悪魔の不貞寝
辰巳の大きな手が何度も何度もあたしの頭をなでていく。その優しい感触にささくれだつ気持ちがほんの少し和らいだ。
「今日は大変な目にあってしまいましたね」
「うん……」
あたしは辰巳の膝の上につっぷして不貞寝をしている真っ最中だ。
お茶菓子を用意して帰りを待っていた辰巳は、あたしの顔を見るなり、ぽんぽんと正座した自分の膝を叩いた。あたしは迷わずそこに滑りこむ。
布越しにくぐもりがちになりながらも、あたしは今日あったことをとりとめもなく話し続けた。辰巳は時折手の動きをぎこちなくする。東条に追いかけられた話をしたときなんて、びしっと音がするかと思う位固まっていた。きっと心配してくれたのだろう。
だが今日の一番の関心ごとは他にある。
「まさか鷹津が会長になって学園に戻ってくるなんて……」
学内の情報通である松島にメールで聞いたところ、鷹津と雀野の因縁は深いという。
彼らは二年生進級直前の生徒会役員選挙、つまり前々回選挙に共に立候補し、鷹津は大差をつけて生徒会副会長に当選した。その存在感は三年生の会長を圧倒していたという。だが何の気まぐれか、鷹津はそうそうに学園を去り外国へと旅立った。もともと生徒会の構成メンバーは会長、副会長二人、会計、書記の五人体勢だったが、欠けた副会長の仕事は、次点で生徒会役員入りを果たした雀野が書記と兼任することで乗り越えた。
実績をつくった雀野は前回の選挙において会長に立候補し、その当選は確実と思われた。
だがしかし、またもや鷹津の存在が選挙をひっかきまわす。
役員選挙に合わせて鷹津が戻ってくる、との噂が流れたのだ。曰く、留学を決意したのは自分より上の者、つまり会長がいるのが許せなかったからだ。今度こそ学園のトップになるために会長選に立候補するつもりだ。
結果的にそれはデマだったのだが、鷹津のもたらす影響力は凄まじかった。なんと投票の過半数が立候補者でもない鷹津篤仁の名を書き、無効票となったのだ。次点が雀野。もしもその場に鷹津がいれば、鷹津が会長、雀野が副会長ということになっていただろう。
本来ならば投票のやり直しを行い、雀野は正式に生徒会会長に就任するはずだった。だが彼はそれを強く拒否した。
雀野は投票結果を学園の意志としてうけとめ、副会長として代理の会長役を務めることを決めたのだ。
所信表明演説の際、雀野はこう言ったという。
「本来ここに立つべき人物は、今学園にはいない。自分は彼が戻るまでの代わりを精いっぱい務めよう」
「二人は幼馴染でもあるんだそうだ。幼稚園からずっと一緒だって」
「それはなかなか複雑ですね。ライバル関係というより、完全に優劣がついているのですか」
「雀野もけっこう哀れだけど、今はどうでもいい。それよりあたしはどうしたらいいのか」
ぶーっと辰巳の膝に無意味に息を吐き出した。口元が暑くなる。
「美月様なんて大興奮だった。珍しくお昼も放課後も自分からあたしの所へ来て、口を開けば篤仁センパイかっこいい、やっぱりスゴい人だって大絶賛! そこに水を指すのもなぁー。鷹津を近づけたものか、遠ざけたものか……」
「確かに生徒会長となった鷹津様は厄介ですが、とりあえずは相手が動くまで何もしないのが一番では。そこまで目立っているとなると、向こうも慎重になるでしょう」
「そうだな。美月様に気安く接触すれば、あっという間に付き合ってるだの婚約しただの言われちゃう。でもそれが狙いだったらどうしよう……。でもでも、鷹津なら白河じゃなくても選び放題だし、むこうだって物色中だと考えれば美月様がつまみ食いされるようなことがあったら大問題だし……!」
とにかく匙加減が難しいのだ。
