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愛?
愛ってなんだ?
わからない。
愛という言葉をかさに着て、みんなが好き勝手にしたいだけに見える。
他人のことを体のいい駒のように使おうとしているだけみたいに。愛しているよと囁きながら、僕が持っているごくわずかなものをすべて奪っていこうとしているように見える。そしてそれは……。
たぶんクガイが言った通り、僕も同じだ。
いつだって献身の見返りを求めてる。
それは本当のことだ。
僕は他人に理不尽な暴力を振るうことはない。暴力で脅迫し、他人を思うがままに支配しようという思考を異常だと思う。
だけど手段を変えたなら、途端にそれを許容する。
怒鳴り声ではなく、優しい囁き声ならば。
殴りつける拳を開き、掌で優しく撫でたならば。
結果として起きる現象は同じものだ。どんな手段を使ったとしても、求めているのは他人を思い通りにしたいだけの《支配》だ。
最低の気分だった。
手足がまるで鉛でも注がれたみたいに重たい。
クガイの体には件の《角》が埋め込まれている。不運と悲運をかき集めて呪いとして集約させてしまう恐るべき角だ。
この館にどれだけの犠牲者が集められたか知らないが、益体もなく律儀に毎年行われていたとかいう陰惨な血の儀式は格好の栄養源になることだろう。
もう間もなく、クガイは魔人になってしまうのだ。
それは人としての死だ。再び僕の前に敵として立ちはだかった魔人には、目的のために暴走することはできても、何かしら知性の光があるようには思えなかった。
だけど止められない……。僕はこれまで、誰のことも止められなかった。その決意を揺るがすことさえできなかった。本当に他人からみたら馬鹿馬鹿しいと思うことですら、何一つ変えることができなかった。
「ルニス、星条コチョウを元に戻してよ」
彼は死ぬべき人間ではない。短い付き合いだけど、そう思う。
賢く、ときにユーモラスで女性に優しい。そして何より勇敢で、行動力と忠誠心を兼ね備えている。使い方がまずいだけだ。
「できかねます。彼の自我を解放したところでコチョウ様は尖晶クガイに《行け》とお命じになるだけでしょう。そして《貴様のような下等な人種に拒否権はない》と見下し果てるでしょう」
そうだろう、そうだろうな。
コチョウは変わらない。
嫉妬と敵愾心に惑わされ、相手の美徳を理解することはない。
それに何よりもこれは過去に起きたことだ。覗き見しているだけの僕がどう足掻こうが、変わらないんだ。つまらない質問だった。
「ルニス、愛って何?」
ヤケクソになっての質問だった。
答えなんか返ってくるわけない。ここにいるのは宇宙人だ。しかも物語の中にしか登場しない宇宙人だ。
人間の心のことなんか知るはずない。
だけど、その予想は覆された。
「己以外の他者の生存について、幸福であれ、と願うことでございましょう」
驚いた。答えが帰ってくるとは思わなかった。
そうして見返したコチョウ、いや、ルニスの表情は切実だった。
そんな表情でクガイを少しでも止めてくれたら、と思うほどに。
「たとえ遠く離れようとも……そのお姿を見ることさえ叶わなくとも、そして自らの生存さえ危ぶまれようとも、ただただ幸福であれと願い続けることでございます」
そこにいるのは宇宙人ではなかった。魂のない魔法生物でもない。
何気ない質問だったけれど、思いもよらぬ返答があったことで思いもかけないことがだんだんわかってきた。
つまり、ここで何が起きてるのかってことだ。
いったいルニスが何をしてるのか。
「あらためて質問するよ。だったら、もしも自分が存在していることで、そして存在し続けることで……その人が幸福でなくなってしまうなら、どうする?」
「詮無きことでございます。しかしこのルニスめは完璧無比なサーバント。ご主人様を落胆させることは決してありません」
「君……君は、未来がわかるって言ってたよね。だったら、どうして僕がここにいるのかもわかってるはず」
「もちろんにございます。王姫紅華に望まれた御方。貴方様はまさしく大魔女から国を救った英雄でございます」
「君はもしかして……」
言いよどんだのは、今まさに最悪の想像をしているからだ。
「君も僕に殺してもらいたいの? キヤラ・アガルマトライトみたいに」
ルニスはコチョウの表情で微笑んだ。どこまでも果てしなく穏やかな海でも見つめているかのような表情だった。
