38:死へのカウントダウン
日色たちが【ハニー峠】に入った頃、ミュア・カストレイアは自身に任された仕事を存分に全うしようと努めていた。
「ありがとう、ミュアちゃん」
部屋の掃除をしていたミュアに、ルッソがベッドに横になりながら言葉をかける。彼女の隣には小さなベルも気持ち良さそうに眠っている。
「いえ、お掃除好きですから!」
ミュアは努めて明るくを維持し続けた。
ルッソが夫であるマックスの身を案じて不安がっているのは理解している。ミュアだって日色たちが心配だ。
しかしミュアまでもが暗い表情だと気が滅入ってしまう。
それはルッソのお腹にいる子供にとっても良くないと考え、ミュアは笑顔を崩さない。そして掃除が終わり、棚から小さな壺を取り出し中身を器に出す。
琥珀色に輝く蜜だった。この蜜は村長からおすそ分けしてもらったものであり、もうすぐ生まれるであろう赤子と、ルッソの母体のためにと食べさせてあげるように言われたのだ。
たくさん食べなければならないとは分かっているものの、ご飯を口にしては吐いてしまうらしく、どうにか栄養価の高い食べ物を摂取する必要があったのだ。
そこで白羽の矢が当てられたのがこの《ハニーシロップ》と呼ばれる蜜である。
いつ赤子が生まれるか分からないので、マックスたちは彼女のためにも蜜を蓄えに行ったのだ。
今は他の家から少しずつ分けてもらって口にしていたが、そろそろ補充しようと考え【ハニー峠】に向かい、今回のような事件が起きてしまった。
だがミュアは不安を感じているものの、日色たちがマックスたちを連れて帰って来てくれることを信じている。
幼い頃からずっと守ってきてくれたアノールド、戦闘能力がずば抜けて高いウィンカァ、それに――――日色がいる。
彼は不可能と思える状況でも光明を見出し、いつも皆の笑顔を作ってくれた。自身は無愛想で滅多に笑わない彼だが、一度口にした約束は必ず守ってくれる。
融通の利かないところもあり、めんどくさがりで自分の得になるような時しか動かないが、それでも最後には何故か皆が笑顔になっている。
とても不思議で、とても気持ちが惹かれる男の子だ。
それに彼には最悪な状況でも一発でひっくり返せるような力もある。だからミュアはそんな日色を含めた三人なら、必ず凶悪なユニークモンスター相手でも勝利を掴み取ることができると信じている。
「どうですか? おいしいですか?」
「ええ、ありがとうミュアちゃん」
ルッソが蜜をスプーンで掬い取り口へと運んでいる。だがふと彼女が蜜が入っている器の上にカチンとスプーンを置いたまま顔を俯かせた。
その表情を一目見ただけで、彼女がマックスのことを考えていることがすぐ分かった。
「……大丈夫ですルッソさん」
「ミュアちゃん……」
「きっともうすぐおじさんたちが、マックスさんたちを連れて戻ってきてくれます!」
「……そうね」
「だからルッソさんも信じて下さい! わたしは信じています!」
「…………ふふ、ありがとうミュアちゃん。そうよね、私が誰よりもあの人の生存を信じなきゃね」
優しく微笑むルッソ。少しだけ顔色も良くなっているような気がする。ミュアは良かったと思い、
「あ、蜜のおかわり持ってきますね!」
壺がある棚に向かう。そして今度は壺ごとルッソのもとへ持っていったその時、思わずミュアは壺を落として割ってしまった。
何故ならルッソがお腹を押さえて苦悶の表情を浮かべていたからだ。
「ルッソさんっ!」
「う……うぅ……っ!?」
ミュアは彼女を支えながらどうすればいいのか悩む。
「だ、大丈夫よ……横にさえ……なれば」
彼女が逆にミュアを心配させないように気遣ってくれているのが伝わってくる。
(わたしにできることなんてあるの?)
何故彼女が苦しんでいるのか分からず、寝かせた彼女の手を握るくらいしかできない。するとベルもそんな不安な空気を敏感に察知したのか泣きだした。
ミュアは慌ててベルを抱き上げるが、なかなか泣き止んでくれない。ルッソも顔を青ざめさせながら歯を食い縛っている。
(ルッソさんを少しでも楽にしてあげたい! どうすれば力になれるの!)
