63:赤い雨
(いろいろ突っ込みたいところがあるが、何故この世界は幼女が強いんだ……?)
いつか見たララシークもレベルは百を越えていた。そして目の前にいる幼女もまた超常級の強さを備えている。
しかも、だ。
(無属性ってことは、オレと同じユニーク魔法の使い手か……)
初めて出会った自分以外のユニーク魔法の使い手。
《幻夢魔法》というのがどれほどの魔法かは分からないが、アノールド曰く、ユニーク魔法はどれも強力そうなので、恐らく彼女の魔法も他を圧倒するほどの何かを持っているのだろう。
(それにあのジイサン…………『闇の精霊』だと?)
称号の欄を見て思わず息を飲んだ。寄生サボテンの毒針を無数に受けてもケロリとしていたので只者ではないと思っていたが、称号から察するに『精霊』のようだ。
まさか『精霊』だとは思っていなかったので、ユニーク魔法よりもそっちの方が驚きだった。
見た目は完全に普通のオヤジなのだが、どうやら『魔人族』でも『人間族』でもなく『精霊族』だったらしい。
(ユニーク魔法の使い手に、『魔人族』と『獣人族』のハーフ、そして『精霊族』。この屋敷はどうなってるんだ……)
先程シウバが、ここは「奇人変人が住まう処」と言っていた。まさにその通りの場所のようだ。
しかも今は、異世界人でユニークチートという極めて奇人である自分がこの場にいる。今この屋敷はビックリ箱のような存在と化しているに違いないと思った。
ただこうして二人の《ステータス》を確認できたのは大きい。かなり意外で驚愕したが、情報はあった方が都合が良い。もし戦うことになっても、覚悟があるので慌てずに対処することもできる。
無論真正面から戦えば負けるだろうが、人となりを知っているだけで戦いようは幾らでも見出せる。
そんなふうに思っていると、リリィンから声が聞こえた。
「まあ、お前の言うことも一理ある」
「そうでございましょう。ヒイロ様は言ってみれば我々と同じということでございます」
「ふむ」
再びリリィンが日色を観察するように視線を向ける。そしてしばらく見続けて小さく頷くと、ニヤッと口元を綻ばせた。
何だと思いながら日色は彼女を見ていると、突然指を突きつけて、想像だにしない言葉を飛ばしてくる。
「よし小僧、ワタシのモノになれ」
何をいきなり言い出したと日色は唖然としてしまう。
隣にいるシウバは、また始まったかというようにやれやれと肩を竦めている。
「何を言ってる? そんなの嫌に決まってるだろうが、断る」
「断ることを断る!」
「…………は?」
どうだと言わんばかりに胸を張りながら言ってくる。
(このガキ、一体何を言ってるんだ? 頭でも打ったか?)
「ワタシはごく正常だ馬鹿者め」
「……ん? あ……」
どうやら心の中で思ったことを口に出していたようだった。あまりにも唐突に勧誘されたので少々混乱してしまっていたようだ。
「シウバに聞けば、貴様は旅をしていると聞いた。その旅を止めてワタシに仕えろ」
「ふざけんなガキ」
「ガキではない! ワタシはこう見えても数百年生きておるわ!」
どうやら思っていた通り、見た目通りの年齢ではなかったようだ。それにしてもララシークの時も思ったが、幼女に上から目線で話されるのはどうにも調子が狂う。
「ならババ」
「それ以上の言葉を続けたら一生覚めない夢を見させてやるが?」
直後、半端ではない殺気が迸ってきた。恐らく常人ならその場で立っていることも辛いような威圧感であろう。日色でさえも、顔には出さないが背中にじんわりと汗をかくほどだ。
(ババアは禁句ってことか。ならチビウサギと同様、幼女とかも言わない方がいいか)
ロリという意味は知らないようなので、赤ロリという言葉はオッケーらしいが。
「……はぁ、とにかく勧誘なら他の奴にやれ。オレは誰にも縛られたくはない」
「だから旅をしているというわけか?」
「そうだ。オレは世界を見て回っている。その邪魔は誰にもさせない」
互いに譲らず、目を見合わせる。
そしてフッとリリィンが笑みを溢す。
「ククク、ワタシに対しておくびもせずにハッキリものを言いおって。増々興味が出てきたわ」
