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湯殿の入り口に置かれたかごの中に、体を拭くための白い綿布がかけられていた。どこまでも人間の暮らしに近いと少しおかしくなる。それを手に取ると、その下から折り畳まれた服が出てきた。体に綿布を巻きつけて服をつかみ取る。それはフルーエティたち悪魔が着ているようなものとは違った。
清潔な、ワインレッドのチュニックと黒いズボン。血が目立たない色だとルーノは苦笑した。水の滴る長い髪のせいでところどころを濡らしながらも、ルーノは与えられた服に袖を通した。貴族が着るほど上等なものではないが、今まで着ていたボロ布を思うとまともなものだ。
脱ぎ捨てたサンダルを履こうとしたところ、サンダルのあったはずの場所にそれはなく、なめし革のショートブーツが置かれていた。訊ねるのも面倒でそれを履いて廊下に出る。
すると、いつからそこで待っていたのか、先ほどの僕がいた。黄色の目でチロリとルーノを見る。ルーノも濡れて顔の前に垂れ下がった髪の間から見る。ルーノの方が少しばかり背が低いため、見上げる形だった。
「その髪も少し整えましょうか」
「……」
いつも適当に自分で切るか縛るかしてきた。見苦しいという自覚はある。
「こちらへ」
僕はルーノを、中庭に続くアーケードの下に連れていった。そこで踏み台代わりにでもしているような古い椅子に座らせ、ケープを肩にかける。
そのまましばらく待たされたかと思うと、僕は淡々とルーノの髪を切り始めた。手元が見えないので何を使っているのかわからないけれど、多分剃刀だろう。シャ、シャ、と小さな音を立てて髪が落ちていく。
なんのこだわりもない。ただ、この髪の色は父に似ていると思う。今は亡き父に。
「もう少し短くしても構いませんか?」
「好きにすればいい」
ただ落ちていく髪の束を見ながら答えた。頭が軽くなっていく。どうしてもっと早くに切ってしまわなかったのかと思うほどだ。
ルーノは、何故だかほんの少し笑いが込み上げた。
「アンタの主のこともこうして手入れするのか?」
整いすぎた風貌の悪魔だけれど、涼しい顔をした裏でこう身だしなみに気を遣っているのかと思うと可笑しくなる。
けれど、僕は多分にこりともしなかった。淡々とした声が返る。
「まさか。おいそれと触れられるお方ではございません。私共はこうして手入れをせねば見苦しいばかりですが」
フルーエティは人とは違う。まるで何も食わずとも生きてゆけるのではないかと思うほどに、ルーノの常識は当てはまらぬのだろう。
僕はルーノの肩に載った髪をサッと払い、そうしてケープを外した。自分の姿を見る鏡はないけれど、髪は襟足が少し長いくらいで、随分と短くなっていた。立ち上がり、手で触れてそれを確かめていると、いつの間にか壁際にフルーエティがいた。
「多少は見られるようになったな」
「そりゃどうも」
ルーノが可愛げのない返し方をしようと、フルーエティは関心がないらしい。僕は主にひざまずいていた。
「では、ついてこい」
フルーエティは歩き出す。ルーノは僕を残し、フルーエティの後に続いた。滑らかな青みがかった銀髪が揺れる。絹のようなこの髪ならば、伸ばしっぱなしでも見苦しくはないのかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えていると、フルーエティは部屋に入った。そこは黒と紫が基調の部屋で、ゆったりとした長椅子の間に机が置かれていて、応接間といったところのようだ。調度品などの模様も繊細で、悪魔は人と同じように美しいものを好むのかと不思議に思うほどだった。
「座れ」
本当に、客人として扱ってくれるつもりではあるらしい。けれど、敬意はない。亡国の王太子など、悪魔にとっては多少毛色の珍しい鼠くらいの価値しかないのだろう。
ルーノは言われるがままに腰を下ろした。
「で? 人間嫌いの悪魔サンがどうしてオレの世話を焼くんだ?」
皮肉交じりに言ってやった。すると、フルーエティははっきりとした嫌悪感を出した。
「人間嫌いはお前も同じだろう」
それを言われるとは思わなかった。ルーノの方が返答に困る。
しかし、両親は敵兵に、姉弟を自国の民に殺され、自身も腐りきった連中の玩具であった。それでも人に慈愛の心を残していられるほど、ルーノは聖人ではない。
人など弱く、醜いだけの生き物だ。自分も含めてそう思う。
「そう、人は弱く、狡い。下手な知能などがあるから、ただの虫よりも始末が悪くなる。お前の住む大陸もそうだ。だから、欲望が渦巻く大地を掃除してみれば、多少はマシになるだろう」
「掃除って……」
「お前は人の醜さを知っている。他の人間よりはな。だからお前に力を貸してやると言うのだ」
「オレは今さら王位になんて就きたいわけじゃねぇ」
もう、そうしたしがらみは要らない。
何も背負いたくない。何も、護りたくない。
ルーノには何も護れない。
すると、フルーエティはつぶやく。
「ならば、お前の両親の首を獲った者共がのうのうと、贅を尽くした生活を送っているのを是とするか?」
グッ、と喉が鳴った。
嫌なことを言う悪魔だ。
「彼の敵将はお前が幸せに過ごした王宮に我が物顔で後宮を拵えている。本来ならばお前が継ぐべきだった場でな。片やお前は最低の暮らしに追いやられた。悔しくはないのか?」
「お前はどうしてそう、オレを担ごうとする? そんなにも人の血が見たいなら勝手にやればいいじゃねぇか」
どれほどの血を浴びても、この悪魔は汚れもせずに、冴え冴えとした美しい顔でいるのではないかと、そんな姿を想像してゾッと身震いしたくなる。ルーノは、誰を殺しても楽しくはなかった。
フルーエティは、煮えきらないルーノに呆れた目を向ける。
「欲に塗れた人間が、高みから叩き落され、絶望しながら死ぬ。それはただ、瞬きをするほどの刹那に与えられる死よりも相応しい。一度奪った王座を、絶やしたはずの血族によって取り戻される、その屈辱を与えてやれるのはお前だけだからな」
ああ、とルーノは納得した。
本当にこの悪魔は心底人間が嫌いなのだと。
肉体を滅ぼすだけでは足らぬのだ。絶望を与え、その上で死ねと、そう渇望する。
この先、生きる目的のないルーノが、この悪魔の誘いに乗ったら、生き甲斐を何かに見出すだろうか。このまま魔界で朽ち果てた方が、大陸の人々のためかもしれない。
そう思ったら、不意におかしくなった。
ルーノが戦火を巻き起こしたところで、死んでほしくない人など誰もいない。誰が死のうと構わない。そうではないのか。
それならば、この悪魔の誘いに乗ってみるのも一興かもしれない。
いつ死んでも、どこで死んでも構わない命なのはルーノも同じなのだから。
「わかった。フルーエティ、オレに力を貸せ」
そう言うと、フルーエティは不快そうに顔を歪めた。
「人間風情が偉そうに指図するな」
貸してくださいと頼めとでも言うのか。自分から言い出したくせに、面倒なヤツだと思う。
「……まあいい、お前をあるべき場所へ戻してやろう」
フルーエティは宝石のような目を細め、そうして薄い唇を弓形に持ち上げた。
この決断を、のちにルーノは後悔する日が来るのだろうか――。




