28.風と熱
真夜中、クラウチは眠るジュリエッタを見下ろしていた。
静かな寝息を立てるジュリエッタの額に手を当てて魔力を解放する。
(私が作った夢に異常はない……)
夢の中を覗き見たクラウチは、ジュリエッタを騙すために植え付けた〝前世の記憶〟の夢が正常に作用していることを確認し腕を組んだ。
「ふむ。ただの偶然か……?」
夢を作ったはずのクラウチが知らない緑茶の淹れ方を知っていたジュリエッタ。
クラウチの把握していない不具合がジュリエッタの身に起きているのかもしれないと深層心理まで覗き見てみたが、ジュリエッタの無意識に異常はなかった。
相変わらずオルビアン公爵への愛と悲しみが広がっているだけだ。
穏やかに眠るジュリエッタを見下ろしながらクラウチが考えを巡らせていると、部屋の外に人の気配を感じた。
「はあ……。まったく、あの人は……」
ため息を吐いたクラウチは部屋の扉を開けて廊下にいた人物に声をかけた。
「眠れないのですか、王太子殿下」
今にも部屋に入ってこようとしていたらしいティボルトは、蝋燭の薄い明かりに照らされたクラウチの顔を見て眉間に皺を寄せた。
「なぜお前がジュリエッタの部屋にいる……っ!」
「なぜって、看病ですよ。ジュリエッタ様は数日前まで体調を崩されていたので経過観察中なのです。殿下こそなぜここに?」
「…………っ! なんだっていいだろう! ただ通り過ぎただけだっ! 邪魔ばかりしやがって……!」
クラウチの問いに大袈裟に怒り出したかと思うと、そのままドカドカと足音を響かせてティボルトは去っていった。
「油断も隙もないな……」
呆れたクラウチが室内に戻ると、ベッドの上のジュリエッタがもぞもぞと動き出した。
「ん……クラウチ先生?」
「ジュリエッタ様。起こしてしまいましたね」
クラウチがゆっくりと近寄ると、ジュリエッタは眠たそうに目を擦りながら身を起こす。
「………………あの、先生。ありがとうございます」
クラウチと目を合わせ、礼を口にするジュリエッタ。
「実はちょっとだけ、王太子殿下の距離感が怖くて……。とてもよくしていただいているのに、こんなことを思うのは申し訳ないのですが……。先生がこうしてそばにいてくださって心強いですわ」
「ジュリエッタ様……」
気丈に振る舞っているものの、ジュリエッタの手は震えていた。
こんな夜更けに王太子が部屋へ入り込もうとしていたことに気づいていたのだろう。
頭を掻いたクラウチは、投げやりに呟いた。
「……ここにお連れしたのは私ですからね。せめて私がおそばにいる間はお守りしますよ」
「先生にはご迷惑をおかけしてばかりですわね」
ジュリエッタは親しみを込めた視線をクラウチに向けて微笑んだ。
「ジュリエッタ! 今日は君に見せたいものがあるんだ。ついてきてくれ!」
奇妙な共同生活も数日目を迎えたある日、ティボルトはジュリエッタの予定など聞きもせず笑顔で手を差し出した。
とても断れるような立場でないジュリエッタは、クラウチを連れてティボルトのエスコートのもと屋敷を出る。
王太子の別荘なだけあって広い敷地を進むと、庭園の中に大きな噴水が見えてきた。
「あの、ここは?」
池と見紛うほどに広く深い噴水を見てジュリエッタの足が止まる。
「君のために特別に作らせたんだ」
ティボルトは得意げに胸を張るが、クラウチはすぐにジュリエッタの異変に気づいた。
「ジュリエッタ様、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ?」
しかし、顔を青くするジュリエッタのことは気にせずグイグイと手を引くティボルト。
「ほら、もっと近くに行こう。手も足も浸からせたらいい。その方が手っ取り早いだろうからな」
彼の言っていることがよく分からず、噴水に近づくほどジュリエッタは体をこわばらせた。