どうやら嫌われるどころか逆に興味を持たれてしまったようだ。
「やはりワタシのモノになれ、ヒイロ・オカムラ」
「だから断ると言っているだろう」
ムッと口を尖らせ不機嫌顔を作るリリィン。
「ふん、貴様はこれからどこに向かうというのだ?」
「それがお前に関係あるのか?」
「何やら街を探されていた御様子でございました」
このジジイと今度はシウバに対し睨む。
余計なことを言う変態に思わず舌打ちをすると、リリィンは「ほう」と言葉にするとまたもニヤッとした表情を作る。
「街か……貴様知っておるのか? ここらには街などないぞ?」
「知ってる。もっとずっと先にあるのだろ?」
「いや、ここらというか、貴様『魔人族』なのに知らないのか? ククク、どうやらワタシが思っている以上に奇妙な存在のようだな貴様は」
面白そうに喉を鳴らして笑う彼女を見て、いっそう不愉快感を感じた日色は、「一体何を言っている?」と聞くが、それがまずかった。
「魔界には街という街は、一つしかない。知ってるはずなのだがなぁ……『魔人族』なら、いや、この魔界に住む者なら……な?」
鬼の首を取ったような生き生きした表情を浮かべ日色を見る。
日色は日色で、ポーカーフェイスは保ったままだが内心では驚愕していた。
(街が一つしかない? そういやシウバは街ではなく集落と言っていたか……)
このずっと先には街ではなく集落があるとシウバが言っていたことを思い出した。それにしても街が一つしかないとはどういうことか、かなり興味が惹かれた。
「ほう、本当に知らなかったようだな。なるほど……ククク」
リリィンはウンウンと何度も頷きを繰り返し、ジッとこちらを見つめてくる。
「聞きたそうだな。なら教えてやろう」
優越感が明らかに伝わってくるので、さすがに少し苛立つ。しかしその情報を聞きたいという欲求も生まれていて、何ともままならない気持ちである。
日色が黙っていると、勝手に解釈したリリィンが話し始める。
「いいか、魔界には幾つかの集落があるが、どれも数は少ない。『魔人族』の種族は豊富だが、実際にはその人数が極めて少ないのだ。とても街を興せるほどの規模は皆無だ。何故だか分かるか? 基本『魔人族』というのは種族主義で自己主張が強い。同じ『魔人族』という枠組みにあっても共生している者はほとんどいない。だから一種族だけで街の規模を支えられないというわけだ」
つまり必然的に言って、街というよりは同種だけが集まった集落というわけだ。
「その中でも一番数が多い『インプ族』だけでも百人もいない。無論百人いなくとも、村くらいの規模は作れるが、『インプ族』にその気は無い。いや、他の種族にしても作る気は無い。ただ集まりそこで生活する。それが『魔人族』の習性だ」
そんな特性が『魔人族』にあったとは知らなかった。
種類は豊富にあるとはいえ、個々の数が少なく、とても街を興せるほどのものではない。他の種族と力を合わせて街を作り上げ、そこに住むのなら話は別だろうが、どうやらあまり他種族と関わりを持たないようだ。これは明らかに勉強不足だった。
「しかし、ただ一つ例外がある。それがさっき話した一つの街、いや、国だ」
「……【魔国・ハーオス】」
「なんだ、さすがに知っているか」
国と聞いて思いつくのは【魔国・ハーオス】。やはりそこは別だったかと得心する。
「そうだ、魔国だけは別だ。遥か昔、初めて魔王と名乗った者が作った国。そこではあらゆる種族の『魔人族』が住む」
「国を守るために魔王が集めた?」
「ほう、なかなか物分かりが良い。しかしそれだけではない。時の魔王は強い者と交わることを喜びとしていた」
「ちなみに交わるとはチョメチョメしちゃうということでございます。ノフォフォ」
二人して若干頬を染めて息を乱している変態を半目で睨む。いちいち意味を言わなくても理解していたが、それを知っててわざと言ったであろうシウバを鬱陶しく思った。
「おほん、まあそういうことだ。魔王は魔界中を探させ、強い者を片っ端らから勧誘した」
「おい、普通断る奴もいるだろ?」
「まあ、そうなんだが、相手が相手だしな」
「……?」
