第56話 戦士の休息、そして始まり
ロドリゲスが去り、部屋の中が再び静寂に包まれた。
燭台の炎が静かに揺れ、医務室の天井をぼんやりと照らしている。
——安堵と共に、疲れが押し寄せる。
迅はゆっくりと息を吐いた。
(……まあ、無事でよかったっちゃよかったか。)
アーク・ゲオルグとの死闘。
遺跡の封印が解け、村人たちが無事に保護されたこと。
そして、ロドリゲスから伝えられた「勇者」としての評価。
色々と考えることはあったが、今の迅にできることは一つしかない。
まずは、休むことだ。
しかし——。
「……ん?」
違和感があった。
いや、違和感というより、明確な痛み。
全身の筋肉が、まるで燃え尽きたかのように重く、鈍い痛みがじわじわと広がっていた。
「……やべぇな、これ。」
試しに指を動かそうとするが——びくりとも動かない。
いや、正確には動くのかもしれないが、痛みが強すぎて動かせない。
(神経加速の酷使と、二重詠唱による負荷……そのツケが一気にきたか。)
迅は内心で舌打ちする。
肉体の負担を考慮せず、神経加速を限界まで使い、さらには並列詠唱で魔力を酷使した。
結果、筋繊維はボロボロに破壊され、魔力枯渇も重なり、体が完全に限界を迎えたわけだ。
動けないのも当然だった。
「……リディア。」
ふと、そばにいる彼女に声をかける。
リディアはまだ、迅のベッドの横に座っていた。
ロドリゲスとの会話中は黙っていたが、その間もずっと迅のことを気にかけていたようだ。
「なに?」
彼女は少し疲れた表情を浮かべながら、迅を見つめる。
「俺、今、筋肉痛でマジで動けねぇんだけどさ……回復魔法、かけてくんね?」
当然のお願いだった。
魔力枯渇を起こしたばかりの迅は、自分で自分に回復魔法をかけるには魔力循環への負担が大きくリスクが大きい。しかし、回復魔法があれば、筋肉の炎症も治り、ある程度は動けるようになるはずだ。
だが——。
リディアは少し視線をそらし、困ったように口を開いた。
「……それは、無理。」
「は?」
思わず、眉をひそめる。
「いや、何が無理なんだよ?」
リディアは少しバツが悪そうにしながらも、はっきりと言った。
「筋肉痛に回復魔法をかけると、筋肉の構造が歪んでしまう可能性があるの。だから、外傷じゃないなら、回復魔法は使わない方がいいのよ。」
迅はしばらくリディアの顔をじっと見つめた。
「……マジ?」
「マジ。」
即答だった。
迅は数秒考えた後、「あ、これ嘘だな」と確信した。
(いやいやいや、確かに回復魔法は万能じゃねぇけど、筋肉痛ごときで使えないわけねぇだろ。)
人体の構造に精通している迅は、回復魔法に関しても、リディア程ではないが習得はしている。
これまでの経験上、この世界の回復魔法は炎症や疲労にもある程度の効果があることは分かっている。
ましてや、リディアは一流の回復魔法士だ。
彼女が本気を出せば、迅の筋肉痛くらい一瞬で治せるはずだった。
(つまり、コイツは俺に回復魔法をかけたくない……ってことか?)
そして、その理由は——。
(……あぁ、なるほどな。)
動けない俺の世話を焼きたいから、わざと回復させないってわけか。
迅は心の中でニヤリと笑った。
「……そうか、それは仕方ねぇな。」
あえて、素直に受け入れる。
「そういうこと。だから、しばらくは安静にしてなさい。」
リディアは満足そうに頷いた。
彼女の表情を見れば、一目で分かる。
「自分が世話を焼く理由ができた」ことに、どこか嬉しそうだった。
(まったく、素直じゃねぇな……。)
迅は微かに笑いながら、視線を天井に戻した。
医務室の空気は、いつの間にか穏やかになっていた。
ロドリゲスが去り、褒賞の話もひと段落。
そして、リディアの「回復魔法は使えない」という嘘を見破った迅は、わざと気づかないフリを決め込んだ。
(まあ、しばらく世話を焼かれるのも悪くねぇか……。)
筋肉痛で指一本動かせない状況は変わらないが、不思議と焦りはなかった。
何より、隣でリディアが自分を気遣ってくれているのが妙に心地いい。
そんなとき——。
「ねえ、迅?」
ふいに、リディアの声がした。
「ん?」
「……お腹、空いてる?」
その言葉に、迅の胃が素直に反応した。
ぐぅ、と小さな音を立てる。
「……まあ、正直、腹減ったな。」
迅は少し苦笑しながら答えた。
「だよね。」
リディアは、どこか得意げに微笑むと、テーブルの上に置かれていた果物の盛り合わせを手に取った。
「ほら、食べる?」
リディアは手際よくナイフを使い、瑞々しいリンゴの皮を剥き、適当なサイズに切り分ける。
そのままフォークに刺し、迅の口元へと差し出した。
「はい、あーん。」
「……は?」
迅の頭が、一瞬フリーズする。