泣きじゃくるベルがふと目を見開き驚いているかのように泣き止む。それもそのはず。
ミュアの髪の毛がフワリと少し浮き、耳がピコピコと動く度に銀色に輝く粒子が舞っているのだ。その粒子がルッソへと注がれていく。
(わたしにできること……!)
ミュアは目を強く閉じて、何とかこの苦しみから解放してあげたいと思い祈り続けていると、握っていたルッソの手が緩む。
そしてミュアもハッとなって目を開けると、うっすらと目を開けてこちらを見つめているルッソがいた。
「ルッソさんっ!?」
「……ミュアちゃん……あなた……それは……」
ルッソが何を言いたいのか分からなかったが、先程よりも顔色がマシになっているのでミュアはホッとした。一時的なものだったのかもしれない。
「あ、あれ? ベルちゃんも泣き止んでる?」
いつの間に泣き止んでいたのか分からずキョトンとするが、
(あ、そう言えば何かあったら村長さんを呼ばなければいけなかったんだ!)
ミュアはベルをルッソの隣に寝かせると、彼女から「ありがとう」という言葉をもらった。そしてその場から立ち上がって、慌てて村長宅へと向かって事情を話した。
村長は事態を察したように、何人かの女人を連れてマックスの家へと向かった。ミュアは外で待たされており、中からはベルの泣き声がまた聞こえてきた。
そしてしばらくすると村長が出てきて、ルッソが産気づいているということを教えてもらった。
つまり近いうちに生まれるということ。
(――――おじさんっ!)
バッと身体を【ハニー峠】がある方向へと向けるミュア。
このまま自分がここに居ても何もできないと察したミュアは、村長に【ハニー峠】へ行き日色たちにこのことを報せると言って走り出した。
(待っててねルッソさん! 急いでマックスさんとススちゃんを連れて来るからっ!)
それが今、自分にできることだと信じて。
※
岩壁の上に昇り切ったウィンカァは、時間稼ぎをしている日色を見下ろしながら《万勝骨姫》を高速にブンブンと振り回し始めた。
すると根元の鎖が真っ赤に色づき、ボウッと小さい火を生んだ。赤い閃光が軌跡を描き、それが徐々に大きくなっていく。ドンドンと槍は加速していき炎がウィンカァを包む。
日色は彼女の槍が空気を斬る音を背中越しに聞きながら、眼前の相手に意識を集中していた。
刹那、レッドスパイダーから糸が放たれ紙一重でかわす。いや、紙一重にしかかわせなかったのだ。
(くっ! 速いっ!)
余裕を持って反応することができなかった。結果的に紙一重だっただけだ。想像以上にミニグモとの戦いで体力が奪われていることに気づく。
だが先程から準備していた『速』の文字を発動させてスピードを向上させているため、何とかまだ鋭い動きは可能ではある。
大地を蹴り砂埃を巻き上げながら距離を詰めていく。
そして刀を眼前に構え大きく跳び上がり、相手の背中に向けて突き出す。串刺しにするつもりだ。
しかし器用に払いのけるように足を動かしたレッドスパイダーが、日色を叩き落とそうとする。すかさず刀で防御するが、その威力は凄まじく、またも岩壁に激突してしまう。
「ぐはっ!?」
そのまま地面に落下する日色に向かってレッドスパイダーが糸を吐く。
日色は「くそっ!」と叫びながら後ろの壁を蹴ってそこから脱出する。
「はあはあはあ……」
疲労とダメージは確実に溜まっていく。しかし目の前の相手はまるで無傷。それよりも初めて見た時より大きく感じる。
またも身体が震えてくる。明確に感じる相手との力の差。だが日色には力の差を埋める《文字魔法》がある。
「燃えろ、《文字魔法》っ!」
指から放たれる『燃』の文字。そう、どれだけ相手が強くても、理を歪めて事象を引き起こす《文字魔法》はいつでもワイルドカードなのだ。
当たれば勝敗はいくらでもひっくり返すことができる。
そう――――――――当たれば。
だが日色の思惑をレッドスパイダーは野生の勘であっさりと乗り越えてしまう。
文字に向かって放たれる、糸を丸めて作ったような玉。
文字は当たった対象だけに効果を引き起こす。
結果、『燃』は玉によって阻まれてしまった。
「くそ! 相手に当てるのが難しいなら!」
日色は地面に向けてレッドスパイダーにバレないように『針』の文字を放つ。ピタリと地面に張りついた文字だが、まだ発動はしない。
日色はそこから距離を取り、レッドスパイダーを翻弄するように動き回る。
そして徐々に罠を張った場所まで敵を誘導する。
(もう少し……もう少しだ……そうだ来い…………そこだ! 貫け! 《文字魔法》っ!)
