210:暴走する日色
刹那、日色の身体が弾けたかのように真っ赤な液体を周囲へと散開する。もしそれが血液なら、即死間違いないほどの血液量。
日色を中心にしてその液体は大地を汚し、日色自身はというと、まるで闇を纏っているかのような黒い霧状のものが身体を包んでいる。そして大地に広がった赤い液体が、驚くことに日色の足元へと移動していき、日色の身体を赤が覆っていく。
「ウオォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!」
大地を割り、大気を震わせるほどの咆哮。日色の叫びには憤怒と憎悪だけが込められている。
「ぐっ!? な、何だこの変わり様はっ!?」
アヴォロスも真っ赤な液体に全身を包んだ日色の姿に見覚えがないようで吃驚している。
ペチャペチャペチャペチャ……と、歩く度に液体を踏みしめる音が日色の足元から鳴る。まるでモンスターと見紛うほどの形態にアヴォロスは身体を引き、その場から距離を取る。
アヴォロスの強張った表情で動揺しているのを見て、ヴァルキリアシリーズの01号と03号が空から降り立ち日色と対峙する。
「陛下、お下がり下さい」
「ここは私たちが様子を見ます」
二人の言葉にアヴォロスは「ああ」とだけ答える。01号が両腕を刃物状に形態変化させて日色へと突っ込む。そのままグサリと日色の身体を貫いた。
「…………死ね」
01号の背中が弾け、そこから赤い核が放出され粉々に砕け散る。ガクッとそのまま仰向けに倒れた01号の胸には血で書いたような文字――――――『死』と刻まれてあった。
「なっ!? 『死』の文字だと!? それはシンクも書けないと言っていたはずだっ!」
アヴォロスが愕然としながら叫ぶが、日色の歩みは止まらない。続いて03号が日色の背後を取り頭の部分にハイキックを与えるが、少し首の部分が傾いただけで終わる。
背中の部分から手のようなものが伸びて03号の首を絞める。首を絞めている液体が、胸の方へ零れ落ちていき文字を形成していく。
『滅』
これも普段なら日色が書けなかった直接的に命を奪う文字。発動したあと、03号の身体が、まるで砂でできていたかのように崩れ落ちていく。
「『滅』まで……ヒイロ、貴様は一体……っ!?」
「殺す……殺す……殺す……すべてを殺し尽くしてやるっ!」
黒い瞳のようなものから不気味な光が放った瞬間、体中に『死』の文字が次々と生まれていく。それが独りでに身体から剥がれていき、日色の顔の前で文字がドンドン集まっていく。『死』の文字だけを凝縮して作られた球体ができあがる。
日色は拳を上げてその球体を力一杯殴りつけると、前方にいるアヴォロスへ向けて飛んでいく。
「マズイッ!?」
球体の危険度を察知したのか、アヴォロスは即座にその場から空へと逃げた。ターゲットを失った球体はそのまま真っ直ぐ飛んでいき、岩、山、木々を貫き、湖に落ちた。
貫かれた岩や山は灰化して消え、木々は一瞬で枯れて腐ってしまった。そして湖。
上空から見ていたアヴォロスはギョッとする。巨大な湖に広がる澄んだ水の色が、まるで毒そのものかのような色合いへと変化して、湖に住む生き物たちがプカプカと浮いてくる。さらにその湖の周囲に咲き乱れていた花々も無残に枯れていく。死が湖を中心にして広がっていっていることが理解できる。
「アレを受ければ、余もただでは済まぬな」
初めてアヴォロスが恐怖を感じて喉を鳴らした瞬間だった。
※
荒廃した大地が広がりを見せる――【ヤレアッハの塔】。
ただそこには死んだような土地と巨大な塔だけが存在する天上の場所。その大地の上に身体をバラバラにされて転がっている存在がある。ヴァルキリアシリーズの02号だ。
