31 甘く愚かな思い違い
正確無比な射撃が真っ黒な角を撃ち抜く。
角は砕け、塵も残さずに焼けて消える。
あまりにも呆気ない。終わるときはいつも呆気ないんだ。
最後の欠片が消え去るとき、そこに封じ込められた膨大な魔力が放出されていくのがわかった。暗くて澱んでいて、汚らしくて濁りきった怒りと悲しみが、絶叫に似た音響となって駆け抜けていく。
両脚に怪我をして吹き飛ばされそうな僕の体を後ろから支えてくれたのはほとんど負傷していない菫青ナツメだ。
「借りは返した。あんたがどう思うかに関わらず、貸しは貸し」
貸したつもりはないけど、といかにも言いそうな僕に対する返答としては完璧なものだろう。
その助けを借りて身を起こすと魔人が地面に倒れ、呪いの汚泥の真ん中に横たわっているのが見えた。
それは顔のない魔人の姿ではない。
つい今しがた秘色屋敷から抜け出てきたかのような、まぶたを閉じて眠っているだけのような青年の姿だった。
「ちくしょうっ!!」
屈辱に顔を歪めたヒギリが血の霧を吐きながら叫んだ。竜鱗騎士としての誇りが痛めつけられた肺を酷使してでも彼に叫ばせていた。
生きているだけで上々、といった状況だが、万々歳と諸手を上げて喝采はできないだろう。
これは奇跡みたいな戦果だ。あくまでも、どこまでも純然たる確率の問題だった。
僕らはダイスを振るかのごとく、どちらが生きるか、そして死ぬかを決めた。お互いがどんな過去や理想を抱えているのか、日々の鍛錬がどんなものなのか、正しいのか、それとも悪なのかに関わらず、そんなことは微塵も関係なく、ただ命を天秤に乗せてダイスを振っただけだ。
そんなのは勝負ではなかった。
殺し合いですらない。
イチゲは一発撃った後、突っ伏したまま動かない。たぶん一番、傷が重い。
いかに竜鱗騎士といえど一刻を争う。
「ナツメ、先にヒギリとイチゲを治療できるところへ連れて行って」
リブラの護符をナツメに託す。
「あんたは?」
ナツメは訝しげな目つきで、僕の全身を見回す。
スケラトスの魔術の代償は同じ魔術によって支払われ、すっかりもとに戻っていたはずなのに、あっという間に再び穴だらけになって血まみれの姿だ。
でもそんなことはどうだってよかった。
魔人の周囲には吐き出された黒いヘドロが散っている。
それが跳ねて体に付着するのも構わずにクガイの元に駆け寄った。
ヘドロが頬や皮膚の露出した部分に付着すると、灼けるように痛む。本当に火炙りにされてるみたいだった。地面に着いた膝を覆う衣服に染みこみ、さらに痛む。でも何だって構わない。
クガイの顔を覗きこみ、そして声をかけた。ただし、この行動は心配だからじゃない。
「クガイ……。生きてるんだろ?」
冷静に声をかける。微かではあるが、呼吸がある。
思った通りだ。
呼びかけに瞳がうっすらと開かれる。
「そこにいるのは君だろ、リリイちゃん」
そう、言った。掠れた声で。
僕は魔術を解除する。サカキの仮面を取り外す。
次の瞬間、死体のように硬直していたクガイの右手が持ち上がり、逆さまに対面する僕の首を掴んで来た。呪いで真っ黒に染まった親指が首の皮膚を食い破り、尖った爪がその下に潜りこむ。
反射的に攻撃魔術を放とうとしていたヒギリを、瀕死のイチゲが止める光景が視界の端に目に入る。
イチゲの判断は正しい。
今、彼の爪先は僕の頸動脈にぴったり張り付いて離れない。少しでも動けば僕は死ぬ。
「君の負けだよ」
僕は言った。金杖はいま、剣の形をしている。しかもその切っ先は彼の左肩に固定されていた。
「どう考えたって、俺のほうが速いだろ」
「残念。僕は肉体が壊れても復活できる」
「へえ、おもしろいね、その魔術。模倣させてよ」
僕たちは殺し合ってるのに、秘色屋敷にいたときのようだった。
とくにクガイに緊迫感がない。
殺されると思ってない……いや、ちがう。
彼は僕みたいに甘くない。最初から、目的を達成するためになら、自分が死ぬことだって織り込み済みだったんだ。
「まだ俺が生きてるってよくわかったな」
「体から角を取り出したとき、半分だけ体内に残したんだろ。僕だったらそうするよ」
クガイは心底おかしそうに笑ってる。
僕がクガイだったら。
敵は魔術学院の教官。手駒は竜鱗魔術という面白凶悪魔術を遠慮容赦なく使ってくるクソガキどもで、切り札が何枚あるかもわからない。
だったら標的に確実にこっちの間合いに入ってもらうよう仕向けるのが得策だ。黒一角獣の角という餌を目の前に垂らして。