「魔王は力も絶大に強く、そして何よりも……美しかった」
「美しい? おい、魔王は男だろ?」
「いや、女だ」
「…………」
「その容姿は端麗で、見る者は男であろうが女であろうが目を奪われるほどの輝きを持っていたという。力も強く美しく、そして抜群のカリスマ性も備えていた。そんな人物の誘いを断れるような男など皆無だった」
「……はぁ、つまりはだ、その魔王は魔界中から集められた強者と名高い男たちとハーレムを築いたということか?」
「ククク、まあその通りだ」
「そして、その間に生まれた子孫らで繁栄していったのが今の【魔国・ハーオス】ってわけか?」
「賢いな小僧。まさにその通りだ」
時の魔王は女性であり、魔界から集められた様々な種族の男と交わり子を成した。
その子孫らが徐々に増え続け、国というものを形成していったという。確かにそれならば、他種族と共生することを信条としていない『魔人族』が、国というものを作った経緯に説明がつく。
その国では魔王の血を受け継いだ多くの『魔人族』が住んでいる街というわけだ。
「なるほどな。すると今の魔王、いや、魔王だけでなく国民が初代魔王の血を引いているというわけか」
「まあほとんど、だけどな。中には種族に拘らず国に移り住む者らがいてもおかしくはあるまい。皆が常人ではなく、奇人変人だって中にはいるというわけだ」
貴様のようになとでも言わんばかりの視線をぶつけてくるが、
(オレにしたらこのガキの方がよっぽど奇人なんだが……そこには変態もいるし)
チラリとシウバを見ると、その視線に気づいた彼がニンマリと微笑む。ハッキリ言って気色悪い。
「さて、そこで本題だ。そんな『魔人族』なら誰でも知っている街、いや、国のことさえ知らなかった貴様は、その国に向かうというのか? 一か月前までは戦争をしそうだった国だぞ?」
約一か月前、【魔国・ハーオス】は軍を引き連れ『獣人族』と戦争する間際だった。
魔王の行動により、それは阻止されてしまったが、今でも国の内部では今後に対する問題でてんやわんやしていることは予想に難くない。
「それに、何でも今度は『人間族』と事を構えるようなことを耳にもしたしな」
「何だって?」
それは初耳だった。『獣人族』との国境にある橋を壊したのは戦争を回避するため。それなのに今度は『人間族』と事を構える意味が理解できない。
「今度は人間と戦争か?」
「ん? ああ、違う違う。言い方が悪かったな、そうではなく『人間族』と同盟を結ぶような話が流れている」
「……真実か?」
すると両手を広げ肩を竦めたリリィンは言う。
「さあな。あくまでも噂だ。魔王が国で演説し、そう言ったという話を聞いた。まあ今の魔王は蜜のように甘い奴だから、真実味はあるがな」
「よく他の奴らが許したな」
「許してなどいないさ。『人間族』に家族や仲間を殺された者たちだって大勢いる。そんな中での同盟。しかもそれを提唱したのは、魔王とはいえ小娘だ」
「おい待て、今の魔王も女なのか?」
「ああ、先王は男だったがな。今はその妹のイヴェアムという小娘だ」
小娘。リリィンにとっては、ほとんどの女がそう呼ばれても仕方無いとは思うが、魔王が女とは初めて聞いた。ゲームなどでは男の魔王がほとんどだったので勝手にそう判断していたが。
「今国は相当荒れてるかもな。『魔人族』は自分たちが絶対的強者だと思っている。『獣人族』との戦争だって、魔王が邪魔さえしなかったら勝利していたと思っている者も多いだろう。それに今回の同盟だ。鬱憤を爆発させるには十分な理由がある。もしかすると近々暴動だって起きるかもしれん。そんな危険な国に行くつもりか小僧?」
行かせないように論じているのは分かっている。
だが彼女の言うことも一理ある。そんなとこに行って、もし暴動に巻き込まれれば、面倒になるかもしれない。魔王のお膝元である。きっと日色よりもレベル的に強い者など山ほどいるかもしれない。
そんな中で目立たずに情報を収集することはなかなかに難しい。無論《文字魔法》を駆使すればこなせるだろうが、そういった場合に限ってイレギュラーが起きたりするのが世の常だということも理解している。