すでに絶命しており、どこからともなく吹く乾いた冷たい風が運んできた砂に身体が埋まっていく。
もう一人、そこに立っている人物がいる。
「ほう、予定とは違っていますが、これはこれで愉快な状況になっていますね」
名を――ペビン。
02号を始末した自らを『神族』と称する男。今そのペビンが一つの大岩に興味深い視線を向けている。別に大岩が面白い形をしているなどの特質があるわけではない。
岩に映し出されている映像を見て感嘆の息を漏らしているのだ。
ここ【ヤレアッハの塔】と【イデア】は隔絶されている関係にある。そこから身を乗り出しても【イデア】を隈なく観察することはできない。
だがペビンは、大岩に外界の映像を映し出すことで情報を得ることに成功している。今、その岩には日色が怒りと憎しみによって暴走し、アヴォロスを追い詰めている様子が映っている。
「しかし、まさか《不明の領域者》に足を踏み入れることができたのが異世界人だとは……これも因果ですかねぇ」
ペビンにとって【イデア】とは遊び場に他ならない。だがただの遊び場ではない。その遊び場を使ってある目的を遂行させるための重要な星でもある。
「アヴォロスさんに到達の因子があると思っていたのですが……どうやら《アダムスの核》だけでは足りなかったようですね」
顎に手をやりながら、相変わらずの糸目を映像に向けたまま軽く首を傾げている。そこへ背後からカツ、カツ、カツとゆっくりな足取りでペビンに近づく存在がある。
ペビンも気づき振り向いて確認する。
「……ああ、あなたもご覧になられますか――――――――――――ハーブリード様?」
もしここにイヴェアムや他の『魔人族』がいたら驚愕してしまうだろう人物がそこに現れる。ハーブリード――――――彼は死んだはずの人物であり、魔王を支える軍の一つ ハーブリード隊の隊長だった青年だ。
「いやぁ、何だか面白そうな展開になっているみたいだから下りてきたよ」
「それより良かったのですか? あなたがお作りになった分体、下で死んじゃいましたよ?」
「いいんだよアレは。そもそも暇潰しで送り込んだようなものだしね」
「まあ、初めてあなたを見た時はさすがに驚きましたけど」
「だろうね、うん」
「それでもあなたというスパイがいたお蔭で、《マタル・デウス》としては動き易くて助かりましたけどね」
ペビンとハーブリードは繋がっていた。この繋がりを知るのはこの二人だけ。アヴォロスも知らない。
ペビンはハーブリードと密にコンタクトを取り合って、アヴォロスが戦争を起こすための戦力を増やす手伝いや、《奇跡連合軍》の動きなどを把握していた。
ただペビンは手に入れたすべての情報を余すことなくアヴォロスに伝えたわけではない。より戦争が面白くなるように情報を操作して盛り上げようと画策していた。まるでゲーム感覚のごとく。
「でもまさかあなたが『神人族』だとは誰も思わなかったでしょうね?」
「それはこっちのセリフだよペビン。君こそ、地上では謎めいた研究者とか訳の分からないことを言っているみたいじゃないか」
「手厳しいことを言いますね。僕の立ち位置はいつも謎めいた研究者ですよ?」
「ま、そういうことにしておこうか。ところで、何故わざわざこちらに戻って来たんだいペビン?」
「あなたに会いに来たんですよ。どうもシナリオが崩れ出しているようなので、もしかすると……とね」
「なるほど」
ハーブリードが大げさに肩を竦めると、そのまま視線を映像へと移す。
「……どうもイヴァライデアが手を出したようでね」
「やはりヒイロ・オカムラが再び戻ってきたのもそのせいですか?」
「みたいだ。封印指定を受けているはずなのに、我々が関知できない場所へ手を伸ばし勇者召喚したり、自身の力を分け与えてイレギュラーを作ったりと、さすがは元【イデア】の創造神といったところかな」
