンの傍に控えている。どうやら彼はリリィンが部屋から出て行く気配を察知して、護衛のために控えていたようだ。
「……あれほどこの国を嫌っていたお前が、自らこうして足を運ぶとは……。それだけの器があるということか……ヒイロ・オカムラには」
「さあな、それは貴様が判断すればいいだろう」
含み笑いを浮かべて明確な答えを決して話さずにいる。そんな彼女の目をジッと見つめ、フッと頬を緩める。
「……あの者も厄介な奴に好かれたものだな」
「すっ、すすすすす好かれたとは何事だぁっ! な、ななな何でこのワタシが、あああんな奴のことを好きにならねばならんのだ! 有り得ん! 有り得んぞ! 今すぐ訂正することを要求する!」
アクウィナスの物言いに対し、顔を真っ赤にして指を勢いよく突きつけながら怒鳴るが、アクウィナスはその姿を見て「ほう」と意外そうな表情を浮かべる。
「これは……少しからかい半分で言ってみたのだが、どうやら満更でも無いらしいな」
「そ、そそそその納得したみたいな顔を止めろぉ! いいか、貴様の考えていることはハッキリ言って不毛であり、微塵も掠りはしていない想像だ!」
息を乱しながら言う彼女を見て、今の反応だけで十分だとでも言わんばかりに肩を竦める。だがこれ以上言っても無駄だと分かり話を変える。
「ところで、まだ聞いて無かったな」
「はあはあはあ……あ? 何がだ?」
「この国へ来た目的だ」
「……ふん、安心しろ。別にこの国で何かするつもりなど無い。ただこの近くに用事があっただけだワタシはな」
「……お前は?」
「ああ、用があるのはむしろヒイロの方だ」
リリィンは日色が《フォルトゥナ大図書館》の《深度5》の領域に収められてある書物を読みたいと思っていることを話した。
「そうか。陛下が言っていたことは本当だったようだな」
アクウィナスはイヴェアムに、図書館への入館許可証を発行することを対価に、日色に戦争参加を望んだことを聞いていた。
アクウィナスにしてみれば、本如きで命を懸けるなど偽りの情報かもしれないと思っていたが、まさか本当に本を対価に戦争に参加しているとは驚きだった。
「その許可証については正しく発行されるとのことだから安心するといい」
「当然だろ。それが対価なのだから」
まるで日色みたいなことを言う彼女に対して思わず頬を緩める。
「そうだな。ではしばらくはこの国にいるということか?」
「そうなるだろうな」
少なくとも日色が図書館の本に飽きたと言うまではこの国から出て行くことはできない。
「そうか……」
何やら真剣な表情で思案するアクウィナスを見て、リリィンは鋭い視線をぶつける。
「おい、何を考えているか知らんが、もしヒイロをこの国に縛るつもりなら止めておけ」
「……ほう、何故だ?」
「アイツは何かに縛られるのは好かないタイプだし、この国如きにアイツを制御できる器があるとも思えん」
「魔界で唯一の大国が如き……か」
「仮に無理矢理難癖をつけて縛ろうとしたら、逆に今度はこの国がアイツの敵となる」
「…………」
「それにだ……」
「……?」
「もしそんなことをするようなら……」
リリィンが赤い瞳をさらに怪しく光らせる。
「このワタシも穏やかではいられんぞ?」
アクウィナスは、明らかに殺気が含まれている視線に対し、微かに目を見開く。そしてその背後に控えているシウバからも同等の敵意が向けられていることにも気づく。
「…………本当に面白い人物だなヒイロは」
リリィンが他人を、しかも人間に対しそこまで執着するとは意外だった。また、彼女が部下でない他人を擁護するなど、自らの経験上無かったことだった。
今アクウィナスは、彼女の変わり様に顔には出さないが相当驚愕している。そこまで彼女を変える日色という存在に増々興味が湧いてきた。
無論今回の戦争で、日色には謎が山ほどあり、その人格も含めて興味の対象ではあった。
あのイヴェアムが、日色に対して友人以上の好感を持っていることも気づいていた。