「いや、お前な……。」
「何? 手が動かせないでしょ?」
リディアは、完全に当然のことのような顔をしている。
(たしかに、動かせないけど……いや、マジかよ……。)
食べさせてもらうこと自体は理屈として理解できる。
でも、それを 「はい、あーん」 と言いながらやるのは……。
「おいリディア、お前、俺をからかってるだろ。」
「からかってないわよ。」
リディアはキッパリと否定した。
だが、その顔はどこか楽しげで、ほんのりと頬が赤い。
(……絶対ちょっと楽しんでるだろ、これ。)
迅は呆れたようにため息をついたが、結局、口を開けるしか選択肢はなかった。
「……しゃーねぇな。」
観念して、パクリとリンゴを口に入れる。
「……うまい。」
噛むたびに果汁が弾け、甘酸っぱい風味が口の中に広がる。
「でしょ?」
リディアは嬉しそうに微笑むと、次のひとかけらをフォークに刺した。
「じゃあ、もう一個。」
「いや、なんでそんなノリノリなんだよ。」
「食べたいでしょ?」
「そりゃ食べたいけどよ……。」
なんだろう、この妙な照れくささは。
(ただ果物を食べさせてもらってるだけなのに、何かこう……やたらと気恥ずかしいな。)
リディアの視線が、やけに近い。
そして、さっきまで怒ったり呆れたりしていた彼女が、今はどこか穏やかで、優しい顔をしている。
「ねえ、迅。」
リディアが、ふとフォークを止める。
「ん?」
「……本当に、無事でよかった。」
静かな声だった。
照れ隠しのような笑顔ではなく、心からの言葉。
迅は一瞬言葉に詰まった。
(……本当に、心配かけたんだな。)
今さらながら、そのことを実感する。
「……ま、俺はそう簡単に死なねぇよ。」
軽く笑って返す。
「そう言って、また無茶するんでしょ?」
リディアはジト目になりながらも、口元には小さな笑みを浮かべている。
迅も、つられるように微笑んだ。
部屋の中は、いつの間にか穏やかな空気に包まれていた。
果物の甘い余韻が、口の中に残る。
リディアがフォークを置く音が、やけに大きく響いた。
気づけば、医務室の静寂が戻っていた。
燭台の火が揺れ、石壁に淡い影を落としている。
城の夜は静かで、どこか幻想的な空気を纏っていた。
——戦いの疲れが抜けきらぬ体を横たえながら、迅はゆっくりと目を閉じる。
「ねえ、迅。」
リディアの声が、小さく響いた。
「ん?」
「……今、何を考えてる?」
柔らかい声。
どこか安心しきったような口調。
迅はしばらく黙ってから、ぽつりと答えた。
「……今回の戦いで、また一つ、分かったことがある。」
リディアは少し驚いたように瞬きをする。
「分かったこと?」
「俺のやり方が、ただの『魔法』じゃないってことだ。」
迅は、天井を見つめながら静かに言った。
「アークは、俺の攻撃を分析しようとしていた。でも、結局、完全には理解できてなかった。」
彼の科学魔法——それは、異世界の魔法体系とは根本的に異なる理論で成り立っている。
魔力をエネルギーとして扱い、物理現象と融合させる戦い方。
それが、アーク・ゲオルグのような天才ですら解読できない領域にある。
(つまり、俺の力はすでに”この世界の理”から外れかけている……。)
「……それって、すごいことなんじゃない?」
リディアが微笑む。
「迅の考えた魔法が、今までの常識を超えてるってことでしょ?」
「そういうことになるな。」
迅は乾いた笑みを浮かべる。
「でもな、逆に言えば——この世界の奴らには、俺のやり方が”異質”に見え始めてるってことだ。」
リディアの表情が、少し曇る。
「……それは、悪いこと?」
迅は答えなかった。
リディアは静かに彼の顔を見つめていた。
迅の考えていることが、なんとなく伝わってくる。
この世界の理から外れるということは、いつか拒絶される可能性がある——。
しかし——。
「……私は、迅のやり方が間違ってるとは思わない。」
リディアは、そっと微笑んだ。
「迅の魔法が、どんなに普通の魔法と違っていたとしても……それで私たちは救われたんだから。」
迅は、ゆっくりとリディアを見た。
彼女の瞳には、揺るぎない信頼が宿っていた。
(……そうか。)
たとえ周囲が異質と見なしても——彼の側には、彼を信じてくれる仲間がいる。
それだけで、十分だった。
「……さて、と。」
迅はわざと軽い口調で言う。
「そろそろ寝るか。明日から、また忙しくなりそうだしな。」
リディアは少し驚いた後、「ふふっ」と笑った。
「そうね。おやすみ、迅。」
「おやすみ、リディア。」
静かに、部屋の明かりが落とされる。
——夜の王宮は、穏やかな闇に包まれた。
しかし、それは束の間の休息に過ぎない。
新たな戦いは、すぐそこまで迫っていた——。