「そうですね。我々も最初は本当にヒイロ・オカムラが勇者召喚に巻き込まれてやってきたと思わされていましたからね。ですが彼が《文字魔法》を使った瞬間、一瞬思考がストップしたのを覚えてますよ」
「《文字魔法》……かつて創造神イヴァライデアが扱い世界を創造した御力。僕らも何とかその魔法を解析してものにしようとしたが……」
「いまだ上手くいかず……ですもんね」
ペビンがやれやれと頭を左右に振る。
「恐らく……【ヤレアッハの塔】にある《開かずの間》――――――通称《イヴダムの小部屋》にイヴァライデアは自らを封印しているはず。彼女を捕らえることができれば《文字魔法》のすべてが僕らの手中に……」
ハーブリードが塔の最上階を凝視しながら腕を組む。そんな彼の言葉を継いでペビンが口を開く。
「ですが、調査した結果、そこを開けられるのは《不明の領域者》と呼ばれる存在だけ。やっとその因子を持つ存在を見つけて育てていたのですが、まさか我々の候補者よりも先に異世界人が達するとは驚き過ぎて顎が外れるかと思いましたね」
「いやぁ、実は彼――――ヒイロ・オカムラが因子を持つ可能性があることは分かっていたんだよねぇ」
「それはどういうことですかハーブリード様?」
「あのイヴァライデアに見込まれた人材なんだよ? しかもこちらが監視していた勇者ではないイレギュラーな存在。因子を持つ可能性は高いはずでしょ」
「では何故最初から彼を使おうとしなかったのですか?」
「いやぁ、アレ扱い辛いでしょ?」
アレ呼ばわりされる日色。
「だって、先代のシンク・ハイクラと全然違うじゃないかアレ。何だか何をしても折れない大樹を見てるような……」
「ああ、確かにシンク・ハイクラは心が脆かったですからね。操作はし易くて助かりました」
「だよねぇ。だがヒイロ・オカムラは持ち前の心の強さをいかんなく発揮して、どんな障害も乗り越えていくものだから、扱い難いと思って放置しておいたんだよ」
「まあ、元々アヴォロスが最重要候補者でしたからね。今更彼を捨ててヒイロ・オカムラに軌道修正はしにくかったですね」
「そういうこと」
ハーブリードがペビンの横に並び、映像に映し出されている変わり果てた日色を見つめる。
「《塔の命書》から外れた存在――――――《不明の領域者》。我々が一切操作することのできない無二の存在がまさか異世界人とは驚きだけど、こうして見つかった以上は彼を使うという手もあるかな」
「ではハーブリード様、アヴォロスの方はもうよろしいのですか?」
「……いや、たとえ《不明の領域者》でもアヴォロスに破れて死ぬようじゃダメでしょ。その時はシナリオ通りにアヴォロスを《不明の領域者》へと押し上げる計画を進めるだけだね」
「そうですね……だからこそ、鬱陶しい壁である月の模造品をアヴォロスを利用してまで破壊させたのですから。彼にはこちらの期待に応えてもらいたいですね」
「イヴァライデアが塔の力を押し込めるために作った壁の月。アヴォロスもまさか、自分の手で『神人族』の力を強化したとは思ってもいないだろうね~」
「いえいえ、彼は結構強かですよ? それを承知で壁を壊した可能性もあります。何といっても彼もまたシンク・ハイクラの魔法により《不明の領域者》の因子を持つ者なのですから」
「確かに……じゃあ結果が出るまでしばらくはこの戦いを楽しもうか」
「ええ、どちらが勝っても我々のシナリオは揺るぎませんし。神王様も壁が壊れたお蔭で目覚めることができるでしょうしね」
ペビンが不気味な笑みを浮かべて塔を見上げる。ハーブリードもまた楽しげに口角を歪める。
「神王様がお目覚めになれば、【イデア】は完全に『神人族』のものになる。それが楽しみで仕方ないよ。いやぁ、本当に楽しみだなぁ」