白河家としては鷹津家から婿を迎えることは大歓迎。
だけど鷹津篤仁の人格に問題がないかを見極め中なので、思い切った行動にはまだ出たくない。
鷹津家は白河との結婚をどう思っているのか、鷹津篤仁にその気はあるのか。それがわからない。
鷹津の真意を窺いつつ白河の益になるよう画策するなんて芸当、あたしにできるのか。
あまりに荷が重い……。
「……違うな」
あたしはぼそりと呟いた。
「何がです」
「近づける遠ざけるじゃなくて、あたしは鷹津に関わりたくない」
自分で言って納得した。あたしの本音はコレだ。
「だって、あいつヤバいもん。怖いんだもん。気持ち悪い」
得体が知れないのだ。
素直に彼を信じられる者にとっては、鷹津ほど魅力的な統率者はいないだろう。あたしも生徒席側からステージ上に立つ鷹津を見上げていたら、他の生徒たちと一緒になって歓声を上げて拍手していたかもしれない。彼についていけばすべてが上手くいく、そんな気にさせる男だ。あたしだってできるならそうしたい。
でも、幸か不幸かあたしはあの異様な熱から少し離れた放送室にいた。だからこそあの男に対抗しようとしている自分が愚かしくてならない。
「ラスボスレベルじゃん、魔王じゃん! でもあたし勇者じゃないし!」
「倒さないでお姫様を差し出してしまうのはいかがです」
「あたしは勇者じゃないけどお姫様の従者なの! あ~、もう、あたしのこと誘うような性格の悪さがなければ、怖いことは差し置いて素直に美月様との婚約の後押しできたんだけどなぁ~っ!!」
あたしがじたばたと暴れていると、不意にすっと体を起こされた。
「アキラ様」
「へ?」
「俺はそのお話を聞いておりません」
辰巳はあたしを座らせると、ずいっと顔を覗き込んできた。
「鷹津篤仁が、アキラ様に、一体何をしたのです」
「あ、そっか、言ってないか」
「今すぐお話しください」
辰巳の目は恐ろしく真剣だ。嫌な予感。
「え、えと、パーティの時に美月様と鷹津を会わせようと思ったんだけど」
「はい」
「なぜかあたしと偶然会ってしまい」
「はい、それで」
「……口説かれて口の横にキスされた」
ぶわっと辰巳の髪が逆立ったように見えた。
辰巳はすっかり冷めてしまったお茶を手にあたしに迫ってきた。
「アキラ様、今すぐこれでお口をゆすいでください、お茶は殺菌作用があります」
「え」
「いや、お茶じゃ足りない。どっちですか、右ですか左ですか、消毒がいります、薬箱を」
「辰巳、ちょっと落ち着いて」
湯呑みを押しつけた辰巳は勢いよく立ち上がり、部屋をうろうろと歩きまわる。
「きれいにしなくては、アキラ様を。俺のアキラ様。そう、アキラ様の穢れを払うのは……。塩。塩!? 清めましょう、今すぐに! 塩!!」
「落ち着け!」
辰巳はぶつぶつ言いながらミニキッチンをひっくり返して調味料をあさっている。ちょっと尋常ではない。
「昨日のことなんだから、今はもう大丈夫だって!」
「それでもダメです! もう一度お顔をよく洗って……」
「帰ってきてから辰巳の胸でしっかり拭いた! 石鹸でよ~く洗った! それでもあたしは汚れてるっていうワケ!? いいから座りなさい!」
まるであたしが汚いかのような辰巳の言い方に、さすがにムカっと頭にくる。怒気をこめて叱りつけると、ようやく辰巳は動きをとめた。
「……アキラ様は汚れてなんておりません。取り乱して申し訳ありませんでした」
「じゃあ握りしめてる塩を離しなさい」
「……はい」
辰巳はやっと座り直したが、まだ思うところがあるのだろう、あたしの口元におずおずと手を伸ばす。
「それで昨日はあんなに憔悴してらしたんですね。怖かったでしょう」
