*78
――フルーエティがルーノとの契約を拒んだ後、ルーノは寝室で一人頭を抱えていた。
底知れぬ不安と、絶望。
敵はセシリオ王子でもタナルサスでもない。
この世界だ。
ルーノを苦しめ続けるこの世界こそ、ルーノが戦うべきものである。
生きることは世界と戦うこと――。
そんな時、一筋の光が差し込むようにして、ルーノに穏やかな声がかかったのだった。
「ルシアノ陛下は力をお求めのようだ」
眼前に現れた黒衣。ゆったりとしたそれは僧衣のようにも見える。
「お前――」
ルーノはその者を知っていた。一度だけ会ったことがある。
あれは魔界だった。魔界でルーノに話しかけてきた悪魔だ。
肩口まである、緑にも茶色にも見えるまっすぐな髪。翠玉のような瞳が美しい。
悪魔はルーノを前にして微笑した。
「久しぶりだね。随分とお困りのようじゃないか」
こうして狭い空間にいると、あの時以上に存在を強く感じる。この悪魔は只者ではない。
「我が名はプトレマイア。六柱上級悪魔が一。ルシアノ陛下がお困りのようだから、力を貸しに来たのだよ」
六柱ということは、フルーエティとタナルサスと同格なのだ。
それを聞き、すんなりと納得できた自分を感じた。
「タナルサスのヤツをなんとかしてくれんのかよ?」
「お望みとあらば」
クク、と笑いながら答えた。
油断のならない相手かもしれない。初めて会った時にそれを感じた。
それなのに、ルーノは本心からプトレマイアを拒絶するつもりがなかった。今はすがれるものならばなんでも構わないとさえ思えたのだ。
プトレマイアはフルーエティと同格の上級悪魔なのだ。これほど強力な駒を手放すことはない。プトレマイアは柔らかに、長い指をした手を差し出す。
「陛下を我が主としようか。私ならば、フルーエティよりもあなたの望みに忠実でいる」
フルーエティよりも。
そうだろうか。果たして、それは――。
「いいだろう。お前との契約を望む」
ルーノはプトレマイアの手を取った。冷たい手であった。
闘技場から出る時、こうして同じようにフルーエティの手を取った。
あの時はこんな未来を予見することはなかった。
フルーエティの手を取った瞬間から、ルーノは狂い始めていたのかもしれない。
悪魔との契約は、ピュルサーとチェスの時に見ていた。それと同じであった。
ただ、思った以上に手の平が熱く、痛んだ。焼き鏝を当てられた家畜のような心境だった。
「確かに」
そう言って、プトレマイアは微笑んだ――。
フルーエティは、信じられぬものを見たような目をしてルーノを見た。常にそばにいて、心を読み尽くしたような相手だというのに、未知の生物に見えたのだろうか。
そんなフルーエティの驚愕を、ルーノは冷めた心で受け止めた。そうして、膝に置いていたフランベルクを手に、王座から立ち上がる。フルーエティの前に立った。
「……ルシアノ、お前はどこまでも愚かだな」
フルーエティが呆れるのも無理はない。そんなことはルーノが一番よく知っている。
「ああ。オレは王になんぞ向いちゃいなかった。あの闘技場から出なけりゃよかったのかもな」
「……お前は後悔しているのか」
プトレマイアと契約したルーノの心は、最早フルーエティにも読み取ることはできぬのだろう。そんなことを問うてきた。
ルーノは薄く笑った。
「後悔だらけだ。オレが手に入れたものはなんだ? 何もねぇだろうが」
そう言って、一気にフランベルクを抜いた。鞘を放り投げたのは、この刃を二度と鞘に納めることがないからだ。プトレマイアはそんなルーノの様子をただ見守っている。
「ルシアノ」
フルーエティの声が厳しくルーノを呼ぶ。ルーノはそんなフルーエティに剣を向けた。
「お前はいつも、オレの願いを叶えてくれない。心を読むお前なら、知っていたはずだ」
ヒュッと音を立て、フランベルクが空気を斬る。フルーエティはルーノの繰り出す剣を軽く躱していた。
ルーノがフルーエティに適うはずなどない。そんなことはわかっている。わかっているからこそ剣を向けるのだ。
フルーエティの顔が嫌悪に歪むことはなく、ただ、妙に苦しげに見えた。
「お前はヒトだ。悪魔に馴染まずヒトとして生きてゆけ」
人との関りが、今のルーノにとって何よりの苦痛であるというのに。
フランベルクの刀身を、フルーエティが片手で止めた。キィン、と金属とぶつかり合ったような音が響く。
ルーノは、フルーエティの方に体を傾け、そして呻いた。
「手遅れだ。お前が責任を取れ」
それこそが、ルーノの最後の望みである。
フルーエティはそれをどんな思いで聞いたのだろうか。いつも表情に乏しい悪魔だから、その心まではルーノには伝わらない。
ただ、こんな状況だというのに目を伏せた。
「……手のかかるヤツだ」
それをつぶやいたフルーエティには、悪魔らしからぬ情があったのかもしれない。そうでなければ、もっと楽しげにルーノの胸を貫いていたのではないだろうか。
フルーエティが作り出した氷の刃が、ルーノの胸元を抉る。痛みと同じほどの安らぎをルーノが感じたと、フルーエティは繋がる刃から感じることができただろうか。
ゴフ、と血を吐いて崩れるルーノの体を、フルーエティが支えた。
「ルシアノ、これでいいのだろう?」
その問いに、ルーノは答えることができなかった。
けれど、これでいいのだと消えゆく意識の中で思った。
フルーエティはやはり甘い。
ただの人間に過ぎぬルーノを、その血で穢れるのも厭わずに抱えている。
ルーノは、フルーエティと初めて会ったあの時を思い起こす。
青みがかった銀髪に、紫色の瞳をした、美しい悪魔。
その凛とした品格を、パトリシオのような愚物が踏みにじろうとした。
しかし、パトリシオの魔法円でフルーエティを縛ることはできず、契約は成らなかった。
当然だ。パトリシオはフルーエティに相応しい主になり得ない。
ルーノは、契約が失敗に終わり安堵した。
そうして、同時に思ったのだ。あの美しい悪魔をルーノ自身が従えることはできぬだろうかと。
その思いをずっと、持ち続けていた。
けれど、フルーエティは契約を望まない。かつての主ほどの存在として、フルーエティがルーノを尊ぶことはない。
ルーノが死んだところで、フルーエティにとってたいした打撃にはならないかもしれない。
ルフィノが死んだ時のタナルサスほどの反応しか見せないとしても、それでも、フルーエティがフルーエティとして存在する、気の遠くなるような永い時の中、愚かなヒトがいたものだと思い出すのならいいと、ルーノは願った。
ルーノが最期に見たフルーエティの表情から、少しばかりの爪痕は残せたのかと、思いたい――。