だがその時、ゴゴゴゴゴゴゴと大地が揺れ始める。
「!? ……何です?」
「これは……ペビン! 塔がっ!?」
二人が塔を視認して得心する。大地が揺れているのではなく、塔が大きく振動しているらしい。その揺れが大地を伝っているだけ。
何が起きているのか二人には把握できず唖然としていると、足元から大地と同じ月色の巨大な蔓が伸びてきて塔を絡め取っていく。
「「なっ!?」」
二人して驚愕の表情を浮かべる。塔の外観が一切見えなくなるほどの巨大な蔓が無数に現れ、塔に入ることができなくなってしまった。
「これは一体…………ハーブリード様?」
「……恐らくイヴァライデアの仕業だろうね。我々が塔の外に出たことを知り、中に入れないようにしたのかも」
「では《塔の命書》を使って地上人を操作することは……」
「できない……かな」
「……これは一本取られた、といったところでしょうか」
「まあ、だけど中には神王様がおられる。あの方が目覚めるまでの辛抱。それまで我々は外界の様子を見て楽しめばいい」
「ずいぶん気楽ですね? どうやら転移魔法陣も使えなくなっていますよ?」
「いいじゃないか。どちらに転がっても、僕らに届く存在など皆無なんだから」
「……だといいですけどね」
ペビンは少なからず感じる焦りを胸に呑み込んで再び映像に注目することにした。
※
明らかに普通でない様子―――暴走した日色を目にしたイヴェアムたちは言葉を失っていた。異常なほどまでの殺意や悔恨、それは魔神を初めて見た時に感覚として伝わってきたものと酷似する。
今、日色を支配しているものが、負のエネルギーだということは誰の眼にも簡単に理解できた。
「し……師匠……?」
ニッキは己が師が変わり果てた姿になっていることに愕然とする。先程までアヴォロスの攻撃の余波を受けて気を失っていたが、ヒメにより意識を回復することができた。その時のヒメの強張った表情を見て、その理由に日色があるということが彼を見てすぐに分かった。
「イ、イヴェアム殿……ヒメ殿……師匠……師匠ですよね……あの方は?」
「そうよ。完全な暴走状態ね。あんな暴走の仕方、初めて見たけど」
ヒメの説明で、日色が自分の本意ではなく暴走していることが分かる。彼女は一部始終を見ていたからだ。またイヴェアムも見ていた。ミュアが殺されて、日色が我を失うほどの怒りに身を任せてしまっている。
「ヒイロ……」
イヴェアムは静かに大地の上で眠るミュアへと視線を移動させる。
「あなたは……ヒイロにここまでさせられる存在なのね……」
イヴェアムの胸中ではどういう想いが渦巻いているのかは彼女にしか分からない。他人に興味を持たず、自分勝手に突き進む日色が、これほど激情にかられてしまうとは、それほどミュアという存在が彼にとって大きなものだということ。
それが羨ましいのか、それとも日色が人を愛することができる感情がしっかりあるということが明確になって嬉しいのか。はたまたその両方か……。
「ヒイロ……止める。あれは……ダメ」
そこへウィンカァ・ジオが槍を支えにしてニッキたちのもとへやって来ていた。体中に激しい傷を負っているものの、意識はハッキリとしている。彼女を支えるように、スカイウルフのハネマルが隣で彼女の身体に触れながら歩いている。
「あなたは確か……クゼル殿の娘さん」
「魔王……ウイはヒイロを止めたい。あのままじゃ……悲し過ぎる」
「クゥ~ン……」
ウィンカァの顔が悲しみに支配されている。それは日色を想ってのこと。
「ヒイロ、このままじゃぜんぶ呑み込まれる。そんなの……ミュアも悲しむ」
「あなた……」
イヴェアムは彼女の真摯な想いに下唇を噛む。彼女の日色を想う気持ちにショックを受けているような様子だ。
