【配信】社会の闇
夕焼けもすっかり姿を隠し、夜の闇が空を黒く染めきったという頃。
とある部屋の一室にて、一人の中年の男がくしゃりと曲がった煙草を苛立たしげに咥えながら、手に持ったライターに火をつけて口元へと近づけた。
じじじ、と小さく音を立てて火の粉を落とす先端の潰された煙草は、奇妙な焦げ臭さを漂わせ、煙草特有の匂いと紫煙を周囲に撒き散らす。
そんな男の正面、机越しに立った若い男――末永は、気取られない程度にぴくりと片目を一瞬だけ細めたものの、即座にあたかも自分は何も気にしていませんよとアピールするかのように口元を引き締め、真剣な面持ちを保ちながら目の前の男の言葉を待っていた。
吐き出された紫煙を横目に見送ったところで、中年の男が口を開いた。
「――日常会話の中で素直に喋ってくれればいいものを……。チッ、女子供の割に秘密を漏らさない程度には気を付けているという訳か」
「……そのようです。聞いている限り、ただの高校生の会話レベルのものしか……」
「ふむ……、まあ良い。元より会話の中で拾えれば手間と無駄な出費を抑えられると考えただけのこと。期待はしていなかった」
――そんなんで犯罪に巻き込むんじゃねぇよ、クソったれ。
末永は胸の内でそう悪態づきつつも、へらりと力なく愛想笑いを浮かべてみせる。
そんな末永の表情の変化など気にも留めていない様子で、ソファーに腰掛けたまま足を組んだまま再び紫煙を吐き出すと、机の上に置かれたスマートフォンを手に取った。
「――私だ。予定通り、標的には薬を盛った。直に効いてくる頃だろう。依頼通り頼む」
《……本当にやっていいんだな?》
「構わん。相手は女子供だ、痛い目に遭えば口を噤むだろう。徹底的に服従させてやればいい」
《ハッ、アンタも相当なゲスだな。ま、いいさ。依頼通りやってやるよ。だが、こんなデカい事をやって、本当に足はつかねぇんだろうな?》
「ふん、心配するな。そちらは先生がキレイにもみ消してくれる」
《へぇ、そうかい。よっぽどの権力者が背後にいるみたいだな》
「そちらには関係のない事だ。虎の尾を踏みたくなければ、ただ黙って依頼をこなせ」
《ハッ、りょーかいですよ、っと。あんなのが大臣だなんて、つくづくこの国は腐ってやがるな。ま、それでこそ俺たちみてぇなのがオイシイ思いをできるってもんだが》
「口を慎め」
《へいへい。んじゃ、寝静まった頃に開始するぜ》
プツリと音を立てて切れた通話。
ニタリと嫌味な笑みを浮かべてみせる中年の男の顔に、しかし正面に立っている末永は気が付いていなかった。
――……煙の動きが妙だな……。
ぼんやりと男を見ているようで、末永は先程から中年の男が吐き出した紫煙の行方を目で追っていた。
紙煙草の煙は青紫がかった灰色とでも言うべきか、仄かに色づいている。
その煙が天井に向かって伸びていくその最中、不自然に煙が揺れたのだ。
空調設備からの冷風で揺れたのかとも考えたが、しかしそうならば規則性を持って同じような箇所で揺れるはず。だが紫煙の揺らめきは規則性もなく、まるで何かがその場を横切ったかのような揺れ方をしていた。
そんな煙の不自然な動きを見つめていた末永に、男が改めて目を向けた。
「さて、末永くん」
「っ、はい」
「タクシーを用意してあるから、お前と相葉は機材を社に持ち帰ってあがっていい」
「はあ……。えっと、田上部長は残るので?」
この後に何が控えているのか、それを末永は知らなかった。
ただ、今の会話の端々から聞こえてきた内容から察するに、どう考えてもろくな内容ではないだろう事は予測できる。
何をするつもりなのかが気になって口にした質問だった。
そんな質問を受け、煙草を吸っている男――田上は煙草を灰皿に押し付けると、じろりと末永を真っ直ぐ睨めつけた。
「……言うまでもないが、仕事を失いたくなければ詮索するな。今日の事も、誰にも言うな。家族にも迷惑をかけたくはないだろう?」
余計な事を聞くな、知りたくなければ黙っていろ。
下手な真似をすれば、お前だけでは済まさんぞ、と田上が言下に滲ませて答えた言葉に、末永はただただ恐怖し、視線を落とした。
「……ッ、はい……。忘れます」
「結構。相葉にもその旨をしっかりと伝えておけ」
「……はい。失礼します」
末永の勤める会社――クレアボヤンスは、長い歴史を持つ。
一時は日本のトップ企業として上り詰め、誰もが会社の名を知っているような会社。
当然、新たに起ち上がった会社に比べれば社会的な信用性も高い。そういった会社は、国が税を投じて行うような事業においても優位に扱われる。
