終章:「トロメア -Ptolomea-」
魂の抜けたルシアノの体は、まるで糸の切れた人形のように一人では立てなかった。何故、この結末が訪れたのか、フルーエティには理解しがたい。
本来であれば人の中で高貴な血を持つ男が、場末の闘技場で朽ちてゆこうとしていた。ただそれだけならば、気に留めることもなかった。所詮は人同士のことだ。悪魔であるフルーエティが気にすることではない。
ただ、その男、ルシアノは運命を呪うでもなく、諦めていた。自分の不遇を嘆かず、ただ一人の少年のために涙を流した。
だからか、ほんの気まぐれで手を差し伸べた。人に関わるのは御免だと、ずっと前に学んだつもりが――。
フルーエティはルシアノの体を王座に戻した。もう、自らの力では体を保てない。それでも、ここに座らせてやりたかった。当の本人がこの王座に少しも執着しなかったとしても。
そんなフルーエティの感傷を、背後でプトレマイアが嗤う。
「呆気ないものだ。せっかく契約を結んだというのに、一日と持たなかったな」
沸々と、怒りが湧く。プトレマイアは、日頃から憎々しく思っているフルーエティに打撃を与えるためだけにルシアノと契約したに過ぎないのだ。このフルーエティの怒りは、プトレマイアにとって心地よいものであるのかもしれない。
「フランチェスカに毒を与えて唆したのは、タナルサスではなく、お前だな? それから、俺の氷を溶かし、あの女を地上へ戻したのも」
タナルサスと同等の力を持つプトレマイアにもそれができた。タナルサスは、ルシアノの弟を使うことしか考えていなかった。フランチェスカの存在など気に留めていなかった節がある。おかしい、と気づいた時、プトレマイアはこうして現れたのだ。
プトレマイアならば、素直で自己犠牲を厭わぬフランチェスカに自死を選ばせることなど容易かっただろう。
「さて、どうだったか」
などと言って、プトレマイアは口の端を持ち上げる。そんな仕草のひとつひとつに喜色が浮かんでいた。
「ルシアノは、幼少期から家族を喪い、故郷を失い――そして出会って親しみを覚えた人間どもはルシアノを残して死んだ。ルシアノの心は、失い続けることに怯えていた。だから、フルーエティ、お前との契約を望んだんだ。悪魔であるお前ならば、少なくとも人間のルシアノよりは先に死なないからな。ただし――」
そこで言葉を切ると、プトレマイアはルシアノの亡骸を虫けらを見るような目つきで見遣った。
「お前がルシアノに力を貸していたのは、お前の気まぐれだ。ルシアノを王座に据えた以上、いつ去ったとしても不思議はない。ルシアノは、お前が去ることを恐れた。繋ぎ止めるためには契約が必要だと」
いつかは手を放す。それは最初から決めていたことだ。
だから、あえて契約はしなかった。
悪魔との契約がルシアノを破滅へと導く日が来ると、危惧した。いかに王といえど、悪魔との契約は人の世では罪なのだから。
フランチェスカにも可哀想なことをした。ルシアノがあれほどに彼女を求めるようになるとわかっていたならば、ピュルサーとも契約などさせなかった。
人よりも多くのことを見渡せたとしても、所詮はこの程度だ。未来を読み違える。
「しかし、お前の手にかかって死にたいとは、愚かな男だ」
クッ、とプトレマイアは嗤った。その途端にフルーエティの中で渦巻いていたものが決壊した。
「お前が言うな」
一度はルシアノを主に頂いたというのに、そこにはなんの情もない。最初から思い入れなどあるはずもなかった。
けれどそれは、悪魔としてごく普通の在り方だ。行きずりの人間に情を移し、手を貸したフルーエティの方がよほど狂っている。
「おや、怒っているのか」
プトレマイアにしては珍しく、弾むような声だった。フルーエティの怒りが心地よくて仕方がないのだろう。
この悪魔はいつもそうだ。タナルサスほど直接的ではなく、じわじわと周りから攻めてからめ捕ろうとする陰湿さがある。
どうしてもフルーエティとは馬が合わない。主従でもない悪魔同士が馴れ合うことなどないに等しいのだが、それでも互いが相反する。今、ここで雌雄を決するのも悪いことではないのかもしれない。
悪魔たちの気を受け、ザワ、ザワ、と大気の中の精霊が騒ぐ。
そこにフルーエティの配下の三将が到着した。皆、それぞれに負傷している。相手取っていたのは同格の悪魔なのだ。それも無理のないことである。
「フルーエティさ――」
耳の先が欠けたマルティが声を上げ、そうして黙った。
「プ、プトレマイア様!?」