「ウイは……行く。ヒイロを守るから」
歯を食い縛って痛みに耐えながらも、ゆっくりとした足取りで日色のもとへ向かおうとするウィンカァ。
「ボクも行くですぞ! 師匠が困ってる時に助けるのが弟子の役目ですから!」
「……弟子? ヒイロの?」
「そうですぞ! あなたは何ですかな?」
「ウイは、ヒイロの部下。ヒイロは、ウイの王」
「おお! ではカミュ殿と一緒なのですぞ!」
「カミュ……?」
アヴォロスの攻撃によってどこかへ吹き飛ばされてしまったが、その際に砂でガードしていたので無事だろう。
「ここから離れるわよっ!」
突如としてヒメから叫び声が皆の耳をつく。その原因は日色にあった。皆の視線が原因へと向く。
遠目に見える日色だが、彼の身体を覆っている赤い液体がブチブチブチブチと、まるで皮膚を引き千切るような音とともに身体から部分的に離れていく。よく見ると何か文字が形成されてあり『滅』という文字が体中に刻まれ、それが身体から離れているようだ。
それが彼の頭上に次々と集まり球体を成していく。すると彼が球体を上空へ向けて殴り飛ばした。狙いはアヴォロス。しかしアヴォロスも素早い動きでかわしていく。
だが一度かわしたと思ったら、追尾機能がついているようでアヴォロスに当たるまで追っていく。
「ちっ!」
舌打ちをしながらアヴォロスは魔力を放出し壁を作るが、球体に触れた瞬間に壁が粉々に打ち砕かれ消失する。球体は威力を一切落とさぬままアヴォロスへと向かっていく。
ビュンビュンビュンッと何度も風を切るような動きで飛行し回避行動をとるアヴォロスだが、このまま避け続けることはできないと思ったようで、何度も球体に対して攻撃を繰り出すが、その度に攻撃の方が消失していく。
「…………《死玉》……散れ」
日色から響くような声が放たれると同時に、球体がアヴォロスの上空で花火のように破裂してしまう。だがそれは《死玉》と呼ばれた日色の攻撃が失敗に終わったのではなく、まさにこれから第二段階が行われようとしていた。
弾かれた《死玉》だが、細かい欠片となって大地に降り注ぐ。その欠片一つ一つは『死』という文字を形成している。その一つが木に触れた瞬間、バサッと砂状になって大地に流れる。大地に当たると、文字を中心とした半径五メートルほどの範囲が灰化し荒廃していく。
まるで死の雨とも言えるほどの惨状。敵味方問わず降りかかる災いに、イヴェアムたちも何とか魔法で身を守りながら逃げる。
だがその時、イヴェアムは確かに見た。仲間に当たる瞬間、『死』の文字がバチンッと弾けて消えるのを。
「ヒイロ……あなた……!?」
あんな状態になってもまだ、仲間を殺したくないという意識が残っているのだ。だからこそ、仲間に文字が当たる寸前で消えるようになっている。
それは他の者も気づいたようで、日色の恐怖の権化のような攻撃にも温かさを感じて呆然と立ち尽くしてしまっている。
「やっぱりダメ。ヒイロを、止める」
「ど、どうしてですかな? 師匠は仲間たちには効果のない攻撃をしてるのですぞ? もしかしたらアヴォロスだって……」
ニッキの言葉にウィンカァは首を左右に振り、日色を指差す。皆が彼に視線を向ける。
「ヒイロ、泣いてる。心を、削ってる」
「……え?」
「このままじゃ、ヒイロがダメになる」
他の者にはウィンカァが言っている言葉の意味は分からないかもしれない。だが彼女にしか分からない何かを日色から感じ取っているのだろう。それでこれ以上放置すれば、日色が死んでしまうと彼女は言っているのかもしれない。
「……そうね。確かにヒイロは私たちを守ってくれてる。でもやっぱりあれは普通じゃないわ。伝わってくる……ヒイロはずっと泣いてるわ。苦しくて、辛くて、悲しくて……それでも行き場のない感情を……心を削ってる……そう言いたいのよね?」