その顔、僕には見覚えがある。
「何もかもお客様の仰せのままに。このルニスめは、いつでもお客様のお力になり、いかなる窮地をもお救いする所存です。貴方様の懐に隠されたとっておきの切り札として……」
あくまで執事然として流暢に言葉を紡ぐルニス。
ルニスは自由に話せない。館の執事としての会話しかできないけれど、その制限の中でなら会話ができるんだ。そして何かを伝えようとしてる。
「それじゃあ……」
再び質問をしようとしたが遮られる。
「しかし僭越ながらお客様、そのように悠長なやり取りをなさっているお暇はありません。カミーユ様がおいでになりました」
館の振動は大きくなってきてる。
まさに図書館の手前まで来ていた。
数秒を数える間もなく、真っ赤な鎧が扉をぶち壊して飛び込んできた。
カミーユがその後ろからハイヒール姿で悠々と入場してくる。
「お待たせ! 使途カミーユの到来を喜べ、てめえら!!」
騒々しいセリフを吐きながら、だ。
カミーユが連れてきたのはお付きの修道女と鎧だけじゃない。
背後の暗闇に爛々と怪しげな光が灯る。
「それとお猫様たちです」
僕は両手で両目を覆った。
妙な足音を立てて、四足歩行の合成生物がなだれこんでくるのがわかる。
でも逃げ場がない。ここは図書室で、出入口はひとつしかない。
逃げれたとしても中二階まで。
ここまでいろんな窮地に陥ってきた僕に言わせれば、こんな場所に陣取った時点で詰んでる。
僕は猫を見ないように階段のほうへ逃げた。
その途中に立ち、背後を振り返って少しだけ指の間隔を広げてカミーユの様子をうかがう。てっきり、背中を見せたところで鎧を仕掛けてくると思ったからだ。
でもカミーユはこっちを見上げてニヤニヤしてるだけ。
猫たちに囲まれているのに攻撃されていない。
不思議だ。廊下ですれ違ったとき、カミーユは猫たちを恐れてた。
さっきと今とで、何がちがう?
甲冑は同じ。違うのは修道女だ。たぶん、彼女は猫たちを無害化する何かを備えている。恐怖心に耐えることができるんだ。
対して僕には何もない。この館由来のものを見ると発狂する。
「お客様、お客様の鞄はミス・リリアンとつながっています。リリアン嬢には魂がない。晩餐のテーブルに上ることはありません。早急にここから離脱することをお勧めいたします」
ルニスが言う。
それはなかなかいいアドバイスだと言えた。
コチョウの命を守ってやる義理は僕にはない。ここで何が起きるにしろ過去を変えることはできないのだから、魔人の謎が明らかになった今、過去に留まる必要は皆無だ。だけど。
僕は今、ここにいる。
金杖を握りしめる。ここでうまく魔術が使えるかはわからない。肉体は遠く離れたところにあるからだ。だけど一歩踏み込むことしかできない。
「《昔々》……《ここは偉大な魔法の国っ》……!!」
次の瞬間、部屋の中央の床をへし割って、銀の茨が伸びあがった。
蔓の鞭のようにしなり天井のシャンデリアを叩き割った。
明かりが消えて図書室に暗闇の帳が降りる。
恐怖も困惑も、すべてが優しく閉ざされていく。
*
カミーユは先ほどまでリリアンがいた場所に鎧を動かした。
鎧は剣を振り上げ、目標を一刀両断にする。
しかし、暗闇の中で何かが翻ったのが気配でわかった。
威嚇を繰り返していた猫どもも瞳を攻撃的に輝かせて獲物に食らいついていく。
しかし鎧が剣を振るう度、猫どもが牙を立て、爪を立てようとする度、そこに火花が散る。硬いものがぶつかり合う音響が響く。
異常だった。肉を断ち切り、骨をへし折る音はいつまでも聞こえてこない。
「燭台を持って来なさいっ!!」
カミーユに命じられるままに修道女はスツールの上に置かれていた燭台を取り、マッチで火をつけた。
唯一の光源が、鎧のいるあたりを照らし出す。
朱色のぼんやりとした火の明かりのむこうに、知恵のフクロウを刺繍した鮮やかな群青のマントが翻った。
緋色の二つの瞳が黒髪の間からカミーユを睨んでいる。マントの下には金色の剣があり、鎧が振り下ろす長剣の攻撃を受け流し、襲って来る猫の腕を斬り払って両断する。
「誰……!? 誰なんだオマエッ!」
交霊会の招待客にはいなかった少年だ。
しかも、あのマントは悪名高い《血と勇気の祭典》の勝者に贈られるもの。
魔術禁止を強いたこの国で、未だに魔術にしがみついている狂人たちならば知らない者はいない。
カミーユは鎧を動かし、もう一度攻撃させる。