自分が何となく問題や騒動に巻き込まれる存在であることは、ここに召喚されたことで薄々は気づいている。行けばきっと何かしらの面倒事を背負い込むことになる可能性は否定できない。
(だが国は一度見ておきたい……)
何と言っても魔界の国なのだ。その規模も獣人や人間の国とは規模がまるで違うということは何となく察しがつく。だからこそ一度、経験してみたいのである。
それにそれほど大きな国なら、きっと美味い食べ物や貴重な本が一杯あるだろうと思い、必ず確認しておきたい場所なのだ。
(そうだ、特に本だ。それにあそこにはアレがあると聞くし……)
黙って思案顔をしていた日色だが、ふとそこから窓の外が見える。山が見え、もう空が白んできていた。どうやら日が上ってきたようだ。ずいぶん話し込んでいたようだ。
だがそこで不思議なことに気づく。
遠くの方は日が射しているようで明るいのだが、この屋敷にはまだ朝日が入ってきていない。一体どうしたことだと思っていると――グラグラグラグラ!
突然屋敷が大きく揺れ始めた。
日色はハッとなり身構えて揺れに対応しているが、リリィンの表情を見ると何でもないような顔をしているので、不思議に思い怪訝な表情で彼女を見つめる。
「そうか、何とまあ災難ではないが、出来事というものが立て続けに起こるのが世の常だな」
「左様でございます」
どうやら二人はこの揺れについて熟知しているようだ。少しも慌てる様子が見えないところを見るとそう判断できた。
しばらくすると揺れが小さくなり、やがて収まっていく。リリィンは腕を組みながらシウバと会話をする。
「今回のはどのくらいだろうな?」
「そうでございますね。前回は三日でしたから、今回はそれよりも長いのではないでしょうか?」
「根拠は?」
「前回よりも揺れが長かったというのも理由の一つでございますが、どうやら……」
シウバは言葉を吐きながら窓に近づき空を見つめる。
「《禁帝雲》の大きさも前回より大きいようでございますし」
「きんていうん?」
聞き慣れない言葉が聞こえてつい言葉を漏らしてしまった。
「ククク、そうか知らないなら教えてやろう」
いちいち気に障る言い方をする奴だった。だが日色の視線を楽しそうに受け流しながらリリィンは答えていく。
「《禁帝雲》というのは、今この屋敷の上空にある赤雲のことだ」
「あかぐも?」
「言葉よりその目で見ればよい」
そう言われて、シウバのように窓に近づき、空を見上げる。
するとそこには文字通り、赤色の雲が空を覆っていた。そしてその雲から世にも珍しき赤い雨が降っていた。
日色は初めて見る赤い雨に目を奪われながらその場で立ち尽くしていた。
先程のシウバたちのやり取りを聞いていると、この雨が揺れの原因らしい。だが確かに奇怪な雨だが、屋敷を揺らすほどの原因を持っているかと問われれば疑問である。
その答えを先に教えてくれたのがシウバである。
「この赤い雨はちょうどこの島の周囲、つまり湖だけに降るのでございます」
「何で島には降らないんだ?」
「何でも《禁帝雲》という雲は赤い雨が蒸発して作られた雲だそうです。蒸発した水は上空へと舞い上がり雲になり、時間が経てばまた雨となって降り注ぐ。まあ、行ったり来たりしていると思えば分かりますか?」
「なるほどな。そんな奇妙な降り方をする理由は分からないが、確かに見たところ、島には降ってないようだな」
窓や、外に見える庭園や地面にも雨に濡れた様子が見当たらない。シウバの言う通り島には降っていないようだ。
「しかしですな、この赤い雨はただ色が変わっているということだけではありません。もう一つ、あるユニークな特徴があるのです」
「特徴?」
「魔法を封じる。つまり封魔の力を持っているんだよ」
答えたのはリリィンだった。日色は彼女の方に視線を動かすと、そのまま彼女は口を動かす。
「この雨が降っている周辺は魔法が使えないようになるんだ。その理由はいまだに分かってはいないようだが、この島にいる以上、ワタシたちも例外ではない。試しに使ってみろ」
そう言われていつものように指先に魔力を集中させる。
(……ん?)