「ん……」
イヴェアムの問いにウィンカァが首肯する。
「それに、このままだとヒイロの攻撃で大地がすべて死んでしまうわ。ヒイロも大地も守るために、彼を戻さなきゃならないわ」
イヴェアムの決意に皆も息を呑む。今の日色を止めるのは容易ではない。一撃受ければ死んでしまうかもしれない攻撃を日色は先程から放っているのだ。もしかしたらその攻撃を受けて死んでしまうかもしれない。
もしそれで死んでしまえば、日色はさらに狂ってしまう可能性もある。いや、間違いなくそうなるだろう。そうなってしまえば、もう誰も止めることができない。
「だから、この中でまだ軽傷の私が行くわ」
「そ、そんな! ボクだって師匠を!」
「ニッキ、そんな身体で無茶を言わないの」
「で、ですがヒメ殿……」
「仮にアイツの力を受け、貴方が死ねばアイツがどれだけ苦しむか分かるでしょ?」
「そ、それは……」
ニッキは悔しそうに顔を俯かせ拳を震わせている。正直、この場にいる誰もが無傷ではなく、戦闘不能に近いダメージを負っている。比較的まだ軽いイヴェアムなら、戦場を動き回ることはまだ可能である。
「みんな、私がヒイロにみんなの気持ちを伝える。だから私が最後まで立っていられるように祈ってて!」
イヴェアムの真剣な眼差しに、反論できる者はいなかった。
「ウイも行きたい……だけど……任せる」
「ボクも……ですぞ」
「ありがとう……。必ずヒイロを助けてみせるわ! 魔王の名に懸けて!」
イヴェアムは覚悟を言葉にして日色のもとへと向かって行った。
イヴェアムはまず日色の近くに行き話しかけることを決める。だが迂闊に近づいてしまうと、本能的に攻撃を仕掛けられて即死ということも十分可能性としてはある。
なのでできるだけ今の日色を刺激しないようにそっと近づくことにする。空にいるアヴォロスを警戒しながらも少しずつ……少しずつ。
日色が再び動き出し、今度は身体中に『消滅』の文字が浮かび始める。今度もまた同じように一つに纏めて球体を作るのかと思ったら、今度はそれを細長く繋ぎ合わせて手に持った。
まるで日色が使っていた刀のような形状。すると日色が大地を蹴り上げてアヴォロスに突っ込む。
(ヒイロッ!?)
せっかく近づいたというのに、上空へ跳び上がってしまい距離が離れてしまったことを悔やむ。しかしこのまま黙って見ているだけはできない。イヴェアムもまた背中から翼を生やしてフワリと宙に浮く。
そこでふと大地に横たわっているミュアを視界に捉える。
(ミュア・カストレイア……あなたとはもっとお話してみたかったわ)
きっと彼女となら大いに話に花が咲くだろうと思った。だがそれももう叶わない。今できることは、彼女の意志を引き継ぎ、日色を支えること。
イヴェアムはゆっくりとミュアのもとへ向かうと、ダラリと垂れている彼女の両手を、彼女の胸の前まで祈るような格好で組ませた。
(あなたの勇気、少しだけ分けてもらうわね)
彼女のように好きな人のために恐怖を押し殺す勇気を出す。大きく深呼吸すると日色を追って飛び上がる。
前方では日色が、手に持った『消滅』の文字を繋ぎ合わせて作った刀でアヴォロスを攻撃している。
「ちっ!」
さすがのアヴォロスも、当たるわけにはいかないようで必死に連撃を回避している。
(つまりあの文字は一度受けたらアヴォロスでも死にかねないということなのね)
イヴェアムには文字の形は理解できても意味までは把握できない。ただアヴォロスがあれほどまでに避け続けるということは、魔神を取り込んだ彼でも危険度の高い文字だということが分かる。
(でもそうしたら何故今まであの文字を使わなかったのかしら?)