それでもお構いなしに手を引っ張るティボルトに、ジュリエッタは震える声で説明する。
「えっと……。王太子殿下。申し訳ないのですけれど、実は幼い頃に実家の池で溺れたことがあって……。私はこういった水辺が苦手なのです」
だから容赦してほしいと顔を真っ青にして立ち止まるジュリエッタに対し、ティボルトは終始笑顔のままだ。
そして次の瞬間、ティボルトの口から出た言葉はジュリエッタがまったく予想だにしていなかったものだった。
「ああ、そんなこともあったな」
「え……?」
「ちょうどあの時じゃないか。俺達が初めて出会ったのは」
懐かしい思い出を振り返るように楽しげなティボルト。
「あ、あの時とは……?」
心当たりがないジュリエッタは、不気味さを感じながらティボルトを見上げた。
「君がペルラー伯爵家の池で溺れた時さ。よほど苦しかったのだろうな。死に物狂いで熱の魔力を放出し周囲の水を蒸発させていた」
怯えるジュリエッタの手を強く掴み、ティボルトは噴水の方へとさらに引き寄せる。
「その時だ。俺の魔力で起こした風が、凄まじい威力を発揮したのは」
恍惚とした表情のティボルトは、人生で最良の日を思い起こすかのように口角を上げた。
「どんなに努力しても魔力量が乏しく、そよ風程度しか起こすことのできなかった俺が。生まれて初めて台風のような強力な風を引き起こし操ることができた。全ては君がいたからだ」
ジュリエッタを見つめるティボルトの目は仄暗く輝いており、ジュリエッタは無意識に恐怖を感じていた。
「……わ、私がですか?」
「そうだ。君の熱の魔力が引き起こした大量の水蒸気。あれこそが、風の魔力を最大限に引き上げる鍵だった。ただのそよ風が台風にまで発達するとは。本当に信じられなかった」
興奮気味に語るティボルトに引き摺られるまま、ジュリエッタは苦手な水辺へと近づいていく。
「あの時の俺はすごかっただろ? 氷の魔力なんぞ足元にも及ばない! あんなにも素晴らしい瞬間だったというのに、あの場にいたのは君だけで誰も俺の本当の力を知らないなんてどうかしてると思わないか?」
「私にはなんのことだか……っ」
震えて必死に抵抗しようとするジュリエッタの言葉に、ようやくティボルトは動きを止めた。
「なんだと? まさか、覚えていないのか?」
「…………溺れたショックで、当時の記憶がないのです」
ジュリエッタが答えたことは事実だった。
水辺への恐怖は残っているものの、ジュリエッタには溺れた前後の記憶がない。
誰といてどんな状況で自分が池に落ちたのか、少しも覚えていなかった。
「ああ、だからだったのか。必ず君を迎えに行くと言ったのに、君ときたらよりにもよってレアンドロ・オルビアンと婚約なんかして」
くつくつと笑うティボルトは、その目に憎しみを滾らせた。
「君を迎えにペルラー伯爵家へ行った際、あいつが……レアンドロが卑怯にも君を横取りしていったのを見てしまった時は本当にはらわたが煮えくり返ったよ」
「きゃっ……!」
グイッとジュリエッタの手を引っ張ったティボルトは、憎々しげにレアンドロへの悪態を吐く。
「昔からあいつは気に入らなかった。なにが氷の魔力だ。強大な魔力を持っているからと偉そうに。比べられて惨めになる俺の気持ちが分かるか? あいつさえいなければ……っ!」
そしてジュリエッタの怯えた顔に気づくと、優しく微笑んだ。
「あれからずっと君を取り戻す日を夢見ていた」
「…………ッ!」
とても正気とは思えない言動に、ジュリエッタの体が恐怖で固まる。
「君の魔力があれば俺はもう二度と馬鹿にされずに済むんだ。君こそ俺の運命の相手。あんな卑怯で姑息な男ではなく、君は俺のものになるべきだ」
「あ…………」
痛いほど強い力で背中を押されたジュリエッタは、噴水の目の前に来ていた。
「さあ、ジュリエッタ。この噴水の水を熱の魔力で蒸発させるんだ。そして俺のために大量の水蒸気を発生させてくれ」