それならば、自分の死を勘定に入れないなら、自分が生きて帰ることを前提としないならば、確実に獲物を殺せる。どうなっても目的だけは達成できる。
「魔人の複製体を作り出し、ばらまいたのもその伏線だ。核を壊せば倒せる、としたのも君が意図的に設計したものだ。釣り餌を魅力的にするためにね」
彼の計画は上手くいっていた。
幸運にも、先に仕掛けたのは僕らのほうだったからだ。
僕らはクガイの弱点であるコチョウを連れ出しルニスの能力で精神交換をはかった。でも、こういう読み合いのときは、負けるのは先に仕掛けた側だ。
彼は精神交換を逃れ、僕らの作戦が上手くいったふりをして逆にチャンスを掴んだ。
「なんだ、つまらない。全部ばれてたのか」
赤い瞳が僕の顔を捉え、罅割れた口元がニヤリと笑う。
「ひとつだけ、読み違えた。君には理性が残ってた。どうやって精神交換を回避したの?」
「あれは難しい魔術なんだ。人は魔術に対抗する力がある。魔術師ならなおさら。あとそれから、理性なんか残っていなかったよ」
「じゃあ、どうして」
それは全ての意味が込められた《何故》だった。
君は何故、マスター・サカキを探してたのか。何故、コチョウを前にしたとき、攻撃することをやめたのか。
どうしてここで僕とこうして話をしているのか。
「秘色屋敷で……」
クガイは瞼を閉じ、眉をしかめながら、遠くに思いを馳せるようだった。
「マツヨイに会った」
僕ははっとした。
僕もまた、マツヨイに会った。クガイの妹。なぜかカミーユに付き従っていた。クガイが言ってるのは僕が現在に引き戻された後のことだろう。
「彼女は俺を見て……悲しそうな顔をして……俺が《本物》ではないと言った……本当の尖晶クガイは別のところにいると……」
そのときのことを、容易に思い浮かべることができる。
マツヨイの偽物もクガイを待っていた。二人の間には切り離せない繋がりがある。兄妹の絆が。
マツヨイが兄の身を案じ、あの場に現れたとしても不思議はない。
「無駄だったんだ。何もかも。コチョウへの献身さえも。俺は人間ですらないんだから」
そのことにもっと早く気づいていたら、クガイが魔人になることもなかっただろう。
「黒一角獣の角に飲み込まれた人間は、悲しみと怒りしか感じなくなる。人の感情なんて脆いものだ。鏡に封じ込められ、いつ出られるかわからない永遠に近い時間を、己の境遇を嘆き、世の中を呪うことだけに使えば、とてもまともじゃいられない。わかるだろ?」
その続きを、クガイは語らなかった。
秘色屋敷でのことが終わった後、コチョウは手をつけられなくなったクガイを封印した。その封印が解けた後、彼は同じ境遇であるマツヨイを殺し、解放するために僕の前に現れた。
彼の気持ちをわかりたくはないが、わかってしまう。
憎しみと怒りと自己憐憫は人の精神を破壊する。まともに見えるし、理性がちらついて見えることもある。だが、その理性は社会を破壊するためにしか用いられない。つい先日もルビアの件でそのことをまざまざと見せつけられたばかりだ。
「ミズメを殺し、そのあとで自分も死ぬつもりだった。だけど、どれだけ自分自身を呪ったとしても、君だけは殺したくなかったんだよ。リリイちゃん」
クガイはそう言って、僕の首を絞めているのと反対の手で長外套の内ポケットを探り、シガレットケースと潰れたマッチの箱を取り出した。器用に煙草を取り出すと片手でマッチを擦り、火をつける。
「どうして」
もう一度、僕は訊いた。心の中には卑しい気持ちがある。
彼が、僕が言ってほしい言葉をくれるんじゃないかな、という気持ちが。
クリスマスのプレゼントを待ち望む子供みたいな気持ちだ。
一番欲しい物は絶対にもらえないとわかってるのに、期待して、勝手に落胆する、愚かで哀れな気分だ。
「君の本当の名前を聞いてなかったな。まだ」
「……日長、椿」
「ツバキ、ツバキね。いい名前だ。ようやくわかったよ。君は、俺の血筋に連なる人間だ。ちがうかい?」
クガイは言った。
心臓がどくんと跳ねる。
「ずいぶん悩んだし、そんなのは思い違いだとも考えたが、この俺が見間違えるわけない。その瞳は魔眼だ。君の能力は尖晶家特有のものだ。そうだろう? つまり……」
それと同時に、眼窩から何か湿ったものが溢れてくる。
その言葉の続きを、聞きたくない。
聞いてしまったら、僕は後悔するだろう。後悔して、戻れなくなる。