思うは疑問。暴走する前に、あの文字を使っていれば、もしかしたらアヴォロスを倒せたかもしれないとふと思った。
だがそこで日色の今の状況を見て一つの仮説が立つ。
(あの刀だけじゃなく、ヒイロの全身からも、目を背けたくなるような悲痛なオーラが溢れ出てるわ。もしかしたらあの状態にならないと書けない文字なのかも)
あれほどの負のオーラが、普段平然として扱えるとは思えない。それこそ心を砕き憎しみに支配されているからこそ生み出せる力のような感じがする。
今の日色はまさに魔神と同じような負の塊。そうでなければ使えない文字。あるいは、命そのものを削って作り上げている文字なのかもしれない。
(だとしたら、一刻も早くヒイロを目覚めさせないと!)
もし命を縮めているのであれば、一刻の猶予もない。このままではたとえアヴォロスを倒すことができても日色が死んでしまう可能性がある。
(そんなことはさせないわ! ミュアのためにも……それだけは絶対にさせないからっ!)
イヴェアムは速度を上げて日色へと突っ込む。そんなイヴェアムにアヴォロスも気づいたのか、ハッとなり反応を示す。だがイヴェアムに注意を向けている場合ではないようで、紙一重に日色の攻撃を上体を逸らして避ける。
「くっ! 調子に乗るなよヒイロ!」
少し上空に浮かんでいる日色の顔の前に右手をかざすと、
「《滅却大砲》っ!」
魔神の十八番である赤黒い球体を作り出し日色目掛けて放つ。
「……ムダだ……」
日色の暗く低い呟き。彼の全身を覆っている血液そのもののような物体に文字が次々と形成されていく。
『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』『吸収』
およそどれほどの文字数が刻まれているのか確認できないほどの文字が一気に生まれ、驚くことに山をも一息で消し去るほどの《滅却大砲》を自身の身体に取り込んでしまった日色。
「な……何だとっ!?」
吸収した日色のエネルギーがさらに高まる。どす黒いオーラが日色の身体から滲み出て、益々負の力を強大化させてしまった。
(吸収……した? そうか、魔神の攻撃も負のエネルギーだから、今の日色にとっては取り込めるエネルギーなのかもしれないわね。でもそれって……)
そんなことをし続ければ確実に負の重圧によって心が押し潰されるはず。力は増しても、二度と元の日色に戻れない予感がイヴェアムの脳裏を過ぎる。
(それじゃダメよヒイロッ!)
イヴェアムが日色とアヴォロスの間に入り、日色に向かって腕を広げる。
「ヒイロ! もう止めてっ!」
そんなイヴェアムの行動にアヴォロスも言葉を失っている。それもそのはずだろう。ハッキリ言って今の状況、イヴェアムがアヴォロスを庇っているように見えるのだ。
明らかに優勢なのは日色。それを止めるということはそう見られてもおかしくはない。ただもちろんイヴェアムにアヴォロスを庇う気持ちなど微塵も無い。
あるのはただ日色を助けたい。それだけ。
「……どけ……」
「っ……どかないわ!」
「……邪魔を……するな……」
日色から放たれる異様なまでの濃い殺気に、イヴェアムの身体は震え上がる。まるで心臓を掴まれているかのよう。いつでもどこでも殺すことができるという意志が強烈に伝わってくる。
「ヒイロ……聞いて。あの子を……ミュアを思い出して」
「……ミュア……」
「そうよ! あなたを命を張って守った女の子のことよっ!」
アヴォロスも日色が動きを止めたので眉間にしわを寄せながら見守っている。
「……ねえヒイロ、あなたが今、とても悲しんでいるのは分かってる」
「…………」
「大切な人を守れないで、無力感に苛まれているのも……だけど、こんなのヒイロじゃないよぉ」