会った回数もたかが知れているというのに、自分も含めてこうまで人を惹き付ける日色に、興味が湧くのも当然としか言えない。
今日謁見に来た日色の仲間たちのことを考えてもよく分かる。マリオネの殺気に怯えもせず、まだ小さいはずのニッキが日色の前に出て庇おうとした。
ミカヅキは日色の背中に隠れていたようだが、それだけ日色の傍に居れば安全だと確信しているようだった。そしてこの二人。
(そう言えば、あのマリオネもいつの間にかヒイロと打ち解けていたように見えた)
どうやら日色という存在は、そこにいるだけで人を惹きつける何かがあるのかもしれないとアクウィナスは感じ始めている。
それに彼は人間でありながら、傍には『獣人族』、『魔人族』、そしてそのハーフらしき者たちがいた。
(この護衛も、何かしらワケありそうな存在のようだしな)
シウバが『精霊』だとは気づいていないが、普通の存在ではないということを把握している。
(これだけの他種族を傍に置く人物か…………本当に面白い存在だな)
そう思っていると、いまだ睨みつけているリリィンと目を合わせる。
「リリィン、一つ聞いておこう」
「…………何だ?」
「お前はまだ……諦めていないのだな?」
すると彼女は腕を組みながらふんぞり返るようにして一言発する。
「当然だ!」
「…………そうか」
それだけ言うと、アクウィナスはもうそれ以上喋ることは無かった。その表情は見る人によれば、どことなく納得気でもあり、哀愁のようなものも含まれているようにも見えただろう。
そしてリリィンもそれ以上は何も言わずその場を後にした。
※
同じ頃、魔王イヴェアムもアクウィナスが見上げていた星空を、その目に映していた。
今日起こったことは、世界の歴史に確実に名を残すものだ。
和平会談での『人間族』の裏切り。
その『人間族』が『獣人族』と結託して【魔国・ハーオス】に攻め入って来た。さらに『魔人族』内部の裏切りまである。
――戦争。
言葉にすればとても短い。だがその真実は、死と痛みが支配する現実である。
何も得るものなど無い。
いや、確かに敵対する勢力を滅ぼせば安全を得ることができるだろう。そして平和を手にすることができるかもしれない。
だが本当にそれが正しい行いなのだろうか。誰かと争って、傷つけて、殺して、憎しみ合って……その先に本当の平和などあるのだろうか。
どうして人と人とが手を取り合うことを止めてしまったのだろうか。
遥か昔、全ての人が笑い合う世界があったという。
無論個人同士でケンカなどはあっただろう。
しかしそれでも相手の命を奪うような行為に発展することは無かった。少なくともそういう時期が確かにあったのだ。
それなのにどうしてこの世界はこうなってしまったのだろうか。イヴェアムは美しい星々を眺めながら、その表情を曇らせていた。
「……星はこんなにも綺麗なのに……どうして人は心を汚し合うの?」
今は地球で言えば冬の時期でもあるので、彼女の口からは白い息が吐き出されている。
そして今日の会談でヴィクトリアス王であるルドルフが言ったことを思い出す。
『それではもし、これから先、そちら側の家族が誰かに殺されたとして、貴公は復讐など無意味。話し合いで解決できると……その者に笑って語りかけることができると?』
そう尋ねられて、自分はそれでも手を取り合うことを諦めては駄目だと言った。
しかし現実に裏切られ、この国に住んでいる多くの同胞を傷つけられた。中には死んだ者もいる。
それを思うと、やはり黒い感情が胸の奥から湧き上がってくるのを感じる。グレイアルドも死に、テッケイルについては行方不明だと食事の際にアクウィナスに聞いた。
それも全ては戦争を起こした相手のせいだ。彼らがそんな暴挙になど出なければ、今頃会談で良い結果を得ることができ、皆で笑い合えていたかもしれない。
それを死と痛みという最悪な形で伝えてきた。
その現実が苦しくて、辛くて、悲しくて、憎かった。どうしてもこの感情を相手にもぶつけたいと思ってしまう。
イヴェアムは胸の痛みに顔を歪めながら、テラスの手すりをギュッと掴む。