普段は指先がほんのり温かくなり、青白い光がポワッと灯るのだが、どれだけ集中しても何も起こらない。字を書こうとしても空中には何も映し出されない。
その上、ミカヅキの場所も分からなくなっていたことに気づく。
ミカヅキには設置文字を施していたので、その魔力を感じ取りミカヅキの居場所を把握できたはずだが、今は何も感じない。
(これは……キャンセルされた? しかも強制的に?)
日色の考えは的を射ていた。シウバが言うには、この雨は《マジックキャンセラー》と呼ばれる、魔法を強制的にシャットダウンさせる効果を持っているらしい。だから雨の近くにいるもの全ての魔法を奪うのだ。
こんな状況では、身を守るための設置文字も書くことができない。まさかこんな奇妙な雨があるとは思わず舌打ちをする。
(いや……違うか?)
そこで気づいたことがあった。設置文字が消えたのは、先程自分が使用した二文字の《文字魔法》のリスクだった。二文字を使用すれば設置文字は消えてしまうのだ。それを忘れていた。
(だが仮に二文字を使用していなくても、この雨の中じゃ消えるってことか…………あ、ちょっと待てよ!)
顔には表さず、自分の体の色を見て軽く息を出しホッとする。
その理由は『化』の文字効果が消えていないからだ。だから姿は『インプ族』のままで安心した。もしここで人間に戻っていたら言い訳がきかない。
(しかしこれはどういうことだ……?)
そこで設置文字やリリィンの結界魔法、そして『化』の文字の相違点を考える。どちらも魔法であることは変わらないが、前者の方は魔力を使って効果を維持し続けているということ、そして後者の方はもうすでに結果として終わっていること。
(もしかすると魔法効果を固定化させたものは効かないようだな。メイドに傷つけられた肩の傷も完治しているようだしな)
もし今までの魔法が全てキャンセルされているのなら、昨晩シャモエに襲われたせいで肩に傷を負ったが、それを『治』の文字で治した効果も消えて傷自体が復活するはずだ。
つまり魔法全てを封じるのではなく、封じるのは魔力を放出しているもの。もしくは魔力そのもの。
(どうやら魔法を封じるというより魔力の使用を封じるということかもしれないな)
だがそれは結果的には日色を助けてくれたことになる。人間に戻らなくて良かったのは間違いないのだから。それにしてもこんな環境があるとは恐れ入った。
(魔界……ホントに退屈しないところだな)
魔界の環境そのものが、日色が今まで経験してきたものとは全く違った。
まさか魔法が使えなくなるような環境があるとは、日色にとって死活問題になるので、赤い雨のことを知って良かったと心から思った。
もし知らずにモンスターと戦っていて、この雨が近くで降っていたら、魔法が使えない理由も分からず、混乱のままにモンスターに命を奪われた可能性だってあった。だからこそ、この経験はありがたいと心底感じた。
「この雨の付近は魔法が使えないってことは理解した。ならこの雨に触れればどうなる?」
近くにいるだけで魔法が使えないのだ。もし触れたらそれ相応の何かが自分の身体に襲ってくるのではないかと心配した。しかしシウバの答えは意外なものだった。
「ヒイロ様の懸念していることは起こりません」
「なら触れても呪いを貰うとか、そんなものはないんだな?」
少しゲーム脳過ぎるかなと思ったが、こんな世界である以上、用心するに越したことは無い。
「ございません。触れるだけなら問題ありません」
言い方が気になった。他に何かあるのだろうかと訝しみながらシウバを見る。
「赤い雨は確かに性質は水ですが、普通の水と違ってかなりの重量を有しておるのでございます」
「重量? 重いってことか?」
「左様でございます。しかもそれが遥か上空から降り注いでいるのでございます。もし浴びれば衝撃は相当なものでございましょう。ですからあの雨の中を通ることは…………かなりの苦痛でございますよ?」
「…………」
痛いとかその程度では済まないような気がする。
だが確かに、見た感じではざざ降りのように見えないのに、雨の音がまるでゲリラ豪雨の時のように大きい。一粒一粒が、余程の衝撃を持っていることが分かる。
「そう言えば、答えてもらっていなかったが、何でさっきは揺れたんだ?」
「ああそれはお嬢様がおかけになった結界が解けたからでございます」