そうして前例が生み出され、前例から「あそこに任せればいい」という慣例となり、多種多様な国営事業にも名を馳せている会社だ。
そんな旧態依然の会社、その縦社会、年功序列によって上層部に登り詰め、転がり込んできた権力者との繋がり。
それらを利用して後ろ暗い真似をしてきた悪習すらも継承され続けている事は、末永とて理解できた。
――もしも俺に少しでも、ほんの少しでも勇気とかがあれば。
上からの指示で凜音らの会話を聴いていたものの、その会話の内容はどう見たってただの女子高生らしい会話だ。メイクがどうの、美容がどうの、彼氏を作るだの作らないだの、あの先生の目が露骨だのと、当たり障りのない、本当に日常的な会話だった。
そんな会話をしているような、大人と子供の境界でありながらも、まだどこか子供らしい特有の若さを持った子供たちに、権力だの利権だの、そんなものに塗れた大人の手が伸びようとしている。
もしも自分に勇気があったら、もしも自分に力があったなら、自分があの子たちをどうにかして守る事だってできたかもしれない。
――……でも、無理だ。
俺は特別でもなんでもないし、力も権力もない。
長い物に巻かれる側の人間でしかないのだから、と己の内で己が言う。言い聞かせる。
そうして何か、酷く重いものを背に乗せているような気分で、足取り重く仕事用の部屋へと戻っていく。
「――あ、末永先輩、お疲れさまです」
「え、ん、あぁ……。お疲れさま、相葉くん」
「……またあの豚に色々言われたんすね」
「あはは……。まあ、そんなとこかな」
末永に声をかけてきたのは、髪も短く短髪で清潔感のある男――相葉だ。
末永の一年後輩で就職してきて、25にして結婚し、つい最近子供が生まれたばかりだと言う。
「しっかし、胸糞悪いっすね、こんな事まで仕事でやれなんて」
「……忘れろ、ってさ」
「……またそれっすか」
「……あぁ」
短く言葉を交わしただけ、ただそれだけで相葉も押し黙る。
「……先輩、俺、子供の事が落ち着くまでに転職しようと思ってます」
「……だな。それがいいさ。多少給料が悪くたって、こんな犯罪の片棒を担がなくていいなら、それに越した事はないだろうさ」
「先輩も転職しませんか?」
「……そうだな。できたら、そうしたいかな。とりあえず、ここであんまり話し込んでると田上部長が来るかもしれない。さっさと俺たちは撤収しよう」
「……うっす」
そうは答えてみたものの、自分は転職できないだろうなと末永は思った。
相葉はまだあまり仄暗い部分に触れていない。今ならまだ引き返す事だってできるだろうし、会社の人間も無理に引き留めようとはしないかもしれない。
――けど、俺はもうどっぷり使われちまったからな……。
犯罪まがいの諸々に、末永はいいように使われてきた。
入社したての頃、まだ社会経験もなく、学校や大学に守られていた自分には善悪の区別を判断する材料がなさすぎた。
ちょうど、末永のような技術を持ったスタッフが病気で退職した事もあったのだろう。
その後釜に収まる事に、末永はてっきり「自分の実力が認められているのだ」と考えてしまったのだ。
そうして、社会経験もないまま、ただただ上司に言われるがまま仕事をこなして――仕事という名の犯罪の諸々に触れてきてしまった。
今更、そんな自分を素直に退職させてくれるとは思えなかった。
「……辞められるなら、辞めたいんだけどな……」
「ん? 先輩、なんか言いました?」
「……いや、なんでもない。手伝うよ」
――せめて、まだ抜け出せる後輩を見送ってから考えよう。
そうやって過去にも後輩を見送ってきた末永は、今回もまたそんな結論を胸に抱いて撤収作業に取り掛かった。
『ひえ、超ブラックやんけ』
『というか、これマ?』
『さすがにそれじゃあ通話音声まで取れないだろ。相葉氏の家族写真とかも映ったりしてるし、さっきから末永の自白みたいなのも入ってるし』
『というか、クレアボヤンスって実在する会社なんだが……』
『アニメだろ。実在する人物、団体とは一切関係ありません、的な』
『そういうテロップ出てないんだよなぁwww』
『さすがにこれがマジだったらシャレにならんのだが』
『ごめん、これワイの職場だし、この二人のモデル?になってる人達知ってるんだけど……』
『ふぁっ!?』
『当事者だ、囲め囲めー!』
『盛 り 上 が っ て き た』
――――なお、この光景はライブ配信されており、コメント欄では様々な困惑の声が広がりつつも、すでに同時接続者数は50万人にまで達しようとしていた。