「ちょっとだけ。むしろびっくりした」
「絶対に許せません、鷹津篤仁。アキラ様に対してなんという変態行為を……!」
また暴れそうになる辰巳をおさえつつ、あたしは説明した。
「本気じゃないんだよ。鷹津は、あたしを使って白河を計っているのかもしれない。縁談相手の美月様だけじゃなくてあたしにまで手を出そうとするって、普通あり得ないでしょ? それでも白河が鷹津を婿に望むようなら、白河の決意は本物。鷹津が結婚条件にいろいろ提示しても呑むだろうって確信を与えることになる」
鷹津篤仁ほどの男なら、年頃の娘を持つ名家は喉から手が出るほど欲しいはずだ。きっとどの家と結ぶのが一番いいか、いろいろと考えているに違いない。だからといってこんな揺さぶり方は性質が悪い。その点も含めてあたしは鷹津に疑念を持っている。まっすぐな美月様には合わないのではないだろうか。
「それならなおさら許せません! アキラ様を試金石のように扱うなんて失礼にもほどがある。そんな嫌らしい男とアキラ様を対峙させるなんて、岩土さんは何を考えているんだ……」
「そりゃ白河のことでしょ。敬吾さんは、あたしが鷹津の誘いに乗らなければ済む話だって言ってた。鷹津と何かあった時、真実はどうあれ『白河の出来そこないの娘が鷹津の子息を誘惑した』って見られるのがオチで、逆に鷹津をゆさぶることはできないだろうからそのままにしておけって」
「アキラ様……」
「まったく、乙女の純情をなんだと思ってるんだか!」
辛そうにうめく辰巳に、あたしは文句を言いつつも逆に心が凪いでいく。あたしはまたコロンと辰巳の膝の上に頭をおいた。
「やっぱり辰巳に話してよかった。なんだか落ち着いてきた」
「何も解決していないのに?」
「うん。解決できるよう、動いていかなきゃね。何を言ってもやるしかないんだし」
辰巳はゆっくりとあたしの髪をなでている。
「やっぱり、さっさと美月様と鷹津篤仁の縁談を進めてしまいませんか。そうすればアキラ様に手を出そうなんて考えなくなる」
「それじゃ本末転倒なんだって」
あはは、とあたしは笑うが、辰巳は多分本気で言っている。これだからダメなのだ、辰巳は。優先事項がちょっと間違っている。でもそれを咎める気にはならなかった。
部屋は大分散らかっているが、片づけはあとでいいだろう。
現実に立ち向かう前の小休止だ。
あたしは少しだけ目をつむることにした。
時間にしてみれば多分十分程度だろう。うつらうつらとしながら辰巳に甘えていると、突然誰かの足音が聞こえた。
「アキラぁ、いる?」
あたしはばっと辰巳の膝から顔を上げた。
「辰巳、急いで片づけて」
「はい」
あたしは障子をしめて美月様を出迎えるために廊下に出た。
「どしたの姉さん。こっち来るなんて珍しいね、呼んでくれればすぐ行くのに」
「えへへ~、ちょっとねぇ」
美月様はいたずらっぽく瞳を瞬かせた。
「聞いたよぉ、今日東条先輩と鬼ごっこしてたんだって?」
「え、あ」
あたしは頬をひきつらせた。鬼ごっこなんて可愛いものではなかったけれど。
「朝からそんなふうに遊んでちゃダメでしょ。みんな大騒ぎしてたよ。それに会うならわたしも呼んでくれれば、この前のお詫びとか御礼とかちゃんと言えたのに。もお、アキラってば」
「はは……。ごめんね、姉さん」
「仲良しなのはいいんだけどね。アキラはあんまり学園内にお友達いないみたいだし」
「まあ、気をつけるよ」
あたしはちょっと複雑な思いで頷いた。東条がお友達か。
それより、美月様はこんなどうでもいい話をしに来たわけではないだろう。あたしは美月様が言いだすのを待った。