「駄目よ……感情のまま行動したら、それこそ本当に取り返しのつかないことになってしまう……っ!」
必死に自分の感情に言い訳をして宥めるように言葉にする。だがそれでも憎しみは薄まってはくれない。
(……キリア)
こんな時、いつも傍に居てくれたキリアならきっと慰めてくれると思った。しかしその彼女はもう自分の傍にはいない。
全幅の信頼を預けていた彼女に裏切られ、イヴェアムは心が壊れそうだった。
こうして一人になって夜を迎えて、キリアがいないという現実をハッキリと認識してしまうと、もう駄目だった。
とめどなく涙が流れ出てくる。
(どうして……どうしてなのよ…………キリア)
いつも傍で支えてくれたキリア。自分が迷った時に手を差し伸べてくれたキリア。幼い頃から当然のように一緒に居て、日々を過ごしてきた。
親友のようでいて、姉のようでいて、母のようでいて、とても温かい存在だった。
「キリア……キリア……」
それからしばらくは、彼女の嗚咽が続いていたのだった。
※
翌朝、日色たちはイヴェアムに呼ばれ、《王の間》で謁見していた。
日色は、イヴェアムの顔を見て気づくことがあった。
それは彼女の目が昨日と比べて腫れていることだ。うっすらと化粧で誤魔化そうとしているようだが隠しきれていない。
恐らく昨夜に彼女は泣いたのだろうと判断できたが、その理由は何となく理解できた。
今回、多くの裏切りに遭い、彼女が最も信頼していた者も離れていったと耳にした。
魔王といえど、まだ彼女は成熟しているようには見えない。歳は見た目通りとは言えないかもしれないが、精神的にはそこらの十代の娘たちと変わりはないだろう。
それは実際に二人で会って話していた時に判断したことだ。彼女は甘い。そして脆い。
とても種族を束ねるほどの器があるとは思えなかった。それなのに上に立ち、苦しい選択や辛い状況も背負う立場にある。彼女にとってそれは重圧過ぎるものだろう。
しかも信頼していた者に裏切られて平然と夜を過ごせるほど豪胆な性格もしていない。線のように細い神経を持っているということは日色も把握していた。
他の重臣たちも、彼女の顔に気づいているようだが話題にしようとはしていない。
「よく眠れたか客人たち」
お前はどうなんだと聞きたくなるが、日色は黙って彼女を見ている。すると彼女が懐から一枚のカードのようなものを出した。
「ヒイロ、これが例の約束のものだ」
テレホンカードのようなそれは、外枠が金で飾られてあり、黒い翼のような形の印が押されてある。
イヴェアムは日色の前にやって来ると、カードを手渡してきた。
「なるほどな、これが《フォルトゥナ大図書館》の最深部に入るための《深度5》の許可証か」
彼女から受け取り観察するが、よく見れば確かに《深度5》の許可証と記してあった。これがあれば図書館を隅から隅まで楽しめる。
思わず笑みが浮かびそうになる。しばらくは退屈せずにすみそうだと思った。
「もし紛失してしまうと再発行にはかなり時間がかかるから気をつけるのだぞ?」
イヴェアムからの注意に軽く頷きを返す。
「し、師匠! ボクにも見せてくださいですぞ!」
「あ、ミカヅキもみたい!」
二人の子供が日色の持つカードにピョンピョンと手を伸ばして掴もうとする。
「別に構わないが、もし失くしたら…………分かってるな?」
日色の視線に背中にゾクッとしたものを感じたのか動きを止める。だがやはり見たいのかカードに二人の視線が集中する。
仕方無くもう一度注意を促してから手渡してやった。直接受け取ったニッキはニカッと笑って、ミカヅキと仲良く観察している。
「しかしヒイロ、今はまだ戦時中だ。当分は図書館も閉鎖されている。それだけは理解してくれ」
「…………仕方無いな」
確かに今はまだ周りには『魔人族』の敵が潜んでいる。この非常事態に暢気に図書館を開けている場合ではないだろう。
だが日色にしてみれば、できるだけ早く行きたい。行けるのに行けないというジレンマは、無性にイライラしてしまう。