「結界? そう言えば前にもそんなことを言ってたな」
「はい。夜になると、この周辺にはランクSのモンスターが大量に生息します。たとえ襲われたとしても遅れを取るようなお嬢様ではございませんが、眠りを妨げられるのを良しとしないお嬢様は、そんなモンスターたちを退けるために結界をお張りになられていたのでございます」
確かに安眠妨害は許されん。その気持ちは日色も理解できる。
「その結界も魔法で作られてあります。しかし赤い雨のせいで無理矢理キャンセルされ、その反動で屋敷が揺れただけでございます。別段心配はございません。ですが……」
シウバは突然目つきを鋭くさせて窓の外に視線を向ける。
「グギャギャギャギャァァァァァッ!」
耳をつんざくような叫び声が聞こえてくる。
思わず全身に緊張が走り、シウバと同じように窓の外に目を向けた。
そしてその場で唯一腕を組んで目を閉じていたリリィンが、うんざりな感じで溜め息を吐き、ゆっくりと閉じていた瞼を開く。
「やはり来たか……バロンボーンリザード」
日色たちは突然聞こえてきた叫び声を確認するために屋敷の外に出てきた。
扉を開けて庭園を抜けると、今まさに赤い湖から何かが這い出てきているところだった。
「コ、コイツは……?」
――バロンボーンリザード。
その名は聞いたことが無い。だがそんな経験はこの魔界に来てからは常だった。そんなことよりも、明らかに今までのモンスターとは逸脱した雰囲気を感じる。
(いや、この気配どこかで……)
確かに普通のモンスターとは違う気がするが、それでもどこかで会ったような既視感を感じた。無論バロンボーンリザードなどというモンスターと相対したことは過去には無い。
日本に住んでいた時、テレビでコモドオオトカゲという爬虫類を観たことがある。輪郭はそのトカゲのような体躯をしている。しかし大きさは比にならないほど大きい。
体長十メートル以上は確実にある。しかも肉感など一つも無く、どういった原理で動いているのかは分からないが、全身が骨で形成されてある。まるで博物館に飾っている恐竜の化石が動き出しているみたいだ。
そしてその骨が血のように真っ赤であり、微かに発光している。きっと夜でもその存在をハッキリと確認できるだろうことは想像できた。
「全く、普段は湖の底で引きこもっている化石のくせに」
不機嫌そうに舌打ちをしながらリリィンが話し出す。
「こんな時だけ上に出てきおって。忌々しい骨めが」
日色は彼女の言葉を聞いて、
(普段は引きこもってる? ということはこの赤い雨のせいで島に上がってきたってことか)
モンスターに対して推測するが、このままでは危険だと肌で感じる。
何せ今は魔法を使えない。ただのモンスターなら、『刺刀・ツラヌキ』だけでも倒すことはできるだろう。
しかし今目の前にいるモンスターは、明らかに普通ではなかった。そう考えた時、ようやくハッと息を飲んで思い出したことがあった。
(この感覚、そうだ、あの時のアイツと同じ感覚だ)
過去の記憶を思い出して、思わず身震いをしてしまった。
そして額から汗を垂らし、ジリッと無意識に後ずさりしてしまっていた。それは過去の経験がそうさせたことなのだが、日色は目の前の相手から目を離せずもう一度喉を鳴らしていた。
(ふぅ、間違いなくSSランクの雰囲気だなこれは……)
アノールドたちと別れてしばらくしてから、あるモンスターと戦うことになった。
全く偶然の出会いだったが、そのモンスターは大きな怪鳥であり、名をデュークイーグル。
そのデュークイーグルもランクSSのモンスターであり、まだ50レベルそこそこだった日色が単独で相手できるほどの相手ではなかった。
本当に運よく撃退できたが、死んでもおかしくなかった経験を日色はしている。
そして今、そんな死を予感させた相手と同じような威圧感を感じさせる相手が目の前に現れた。それがバロンボーンリザードである。
(マズイな……マジでマズイ……)
とにかくあれからレベルは上がったが、魔法が使えないのは話にならない。本来なら今のレベルで相手できるのはランクSくらいなのだ。とても魔法が使えない状態で相手できるものではない。
日色が歯を噛み締めどうこの場から逃げ出すか算段していると、突然バロンボーンリザードが口を大きく開ける。
何をするつもりなのか分からず、マヌケにも呆然と見つめていると――。
――キィィィィィィィン!