文字の上までやってきたレッドスパイダーに対してすかさず文字を発動。バチバチッと放電が迸ると、地面からサボテンの針のように形成された土の塊が敵を襲う。今度は逃げ場はない。
そう思ったが、確かに攻撃はレッドスパイダーの身体に届いた。しかし届いたはいいが、土の塊が身体の頑丈さに負けたようで弾かれてしまう。
(おいおい、ゴブリンならこれで一掃できたってのに)
無論弱小モンスターと比べること自体がおかしいのだが、それでも少しはダメージを与えられると思っていた。しかし現実は全くの無傷。
相手の防御力の高さに言葉を失う。
あれでは生半可な攻撃では、たとえ弱点の火をもってしても倒すことはできないだろう。それこそ、凄まじいまでの火力が必要とされる。
(どうする……?)
するとその時、レッドスパイダーがカサカサカサカサと、疾風のような勢いで距離を詰めてきた。
日色はその場から逃げようとした時、ズキッと背中に痛みが走り一瞬硬直する。
(しまった!? さっき壁に激突した時に!?)
その硬直した時間を見逃してくれるほど甘い相手ではなかった。
素早い動きで、日色との距離をあっさりと潰したレッドスパイダーが、その太く固い足を動かして日色を払うようにして吹き飛ばす。
「がぁっ!?」
腹にめり込む鉄パイプのような衝撃。メキメキッと嫌な音が腹の中から響く。もしこの衝撃を頭部に受けていたらと考えると恐ろしくなる。
(こんな力を相手にしてたのかアンテナ女は……っ!?)
改めて彼女の強さに感嘆する。こんな暴虐とも言える力に対抗していたとは恐れ入る。
日色は痛みと地面を転がる衝撃の中、何故かそんなことを考えていた。
それは余裕なのか、それとも現実逃避なのか。
自身で答えを見出せていても、それを認めることはできない。そんな負けず嫌いな性分が、今になって煩わしく感じた。
だが一応自分のできることがやれた。
仰向けになりながらチラリと視線だけを岩壁の上に移動する。そこには大きな火の玉が浮かんでいた。
「…………やれ、アンテナ女」
日色の呟きとともに、小さな太陽がレッドスパイダーに向かって落下した。
「《五ノ段・火群》っ!」
ウィンカァが作り出した紅蓮の塊がレッドスパイダーに直撃する。凄まじい爆発音とともに周囲を爆風が薙ぎ払う。
岩壁に近かったレッドスパイダーは逃げ道がなく、そのまま攻撃を受けたはずだ。
あの熱量に、岩壁を粉砕するほどの破壊力。
これならいくら鋼の体躯をもってしても防ぎようはない。周囲に散る火の群れが気温を上昇させている。
日色はふ~っと大きく息を吐くと、自然に呻き声が漏れるほどの痛みを我慢して俯せに体位を変更する。
そして結果を確認するためにレッドスパイダーがいた場所に顔を向ける。
そこには大きな破壊の跡があり、その上に周囲を火に包まれた状況で立っているウィンカァを視認できた。
だがおかしい。
何故――――――――何故――――――――。
何故ウィンカァがレッドスパイダーの糸に捕まっているんだ――――!
訳が分からない。何が起こったのだ。ウィンカァの攻撃は成功したのではないのか?
そして日色はある光景を見て愕然とした。
それはレッドスパイダーの口元。そこには糸で包まったままのアノールドがピタリと貼りついていたのだ。
そこで理解した。レッドスパイダーは、攻撃が当たる直前、地面に倒れているアノールドを、糸を吐いて引き寄せ、盾にしたのだ。
(バカな……知恵まであるのかよっ!)