「おい、いつ図書館を開放するんだ?」
当然聞かなければならない質問だ。
「そうだな。少なくとも戦争終結の目途が立ってからだろうな」
確かにその通りだろう。いつ襲われるか分からない今の状況では、国はずっと緊張状態にある。幾ら余所者でも、いや、余所者だからこそ勝手な行動はできない。
「なるほどな。だがオレは一刻も早く本を読みたい。この戦争、さっさと終わらせるぞ」
日色の言葉にイヴェアムは口をポカンと開けて固まってしまう。
リリィンは「はぁ」と呆れたように溜め息を漏らしている。
「い、いやヒイロ、それはこちらも望むところだが、今は互いに出方を窺っているところだ。この状況はしばらく続くと思うが……」
「だろうな。奴らにしてみれば、かなりの戦力を削られたんだ。自国から援軍を待ってきて戦力増強を図ることを優先するのが自然だな」
日色の言葉にイヴェアムは頷きを返して肯定する。
「本来なら第二王子のレニオンを捕らえて、戦争終結の交渉に使うはずだったのだが……」
レニオンには逃げられたのでその策は使えない。
(いや、というよりもあの獣王が、息子一人の命で戦争を左右させるかは疑問だがな)
一度獣王であるレオウードと会って戦った印象から、一人の命を優先して好機を逃す人物だとは思えなかった。
これは獣人たちにとって一応の好機なのだ。
橋を渡ることもできて戦力を魔界へと向かわせることができる今のこの状況は、『魔人族』を制圧するチャンスなのである。
無論籠城作戦をしている『魔人族』を簡単には落とせはしないが、それでも全ての戦力を自由にこの国の周囲に配備できるのは今を置いて他にないだろう。
故にそう簡単に戦を止めることはできないはず。
「……とりあえずあれだな。まずは道を断つべきだな」
日色の呟きにイヴェアムは眉をひそめる。
「道? 何の道だ?」
「あ? 気付かないのか? 奴らの生命線である橋に決まってるだろ?」
当然だろと言わんばかりに目を向ける。
「橋は進路にも退路にもなるだろ?」
「あ、ああ」
「そこを断てば、これ以上戦力を増やされることも無いし、魔界に来た奴らを閉じ込めることもできる。ジワジワと追い詰めていけば、あとは袋の鼠だ」
「た、確かに……」
イヴェアムは口元に指をやり納得顔で頷く。
「あ、しかしヒイロ、確かにそれができれば一番良いが橋をどうやって落とすというのだ? 恐らく敵側もそこを重点的に守りを強いているはずだ。落とすのは決して楽ではない」
「お前は前に橋を落としたことがあると聞いたが?」
以前、イヴェアムはアクウィナスとともに『魔人族』と『獣人族』の住む大陸を繋ぐ橋を落としている。
だから今回も彼女なら簡単にやってのけられるのではと思って言葉をかけたが、当の本人は険しい顔をしている。
「……難しいな」
「何故だ?」
「あの時は橋を落とすことが第一の目的だった。だから事前に準備もできた。それに相手もまさか橋を落とされるとは思ってもいなかったはずだから、私の動きに半ば呆然と立ち尽くしていてくれた」
前回、イヴェアムは橋を落とすため、最大の魔力と大量の血液を使用し、極大魔法を構築した。だがそれには事前に準備がいるものだったらしい。
あの時の魔法は、イヴェアムとアクウィナスの魔力を同調させることで初めて使用できる。そのためかなり練習もしたという。
最も今なら前回よりも上手く同調させることはできるらしいが。しかしそれでも時間がかかるし、何より使用するための儀式を、相手が黙って見過ごしてくれる状況ではないだろう。
イヴェアムがやって来たら、まず間違いなく狙われる。それこそ集中攻撃を受けるだろう。とてもではないが、かなりの集中力を必要とする魔法は使えない。必ず邪魔される。
「確かに、前回と同じ轍を踏む馬鹿はいないだろうな」
「ああ、それにあの時使った魔法は、式の構築を事前にしておかなければならないものだった」
「ん? どういうことだ?」
「つまり、使用する前日までに式を組み立てて、それを体に紋として刻む必要があるのだ」