この城に、あまりにも場違いな存在である。彼らが驚いたのも無理はない。
プトレマイアは鼻白んだ様子で三将を見ただけであった。
そして、リゴールは王座で息絶えたルシアノを見つけた。
「フルーエティ様、一体何が……」
その問いに、フルーエティはどう答えるべきかと考えた。その間に、フランチェスカを喪ってから人型を取ることのなかったピュルサーがようやく人型になった。まだ少年のような幼さを残す顔立ちが呆然と固まっている。
「ルシアノ……」
呼びかけるが、返事をするはずもない。
ピュルサーは、独り言のようにつぶやいた。
「チェスとアケローン川のほとりで約束したのに。ルシアノを護ってと頼まれたのに……」
死してもなお、あの心優しい娘はルシアノの身を案じていた。そのために自ら命を絶ったのだ。
そんな、ルシアノを思い遣る心に悪魔がつけ込んだ。
「……ルシアノは死を願っていた。自らに関わる者たちが次々と死んでゆく、それに耐えきれなくなっていた。惨たらしい現実を生き抜くには弱かったのだ」
フルーエティはそれを口に出しながらも、その弱さを承知で手を差し伸べたのだと思い起こす。
あれほどに多くの命を奪った男の魂が、安穏と死後の世界で過ごせるはずもない。魔界の奥深くに墜ちてゆくだろうけれど、それでも、もう失うものはない。
ルシアノの魂はそれに満足するだろうか。
アケローン川のほとりへは足を向けぬ。フルーエティはそれを決めた。
罪人を運ぶ舟から降りた魂に、再び現世の憂さを思い出させることはない。
フルーエティが手ずから貫き、命を奪った。それが今、フルーエティがルシアノのためにできる最大の慈悲であった。
「無責任な王の国は亡ぶ。これも致し方のないことだな」
プトレマイアの言葉に、フルーエティが薄暗い目を向けた、その時。
この場にタナルサスが現れた。赤く光芒を引く魔法円から現れたのは、タナルサス単身であった。
タナルサスもプトレマイアを見て唖然とした。
「うん? プトレマイアではないか。こうしてヴァルビュート様の配下である三柱が会するのはいつ以来であろうな」
まるで緊張感のない言葉に、フルーエティは苛立つ。
「タナルサス、プトレマイア、俺はお前たちにつき合わされるほど不愉快なことはない」
プトレマイアの顔から薄ら笑いが消えた。
タナルサスはフルーエティの怒気にゆとりを持って接する。
「ご機嫌斜めなようだ。……ん? そこの人間、死んでいるではないか。困った、セシリオ王子にやるつもりだったというのに。仕方がない、首だけもらうとしよう」
そのひと言がフルーエティの怒りの炎に油を注ぐ。
「……いい機会だ。徹底的にやり合って、二度と俺のすることにふざけた横槍を入れぬようにしてやろう」
三将でさえ、フルーエティの憤りにハッと息を呑んだ。しかし、二柱は嘲り笑うのみである。
「珍しいな、フルーエティ。そんなにその人間に肩入れしていたのか」
タナルサスが芝居がかった仕草で腕を振るう。
「よい機会とは、こちらの台詞だ。誰が上かを知らしめてやる」
プトレマイアの顔が憎悪に歪んだ。
「フフ、楽しめそうだ」
この時のタナルサスには、すでにセシリオ王子のことも念頭になかったのではないだろうか。
三柱の悪魔たちとその配下は、三つ巴の戦いを繰り広げた。
それは、人の時間にして気が遠くなるほどの長い歳月を要した。
配下たちの諍いを、主君ヴァルビュートは諫めることをしなかった。親が兄弟喧嘩を見守るようなもので、他愛のないじゃれ合いだと微笑んで眺めていたのだろうか。
ただ、上級悪魔たちの戦いに、脆弱な人の創り出した国が耐えきれるはずもない。城も町も、畑も木々もすべてがなぎ倒され、オディウム大陸は焦土と化した。
その戦いの凄惨さを、のちにその大戦に参戦していた悪魔を召喚した使い手が、悪魔より聞いたという。
そうして、魔術書に記されることとなる。
オディウム歴四百六十三年。
それは、ひとつの大陸を滅ぼす悪魔たちの戦いの幕開けであった、と――。
【 THE END 】
はい、またしても大陸が潰れました。
結論だけ言うと――他所でやれ、とそういうオチです、はい(-_-;)
プトレマイアとタナルサスも仲良くないので、お互いに、ついでに潰してやろうとは思ってます。
フルーエティにとってルーノは主ではありませんでしたが、人間でいうところの友人くらいには思っていたかと。
序章の「アンテノーラ」は祖国に対する裏切り者、終章の「トロメア」は賓客に対する裏切り者をさします。
長らくお付き合い頂き、ありがとうございました!