強く耳鳴りするような音が周囲に響き渡る。
同時にバロンボーンリザードが開いた口の前で小さな赤い球体が現れる。それが徐々に大きくなっていく。
「いきなり大技か? 全く、ここをどこだと思ってる」
リリィンが口を尖らせながら、まるで驚いていない様子で口にする。確かにレベルが百越えしていると余裕にもなるのかと思ったが、それでも魔法は使えないのだ。
純粋な身体能力だけで、目の前の化け物を相手しなければならないのに、そこまでの余裕は一体何なのだろうと眉をひそめてしまう。
「シウバ、アレをよこせ」
「ここに」
リリィンのそばに控えていたシウバは、彼女の言葉を受け、懐からあるモノを取り出して手渡す。それは日色にも見覚えがあるものだった。
(あれは……《金バラ》?)
日色の思った通り、彼が取り出したのは【ヴェノムマウンテン】で寄生サボテンというモンスターの頭に生えていた《金バラ》だった。これはリリィンが、シウバに採取してくるように命令したものでもあったのだ。
(だが何故今あのバラを……?)
彼らの行動の意味を理解できず首を傾げていると、リリィンが驚くことにその《金バラ》をムシャムシャと食べ始めたではないか。
(な……食べただと!?)
さすがに食べるとは思っていなかった日色は絶句してしまう。
しかしその間にも彼女の咀嚼は続いている。
ゴクリと、決して美味そうに嚥下をしたわけではないが、しっかりと胃に送り、舌舐めずりをして鋭い目つきでバロンボーンリザードを睨むリリィン。
「ワタシはまだ眠いのだ。早々に散ってもらうぞ骨め」
だが先に動いたのはバロンボーンリザードの方だった。
さらに大きくなって、直径一メートル以上あった赤い球体が、突然直径三十センチほどに収縮していく。
(力を凝縮しやがった!?)
恐らくアレを砲弾のように放つのだと予想できた。しかしそれよりも、あんな化け物が作った何かが、ただの球体であるはずがない。恐ろしく威力のある何かだと本能で気づく。
(今思い出したが、あんな感じのものをデュークイーグルも使ってたっけか?)
その経験のお蔭で、間違いなくこれからバロンボーンリザードがすることに多大な危険性を感じて背筋に嫌な汗が滲む。
「おい小僧、そこをどけ」
「お、お前」
「いいからどけ。貴様も強いのだろうが、そこでワタシの戦いを見ておけ」
そう言ってリリィンがスルリと日色の脇を通り抜けてバロンボーンリザードの目前に躍り出た。
「おい!」
「ヒイロ様、こちらへお願い致します」
いつの間にか近くにいたシウバが丁寧に頭を下げていた。
彼に促されてリリィンから離れることになる。本当に一人でランクSSとやるのかと訝しみリリィンを見つめる。
(今は魔法が使えないんだぞ!)
彼女はユニーク魔法の使い手だ。どんな強力な魔法を有していても、今は使えない。
しかしそれはシウバも、もちろん彼女も把握しているはずだ。それなのに無謀とも言える行動を起こす。
日色も非常識な存在だが、彼らも同等以上の存在だと認識できる。
だが日色の懸念をよそに、リリィンは目の前を見据え、不敵に笑みを浮かべていた。