実際に前回、彼女は自らの腹に魔法式、いわゆる魔法陣を描いていた。しかもその魔法陣には一度描くと使うまで他の魔法は使用できず、書くのにも大量の魔力が必要になる。
事前に準備ができたと彼女が言ったのは、まさにそういうことだ。しかもその魔法陣は、描くのに三日ほどかかる。
「それに使用したらしばらく私は使い物にならない。寝込んでしまうからな。今の状況で私が寝込むことはできない」
「…………」
「それにだ、橋まではかなり距離がある。今、長い間城を離れることはできない。それはここにいる《魔王直属護衛隊》たちにも言えることだが」
イヴェアムはアクウィナスたちに視線を向けながら言う。
「なるほどな。そういう事情があるなら、おいそれとその魔法を使うわけにはいかないみたいだな。それに橋へ向かうと、必ず戦いになるし被害も出る、というわけか」
「その通りだ。無論橋を壊す利点は多い。本心では壊したくないのだが、今となっては仕方無いだろう」
悲しそうな、儚さそうな表情を浮かべる。
「しかし今現状、橋を壊すために戦力を向かわせるのはなかなか難しいのだ。相手も壊されないように守りを固めているはずだ。衝突すれば相当の規模の戦いになってしまう」
相手にとっては生命線なのだ。このチャンスを逃さないように死にもの狂いで守ってくるだろう。
攻めてくる相手を迎え撃つのは、実を言うとそれほど難しくはない。後の先を取れば、実力差が圧倒的でない限り、守りを維持し続けることができるからだ。
だが今回はそれが逆。相手の守る対象である橋を壊そうとするなら、かなりの戦力が必要になってくる。しかも間違いなく争いになり被害は出てしまう。
「だから橋を壊せば良いというヒイロの判断は正しいと思うが、実行するには難しいのだ」
イヴェアムが疲れたように顔を伏せて左右に振る。
「それなら一人で行けばいいだろ?」
「………………え?」
日色がさも当然のように言葉を発したので、虚を突かれたように口を開けたまま固まる。
「何を呆けている? 聞いてるのか?」
イヴェアムがいつまでも返事を返してこないので不機嫌そうに眉を寄せる。
その言葉でハッとなった彼女が、
「え、い、いやヒイロ? 一人でって……ど、どういうことだ? ……一人?」
二回聞き返すほど一人という単語には引っ掛かったのだろう。
「ああ、戦力を失いたくない。ここの守りを薄めたくないというのなら、一人で行けばいいだろ?」
「…………あ、いや、うん、そうだな。ヒイロの言う通り、一人くらいなら、それほど都合が悪くなったりはしない。しかし先程も言った通り《魔王直属護衛隊》は動かせないぞ?」
「そんなことはさっき聞いたから知ってる。別にここの奴らを動かすなど言ってないだろうが」
「え? …………も、もしかして?」
イヴェアムが目をパチクリさせて見てくる。
「オレが行けば問題無しだろ」
場の空気が静まり返り、またもリリィンの溜め息だけが聞こえた。
※
ピタッと冷たいものが頬に落ちてきて、ハッとなり目を開ける。今まで寝ていたのだが、まだ覚醒しきっていないのか、ここがどこか判断できずに虚ろな表情で周りを見る。
そして自分に起きたことをようやく思い出し、目に光を宿らせて何かを探すようにキョロキョロと視線を動かす。
「千佳っ!」
大志は近くで同じように寝ていた千佳の名前を呼ぶ。そして彼女の頬に手をやり、少し冷たいが確かな温かさを感じてホッとする。
「良かった……千佳」
いまだ目は覚まさないが、どうやら命に別状は無いと思い安堵する。そして再び周囲を確認する。
ここは鍾乳洞のような場所であり、上を見上げれば針のように幾つもの細い岩群が確認できる。そしてその尖った岩から水が滴り落ちてきている。
その滴が頬に当たったため眠りから起こされたらしい。落ちてくる水は、恐らく空気中の水分が寒さで凝結したものだろうと大志は思った。
何故ならこの洞窟内はかなりの寒さが支配しているからだ。一応毛布は与えて貰っていたが、こうして毛布で体を包んでいてもまだ寒いのだ。