イヴェアムの両の目から流れ出る涙。キラキラと輝くそれを目にした日色は地上に落ちていく涙を一瞥して、再び視線をイヴェアムへと戻す。
「ヒイロ……っが……みんなっの……ために……戦ってくれてるのは……分かって……る」
顔をクシャクシャにしながらもイヴェアムは日色に語りかける。
「で……でも…………わたっ……しは……あのヒイロがいいよぉ……!」
一瞬日色の顔が歪んだかと思うと、
「……だ……まれ……!」
手に持った刀をイヴェアムに突きつける。
「ヒイ……ロ……」
「……だまれ……だまれ……だまれ……オレは……すべてを……殺し尽くすっ!」
そのまま刀を振りかぶりイヴェアム目掛けて振り下ろす。しかしイヴェアムは真っ直ぐ日色を見つめたまま動かない。
ピタッ――――と、イヴェアムの頭上で刀が止まる。
「……ぐ……何故……避けない……」
「だって……ヒイロなんだもん」
「……くっ……うぐぐ……クソがっ!」
日色がその場で刀を横一閃に振った。イヴェアムの鼻先に触れるか触れないかギリギリのところに切っ先が通過する。ブワッと生温かい風がイヴェアムの身体を突き抜け、ハラリハラリとイヴェアムの美しい金髪が肩のところから切られて地上へと舞い落ちていく。
それでもまだイヴェアムは動かない。いや、ゆっくりと日色へと近づき、
「ヒイロ……戻って」
彼を優しく抱きしめた。
するとヒイロが小刻みに震え出し唸り始める。イヴェアムは力いっぱい彼を放さないように抱きしめる。
「大丈夫……大丈夫だから……。ミュアも、こんなヒイロを望んでなんかいないわ」
「……ミュア…………………………チビ……」
「うん。彼女のためにも、戻ってきてヒイロ」
イヴェアムの頬から落ちる涙が日色の身体へと落ちた。
「……お前…………魔王……か……」
すると突然、日色の右手の甲が黄金色の輝きを放ち出す。そこで日色は視界に捉える。前方から迫ってくるアヴォロスの姿を。
このままイヴェアムごと、魔力で作り上げた剣で串刺しにしようとしているようだ。
「――――――させるか!」
日色からいつもと同じような声音が響く。刹那、日色の右手から放たれた黄金色の輝きが周囲へと広がりアヴォロスを弾き飛ばす。
「な、何ィィッ!?」
そのままアヴォロスは大地へと吹き飛ばされていく。
「ヒ、ヒイロ……?」
イヴェアムも何が起こっているか分からない。分かっているのは、日色から放たれる優しい穏やかな光。
その光が彼の右手の甲に書かれてある文字――――――『絆』から放たれていること。
だがその時、地上から禍々しい殺意を感じた。
「アヴォロスッ!?」
見ればアヴォロスが巨大な《滅却大砲》を放とうとしていた。
「イヴェアムもろとも消し去るが良いわっ!」
放たれた《滅却大砲》。その凄まじさに愕然とするイヴェアム。逃げ道がない。
「ヒイロ、何とかしてここから――」
その時、イヴェアムは確かに聞いた。
「――――――問題無い」
無愛想で感情の分かりにくい声。それはイヴェアムが今、一番聞きたい言葉でもあった。
「きゃっ!?」
突如、目も開けてられないほどの閃光が日色から溢れ出る。
(……何……まるで太陽に優しく包まれてるみたいな気持ち……)
イヴェアムを包む優しき光。思わず涙が零れ散るほどの安心感。
気がつけば、イヴェアムは誰かに腰を抱えられていた。いや、誰かなど確認しなくても分かる。
それは――――――。
「バ……カな……っ!?」
アヴォロスが驚愕に顔を歪めて天を仰ぐ。そこに浮かぶ一人の少年。
「……助かったぞ、魔王」
「ヒイロッ!」
イヴェアムを包み守っていたのは、日色の背から生えた黄金の輝きを放つ翼だった。