元々蜘蛛は狡猾で獲物を獲るためには策を利用する生物である。
しかしまさか人質までとるようなことをするとは思わなかった。
ウィンカァもアノールドの存在に気づいて咄嗟に攻撃方向を逸らしたのだろう。よく見れば、レッドスパイダーは動いていない。その隣が崩壊しているだけだ。
そして大技の後にできた隙をついてレッドスパイダーがウィンカァに糸を吐いて攻撃したのだ。彼女もまた避けきることができずに捕まってしまったということだ。
ウィンカァを捕らえた糸は、彼女の首に巻きついており苦しそうだ。このままでは窒息してしまう。
盾役のアノールドの方はもう用済みと言わんばかりに巣の方へ飛ばしていた。
日色は文字を書いて放とうとするが距離があり過ぎる。何とか場を乗り切る策を考えるが、何も思いつかない。
そうこうしているうちに、ウィンカァはだらりと力無く腕を下ろした。恐らく睡眠効果がやってきたのだろう。
しかしそこへ「アンアンッ!」と聞き覚えのある声とともに青い獣がウィンカァを縛っている糸を噛み千切ろうとしてきた。ハネマルである。
それでもまだ生まれたばかりの幼獣であり、成長したとしてもBランクのモンスターだ。敵うべくもない。
「ハネマル……逃げ……て」
ウィンカァが絞り出すように言葉を出すが、「ガルルッ!」と歯を剥き出しにしてハネマルは糸から離れない。するとそのハネマルに向かって鬱陶しそうにレッドスパイダーが足で払いのけた。
「キャインッ!?」
ハネマルは岩壁まで飛ばされ沈黙した。ウィンカァは震わせながらハネマルを掴もうを手を伸ばすが無論届くはずはない。
そして彼女は最後に日色と視線を合わせ確かにこう言った。
「ごめん……ね」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが破裂したような感覚が走る。
その言葉は――いや、こんな状況でのその言葉は、日色が一番聞きたくない禁断の言葉だった。
『ヒイロ……ごめん……ね』
かつて、自分の命を捧げてもいいから助けてほしいと願った人の最後の言葉。
「うわァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアッ!」
凄まじい咆哮を上げ、日色は気づいたら痛みを忘れて立ち上がっていた。
「うおォォォォォォォォッ!」
レッドスパイダーに向かって走り出す日色。しかし刀は手元にない。刀はレッドスパイダーのすぐ近くに落ちている。
レッドスパイダーが吐く糸を見事に搔い潜り、地面を転がりながら刀を手にする。
そしてそのまま振り回された足をしゃがんで回避し、相手の顔に向かって斬撃を振るう。
――キィィィィィィンッ!
やはり傷一つつかない。
「ならこれならどうだァァァッ!」
自分でも信じられないくらい素早く『軟』という文字を書き敵に向かって発動させ、すぐに同じように斬撃を加えることができた。
――ブシュゥゥゥゥゥッ!
ようやくだ、ようやく相手にダメージを与えることができた。しかしまだだ。まだ右眼を奪っただけだ。このまま命まで刃を届かせるにはまだ足りない。
日色はそこから素早く離れると今度は刀身に『伸』を書く。これは発動すれば刀身が畳で四畳分ほどの約八メートル伸びる効果を持つ。
このまま貫いてやると刀を伸ばしたが、相手も素早く動けることを失念していた。
「がはっ!?」
またもあの衝撃が、今度は背中に走る。
メキキッと骨が軋む音が背中から響く。そのまま前方へと転倒し激烈な痛みが全身を貫く。
(くっ……そ……っ!)
やっと手が届いたと思ったのに……日色は悔しかった。だがもう身体は動かない。徐々に痛みを越えて、もう何も感じなくなってきている。
そしてついに日色は、レッドスパイダーの糸に捕まってしまった。
※
その頃、少し離れたところで待機していたススは、膝を抱えながらずっと日色たちの無事を祈っていた。
突然大きな破壊音が聞こえ恐怖を覚えたが、皆が帰って来ることを信じて待っている。
その爆発音の後、慌てたようにハネマルが向かって行ってしまったが、無事だろうかとススは身体を震わせながら一人でも逃げずに待っていた。
すると今度は火を消したように静けさが訪れる。
「もしかして……終わったのかな?」
確認しに行ってみたい。だけど怖い。足がこれ以上前に進むことを拒否しているのだ。でも彼らは熊人のために命を懸けてくれている。
それなのにいつまでもジッとしてていいのだろうか。行くか待つか、ススが選択を迫られている時、
「ススちゃん」