「……あのね。アキラに相談したいことがあって」
「なに?」
縁側に腰をおろし、美月様はぷらぷらと足を揺らした。あたしもその隣に座り込む。
「あのね、今までずっと誘われていたでしょう。生徒会補佐」
「姉さん?」
「受けようかなぁ」
美月様の笑顔がグサリと刺さる。悲鳴を上げなかっただけ褒めてほしい。
「それは鷹津の御子息がいるから?」
「ん、そう言われるとなんだか情けないんだけど、そうなの」
美月様は恥ずかしげに瞼を落とした、
「今日の篤仁先輩、すっごくかっこよかった。それに雀野先輩も。ううん、外見だけじゃないよ? ああ、こういう人が生徒会なんだなぁってしみじみ思ったって言うか。アキラが止めてくれたみたいにわたしには務まらない重い役柄だってことはわかってる。でも、なんだかやってみたくなったの。篤仁先輩の役に立ちたい、学園のためになりたいって思ったの」
美月様が自主性を見せるのは珍しい。学級委員長や何かの代表といった活動は、周りに推しに推されて引き受けることはあったが、自分からやろうと意気込むことはなかった。こんな状況でなければ、美月様を支えるお手伝いができるのに。
あたしは少しだけ迷ってから言った。
「あんまり賛成はできないな」
「アキラ……」
「姉さんが鷹津を見て思ったことは、他のみんなも思っていることなんだよ。生徒会補佐になりたい人もいっぱいいる、きっと今日でもっと増えたよ。姉さんが生徒会補佐を目指すのも生徒会に立候補するのもいいと思う。ただそれは規定の時期を守らなくちゃフェアじゃない」
生徒会補佐になれるのは九月以降。生徒会に立候補ができるのは二年進級前の選挙から。そう決められている。
「雀野先輩はいいって言ってたよ?」
「雀野先輩はね。他の人はどうかな」
美月様はうつむいて黙り込んでしまった。
うぅ、辛い。かなりツライ。
しょんぼりする美月様は、とにかくこちらの罪悪感をかきたてる。今すぐ謝ってしまいたい!
口からごめんなさい、と出かかったとき、素晴らしいタイミングで辰巳が障子を開けた。
「失礼いたします」
「ああ、うん! ありがと」
部屋はすっかりかたづいたようで、きれいな湯呑みに新しいお茶がいれられていた。
「た、辰巳さんはどう思う!?」
「なんでしょう」
美月様はすがるように言い募った。
「生徒会補佐っていう役目がね、本当はまだやっちゃいけないんだけど、わたしやりたいの! 生徒会の人もいいって言ってくれてるんだけど、アキラがダメだって。辰巳さんはどう思う?」
はちゃめちゃな説明だったが、辰巳はあたしからすべてを聞いている。掃除しながらであっても障子越しに会話も聞こえていただろう。
辰巳はためらうそぶりも見せずに言った。
「『まだやってはいけない』のなら待った方がいいでしょう。無意味な規則というのはあまりありません」
「でも……」
「学園に貢献したいというお気持ちは立派です。ならば、生徒会補佐でなくとも方法はあるのではないでしょうか」
辰巳にまでいさめられ、美月様は更に落ち込んでしまった。
「姉さん、落ち着いて考えてみようよ。ね? 鷹津政権に変わったから、雀野の一存じゃ補佐も決められないだろうし」
「……アキラは」
「え?」
「アキラは、応援してくれないんだ」
慰めるため美月様に触れようとした手がピタリと止まる。
「わたし、戻るね。ごめんね」
「姉さんっ」
美月様はあたしの呼びかけに答えることなく、渡り廊下を走って行ってしまった。
お茶はまた飲まれることなく冷めてしまいそうだった。
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