この状況で、千佳が無事にいるということが大志にとって救いでもあった。こんな場所で一人でいたら気が狂うかもしれない。
「ようやく起きたんスね」
その時、闇の中から声が聞こえた。
突然の声にビクッとなり、身体を硬直させながら闇に向けて目を凝らす。
するとペタペタと誰かが歩いている音が聞こえてくる。そしてゆっくりと闇の中から人の姿をした影が浮かんできた。
「こんな所で再会するとは、ビックリッスね勇者くん?」
大志の目は大きく見開かれる。それもそのはずだ。その存在を大志は知っていたのだから。
「……あ、あの時の……画家?」
大志は思い出す。その人物と会ったのは、確か【ヴィクトリアス】の王城で、国王ルドルフと第一王女リリスの生誕祭が行われていた時だった。
何でも有名な画家だとリリスから説明を受けて、彼とも言葉を交わした。
印象を言えば、変わった人物だということだったが、人の良さそうな雰囲気を持っていた彼に、大志は少なからず好感を覚えていたのだ。
「た、確か……ナザー?」
何故彼がこのような所にいるのか、そして何故手を手錠で縛られているのか全く理解できなかった。
「おお~、覚えてくれてたみたいッスね」
顔面半分にかかるほどの鬱陶しいボサボサ髪から覗く目を嬉しそうに細めている。
「な、何でアンタが……?」
無論大志には理由など分からない。しかも手錠をかけられてここに閉じ込められている以上、自分と同じように捕まってしまったに違いない。
だが彼という存在に不気味さも感じる。思わず千佳を庇うように前に立つ。
そんな大志を見て、ナザーは恐縮したように困ったような様子で、
「大丈夫ッスよ。別に君たちに何かするつもりなんて無いッスから」
「……信じられない」
「まあ、そッスね。そんじゃ、こっからは動かないッスから安心してほしいッス」
動かないという意思表示を表すため、その場に腰を下ろした。
そんな彼の態度を見て、大志も一先ず警戒を少し緩める。視線だけは逸らさないが、同じようにその場で腰を下ろした。
「まずは自己紹介をしようッスかね」
「自己紹介? ナザーだろ?」
「ん~それ偽名なんッスよ」
「は? 偽名? え、何で?」
大志には有名な画家が何故偽名を名乗るのか意味が分からなかった。
「あ、そっか。画家用のネームとかそんなのかな?」
漫画家のペンネームや、ネットの世界でのハンドルネームなどのようなものだと思った。
「ん~そうッスね……画家としてそう名乗っているのは間違いないッスね。けど、こんな状況ッスから、改めて本名で名乗っておくッス」
「お、おお」
「オイラはテッケイル・シザーって言うッス。こう見えても《魔王直属護衛隊》の《序列三位》の地位をもらってるッス」
「なっ!?」
思わず立ち上がって再び戦闘態勢に入る。
それもそのはずだ。相手が『魔人族』だと言っているのだから。しかもトップクラスの実力の持ち主。大志の反応は当然のことだろう。
自分は勇者であり、『魔人族』を制圧するために【魔国・ハーオス】へやって来た。そして戦争が起こった。
テッケイルは『魔人族』、勇者である自分を殺そうとしてもおかしくはないと思い顔を青ざめてしまう。
そんな大志を見て、テッケイルは苦笑を浮かべながら肩を竦める。
「安心していいッスよ。別に殺そうとか思ってはいないッスから」
「……な、何でだ?」
「そういう命令は受けていなかったッスから」
「命令?」
「そうッス。オイラの主である魔王様には、勇者を殺せなんていう命は受けてないッス」
「…………」
「それに、今のこの状況では、君たちと敵対するより、手を組んだ方が良いと判断したッスから」
「この状況って……アンタはここがどこか分かってるのか?」
「それは連れて来られた君も知ってるんじゃないッスか?」
そこで大志はここに来た時のことを思い出す。
大きな竜巻に巻き込まれ、どこかに飛ばされたと思ったら、その先で妙な人物が現れた。千佳を人質に取られてしまい、成す術も無く相手の言うことを聞くしかなかった。