彼女の意志で遠隔から自由自在に動かすことができるこの鎧は無知で無抵抗な人間の虐殺には便利だが、一流の魔術師に差し向ける刺客としては二流だった。
剣の攻撃はひらりと身を躱した少年の真横をすり抜けていく。
その瞬間、鎧は剣を手放し、その鋼鉄の両腕で少年の体を抱きとめた。怪力は少年の体を締め付け、離さない。体がへし折れるまで、抱擁は止まらない。
そうなってはじめて、カミーユはほっと溜息を吐いた。
彼女は五歳のときにかわいがっていた小型犬に噛まれてからというもの、生きているものが苦手だ。生き物はいつもいつも彼女の予測を裏切る。理解不能な予想もつかない行動をして翻弄し、その存在を危うくする。
虚勢を張り、他者の生命を脅かして従わせるのは、それ以外にこの未知なる存在に対処する方法を知らないからだ。彼女の行動原理の根底にはつねに他者への恐怖心があった。
彼女が心から落ち着けるのは、目の前でちょこまかと動き回る生命体が死に絶えるか、それとも死が確定したときのみだ。
「聞かせてちょうだい。あなた、誰なの? いったいどこからこの閉鎖された屋敷に入り込んだっていうの?」
死体になら、彼女は優しくなれた。いつものことだ。確実に殺せるとわかっている相手なら、優しく語りかけることができるのだ。
けれど鎧に捕えられ、今まさに全身の骨を割り砕かれようとしている少年は、カミーユに向けた視線をそらさなかった。それは死に行く者の目線ではない。
次の瞬間、銀の茨が生い茂り、全力で締め付けている鎧の両腕を内側からこじ開けていく。しかも銀の茨は鎧の両膝から生えて来ている。
まるで解けた毛糸玉のようだった。いま、鎧は自らの体を材料にされて縛られているのだ。
「う、ウソだ。カミーユの鎧は天の主様から頂いたもの……。こんなところに来るような田舎魔術師に壊せるワケない」
今や自由の身になった少年は怒りの滲んだ瞳でカミーユのことを見下ろしている。
その唇が呪いを吐くかのごとく蠢く。
「いったい僕を誰だと思ってるんだ?」
金色の剣から魔力が放たれる。
そこらじゅうに放置されていた銀食器やワゴン、ティーポットやその残骸が次々に芽吹き、鋭い棘を備えた茨となって生育し、猫たちを串刺しにして血祭にあげ、図書室を覆っていく。
そうなってからようやくカミーユは退路を確認するが、最早遅すぎた。
「そこを退け。僕は縞瑪瑙の館の主人どもと、それと尖晶クガイに用がある。それとも、君が晩餐の続きになってくれるの?」
交渉ではなかった。
そこにあるのはただの《暴力》だ。
ただただ、力の強いものが行動を決定することができる。
戦う手段を失ったカミーユの前に、控えていた修道女が進み出た。彼女は仮面の下からま暴虐の王の姿を見上げていた。
黄色く輝く魔女の瞳で。
そのときだった。薄暗いこの地下室を轟音と強い稲光が襲った。
稲光はてんで指向性というものを持たず、床を、壁を、天井をつんざき、出鱈目に暴れ狂う。書架やピアノやうずくまったままの鎧や、天井を破壊して、破片をそこらじゅうに撒き散らす。
燭台の火がカーテンに燃えうつり、炎が地獄を照らしだした。
雷を放っているのは、砕け散ったシャンデリアの破片に紛れていた小さな黄色いさざれ石だ。
「これは、鉱石魔術……!?」
比較的被害が少ない中二階方向に逃げながら、リリアンの体に宿った《彼》は闇に蠢く者を見ていた。
それはカミーユでも、あの修道女でもルニスでも、ましてやコチョウなんかでもない。
炎の中で必死にピアノのそばに向かうのは、見知らぬひとりの男だった。
男は青い上着を羽織っていた。
魔術学院の教官だけがまとうことの許されたあの上着だ。
彼は、コチョウが持ち込んだ白いトランクへと近づき、中から《遺骸》を奪う。
「待て……ミズメの遺体をどうするつもりだっ!」
リリアンの肉体は欄干から身を乗り出す。
火の粉が舞う中、男は二階を見上げて、はっと表情を強張らせる。洗練さとはかけ離れた四角く厳めしい顔つきに宿ったのは、困惑だけではない。
信じられない、という顔だった。
ここに、この女がいることが信じられない、という驚愕。
そしてわずかに混じったのは、後悔だろうか。
男はミズメの遺骸を大切そうに胸に抱きながら、懐から赤い石をひとつかみ取り出す。
リリアンはすぐさまその場から退避する。その直前、星条を宿した紅玉から幾筋もの熱線が放たれた。
激しい攻撃によって、図書室は崩壊する。
盛大な土埃をあげて、秘色屋敷は崩れ去っていく。
その攻撃が肉体に届くまえに、心はこの場所を離れた。