だけどその場から飛び退いて逃げることもできない。僕の手には剣があり、僕の命は彼が握っているから。
「君はマツヨイの息子だ」
クガイは確信を持ってそう言った。
そうだろうな。彼の視点からは、僕がそう見えてる。
コチョウは僕の瞳についてしつこく質問してきた。それは、僕の赤い瞳を魔眼だと疑ったからだ。
そして僕は彼と顔が似てる。
でもクガイには子供がいないんだから、ここにいるのは…………そう、アマレだ。彼のはずだ。
息が止まりそうだった。でも止まらない。神様はそれほど優しくはない。
魔術が存在するこの世界で、不可能のない世界で、それでも神様に祈る者の気持ちがよくわかる。
涙は頬を伝って、奥歯が抉られた強烈な痛みや止まらない血と混じって顎の下へと流れていく。
「ちがう……」
必死の思いで口にした否定の言葉は、あまりにも脆い。クガイは自分の確信を疑いもしなかった。
「君は俺が十代のころにそっくりだよ。どんな男が父親かは知りたくないが、君はマツヨイの子だ……尖晶家の末裔なんだ」
クガイの瞳は、呪いに侵されながらも輝いていた。
そこには希望がある。呪いを跳ねのけ、悲しみや怒りを振り払い、僕を見据える光がある。
「その魔術の才能や小賢しさもそれで説明がつく。あのマツヨイの子が、今や全国民から敬愛される魔術学院の教官で、しかも祭典の勝利者だ。その年齢で! まちがいなく大天才だぞ。許されるなら、君に俺の全てを贈りたい。研究も、魔術も、尖晶家のすべてを君に」
その賛辞のすべてが、僕の心を抉っていく。
心が罅割れて、悲しみが染みこんでいく。
言葉には……。
とても言葉にはできない。
ちがうんだ、クガイ。
僕は……。
僕は、マツヨイの息子を殺した。
星条アマレはもういない。
この世のどこを探したとしても、どこにもいないんだ。
それどころか、僕は。
君が手に入れたもの、手に入れるはずだったものをすべて滅茶苦茶にしてしまったんだよ。
剣を握る手が震える。
その手を震わせているものは、恐怖だった。
それは自分自身がこの世に存在していることへの恐れだ。ここで息をしている限り、ただただ、この人たちへ害しか及ぼさない自分自身への。
その手首に、吸いかけの煙草を指に挟んだ左手が触れる。切っ先が左肩に穿たれた穴へと深く沈み込む。
「いいぜ、ツバキ。角は俺の体に深く根を張ってる。どうせもとには戻らない。ひと思いにやっていいんだ」
「……コチョウのことはどうするの?」
「いいんだ。コチョウのためなら何でもすると誓ったのに、君を館の生け贄にしろと命じられたとき、できなかった。俺は所詮、まがい物だった。ここに本当のクガイがいたら……こう言うだろう……」
クガイは僕の首から指を引き抜いた。
そして真上から覗き込む僕の頬に触れた。
「君は本物だ」
優しい表情だった。おぞましい呪いの力を体内に秘めているとはとても思えないほど。
彼が語る言葉は、僕が秘色屋敷で最も聞きたかった言葉だった。
コチョウのことを諦めると言ってほしかった。
魔人になんかならないでほしかった。
父親に、僕のことを誇らしいと言ってほしかったんだ……。
それなのに息が詰まるほど苦しい。
クガイの親指が、僕の頬に赤い血の筋を残して去っていく。
彼は満足そうに微笑んで目を閉じる。現実にただ満足し、まるで夢見るような表情だ。
イチゲたちはただ戸惑うばかり、ルニスも無言でこっちを見つめてる。
だけど、僕にはクガイを殺すことはできない。
絶対にできない。
魔人が復活し、この国の人々を、みんなを殺して回るとしても、できない。
だけど。
不意に、僕の左手に力がこめられる。指先が強く柄を握りこむ。
心の奥底から憎しみが湧いてくる。
怒りが。
激しい怒りを通じて、青海文書の世界に潜んでいる何者かが、僕を操る。
「やめろっ!!」
強く叫んだが、声は届かない。
《ツバキくん。やって。魔人をいますぐにころすの!!》
殺したくない。僕はクガイを殺したくないんだ。
コチョウのことを諦め、自分の血縁に希望を見出したこの人を。
その未来まで、奪い去りたくない。
「やめてくれ、マージョリーっ!!!!」
切っ先が左肩の露出した肉を抉り、切り裂く。
抵抗むなしく、刃は肉と繊維を断ち切り、その深層に眠っているものに届く。
硬質な感触が武器を通して伝わってくる。
他ならない自分自身の力で、切っ先がそれを割り砕く感触がした。
いったい、何のために?
すべての希望と、すべての未来が粉砕されていく。