大人しくついて来てみると、そこは洞窟だった。中はかなり暗く、日の光も遮っているような空間だった。
洞窟の中にある大きな穴に連れて行かれたと思ったら、そこは袋小路になっており、入口には格子も設置されてあり、まるで牢屋だった。
するとここに案内した男が、乱暴に千佳を床へと放り投げたので、思わずカッとなり男に向かって拳を突きつけるが、腹に凄まじい圧力を感じて膝を折ってしまう。
男は蹲っている大志と千佳に向かって毛布を投げつけると、それぞれの片手に腕輪のようなものを嵌めさせてからその場を離れて行ったのだが、大志はそのまま意識を飛ばしたのだ。
「そ、その……テッケイルさんは」
「テッケイルでいいッスよ」
「あ……テッケイルも奴らに捕まってここに?」
「そうッスね。君たちをここに連れて来た男のことは知らないッスけど、君たちよりは先輩になるッスね」
おどけたように軽く言葉を発する。テッケイルを見ていると、深刻さを忘れてしまいそうになる。
「アイツのことを知らない? じゃあ誰にここへ?」
「それは……」
その時、格子がガラガラと音を立てて開いた。二人はそちらの方へ視線を促す。そこには一人の人物が立っていた。大志たちをここに連れて来た頬に十字傷のある男だ。
「ほう、ようやくその男も起きたか」
テッケイルの方に顔を向けて話す。そう、テッケイルは自分が持っている情報をジュドムに渡した後、ずっと気絶したフリをして様子を見ていたのだ。
だからこうして面と向かって対面するのは初めてである。
「主が呼んでいる。ついて来い」
大志がゴクリと喉を鳴らす。
「う……」
タイミングを計ったようにもう一人の捕虜が目を覚ます。
「ち、千佳っ!」
「……た……大志……?」
うっすらと目を開けて大志を見る千佳。目を開けてくれたことに安心感を覚えた大志はホッと胸を撫で下ろす。
「ちょうどいい、三人ともさっさと立て」
そしてついて来いともう一度三人に対して言い放つと、背中を向けてくる。大志は今なら相手を取り押さえられるのではと思い拳を握るが、
「いけないッスよ」
テッケイルが小声で制止の声を掛けてくる。
「な、何でだよ?」
「分かってないッスね。ここは敵地のど真ん中。どれだけの敵がいるか判断できないのに、下手なことをすれば、君だけじゃなく、そっちの子も危険に晒されるんスよ?」
「あ……」
テッケイルの言っていることは正しかった。確かに今は十字傷の男一人しかここにはいないが、一歩外に出れば多くの敵がいるかもしれない。
仮に男を捕らえたとしても、安全が保障できるわけではない。
「それに、奴は強いッスよ。武器も無くて勝てると思っているんスか?」
「魔法があるだろ?」
「どうやら気づいてないようッスから教えるッス」
テッケイルが顎をしゃくって大志の右手を指す。
「その腕輪、《魔封じの腕輪》ッスよ?」
「え? これって魔具なのか?」
「オイラのこの手錠と同じッスよ」
そうは言うものの、テッケイルに嵌められてある手錠は、大志たちよりも強力なものである。
それほどテッケイルのことを危険視しているという理由にもなるのだが、互いに魔法を封じられているという意味では同じだ。
「だから魔法も使えない、武器も無いこの状況で、奴を倒せるんスか?」
「そ、それは……」
「それにその子はまだ起きたばっかッス。ここは大人しく従っていた方が身のためッスよ」
テッケイルの言葉を受け、大志は諦めたように肩を落とす。
「……分かった。千佳、立てるか?」
「う、うん……」
どういう状況か全く分からない彼女は頷くことしかできなかった。
「いろいろ聞きたいことがあると思うけど、今は我慢してくれ」
「ここがどことか、何があったのかとか、それにその人のこととか、確かに聞きたいけど、そういう雰囲気でもなさそうね」
千佳はようやく目が覚めてきたのか、よろしくない状況だと判断して納得する。
「何をしている? 早く来い」
男の声がして、三人は立ち上がり牢屋を出ることにした。