「ひぃっ!?」
突然肩をポンと叩かれ、モンスターがやって来たと思い「いやぁっ!」と叫び、その場から逃げ出そうとするススだが、
「わ、わたしだよススちゃん!」
「いやぁっ……え? わた……し?」
頭を抱えたままススが振り向くと、そこにはミュア・カストレイアがいた。
「ミュアちゃん? 何でここに?」
ススが突然現れたミュアに疑問をぶつける。
「うん、大変なんだよ! ルッソさんが陣痛で倒れてしまって!」
「ええっ! ママが! だ、大丈夫なの!」
「う、うん! た、多分もうすぐ生まれる前兆だって村長さんは言ってたから」
「そ、そうなんだ……」
ホッとした様子で息を吐くスス。
「だからそれを伝えるためにここまで来たんだよ!」
「あ、ありがとうねミュアちゃん。そっか、お母さん頑張ってるんだね」
ミュアは道の先へと視線を向かわせる。
「ヒイロさんたちはどうかな?」
「え、えっとそれがね……」
先程から静かになったことをススから聞いたミュアは、しばらく考え込んだ後、覚悟したように頷くと、
「様子を見てくる」
「えっ!? あ、危ないよっ!」
「でも音がしなくなったんでしょ? もしかしたらモンスターを倒してみんなを救出しているかもしれないし、手伝わないと」
「そ、そうなのかな?」
「うん、きっとそうだよ!」
「で、でもやっぱり怖いな」
「それじゃこうしよ!」
ミュアはススとしっかりと手を繋ぐと、ニッコリ笑ってススの不安を少し和らげるように努めた。ススも少し強張っていた表情が緩む。
「わ、分かった。は、離さないでねミュアちゃん!」
「うん!」
二人は音を立てずに静かにゆっくりと、石橋を叩いて渡るように進んでいった。
そのまま曲がり角の直前に、二人は深呼吸して岩の隙間から広場の様子を見た。
そしてミュアたちの眼前には驚くべき光景が広がっていた。
※
ミュアがススと出会う少し前、日色は途切れゆく意識の中で、自分が今、蜘蛛の巣に貼りついている事実を理解した。目だけを動かすと、近くにアノールドやウィンカァの姿を捉える。
頭の中では後悔で一杯だった。
去り際を見誤った。死ぬわけにはいかなかったのに、熱くなってしまって結局ここでこうしてしまっている。
身体はピクリとも動かない。それどころか感覚すらほとんどない。
ただ眠い――それだけだ。
カサカサカサカサと何かが近づく音がする。見ればレッドスパイダーが日色を見下ろしていた。
(そうか…………オレからか)
一番傷つけたのは自分だから仕方無いかとまるで他人事のように頭は冷えていた。
レッドスパイダーの口からは溶解液のような涎が流れ落ちている。
このまま溶かされてレッドスパイダーの栄養分になってしまうのだ。
つまりは――死。
何もかも相手が上だった。結局考えが甘かったのだ。
弱肉強食の摂理を甘く見てしまっていた。
何もかもが手遅れだった。
(死ぬ……死ぬの……か)
ゆっくりと、日色は諦めたように目を閉じた。何故だろうか、妙に頭の中は冷えていた。
もっと恐怖で怯えてしまうのかとも思ったが…………やはりまだ実感が湧かないのだろう。
すると誰かの声が聞こえる。聞いたことのある声だ。懐かしい声だ。一番大好きだった人の声。
だがもうどこにもありはしない声。二度と聞くことができない声。
それなのに頭の中にはその声が響く。鮮明に。
これはそう、いわゆる走馬灯と呼ばれるものなのかもしれない。
その人は必死で何かを訴えている。誰に?
(……オレにだ)
では何を?
『ヒイロ……ごめん……ね』
ドクンと心臓が脈を打つ。そうだ、これがあの人の最後の言葉だった。だがふと違和感を覚える。
――――――――本当に最後だったか?
(…………違う)
最後じゃない。まだ…………あった。そう、そうだ。あの人は最後に笑ってこう言ったんだ。
『真っ直ぐ生きなさい……ヒイロ』
ドクンドクンと死ぬことを拒否するかのように心臓が高鳴る。
胸の中心に、何かが灯った。
温かく眩い何かが。それがまるで波紋のように全身に広がっていく。
(……そうだ。オレは……死ねない。まだやり切ってない。したいこと、全部できてない。まだまだ突っ走りたい道が残ってるんだっ!)
日色は全身が火傷しそうなほど熱くなっていくのを感じる。だが不思議と心地好い。まるでそれは太陽と一体化しているかのような感覚。
レッドスパイダーが今まさに日色を食べようと口を開いたその時だった。
――――――――――――――――――――――日色を包んでいた繭が黄金の光に包まれた。




