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フルーエティの力をもってすれば、ルーノは瞬時に城の中だ。
それはタナルサスも同じで、戦略など意味のないものにしてくれる。悪魔たちはつくづく厄介だ。
そのフルーエティは姿こそ見えないものの、近くにはいるのだろう。ルーノが階段を上ると、ヒスペルトがルーノを見つけて目を瞬かせた。
挙兵したルーノが城にいることに、ヒスペルトが驚いたのも無理はない。
「へ、陛下っ! いつお戻りに……」
「王都が攻められていると気づいて、慌てて引き返した」
どのようにして、とそこだけは語らない。
ヒスペルトは文官である。戦の気を間近で受けることはあまりない。殺気立ったルーノを前に喉を鳴らして唾を飲み込むと、手短に言った。
「陛下がご無事で何よりです。今、兵士たちは城下へと向かいました。しかし、どこまで耐えられるでしょうか……」
ルーノが出陣したというのに、セシリオ王子が王都を攻めに来たのだ。ルーノが破れ、先陣を突破されたと考えたはずだ。ヒスペルトは安堵しているようでもあった。
「……ビクトルも共に戻った。彼に相談してくる」
「はっ」
部屋へ戻ってすぐ、ルーノは思念でフルーエティを呼んだ。フルーエティならばこれでわかる。
汚れることも気にせず、ルーノは血のついた体でベッドに腰かけた。そこに悪魔の姿をしたままのフルーエティが現れる。
フルーエティはタナルサスと激しく戦っていたはずが、少しの汚れも傷もない。いつもの涼しげな姿のままだ。
「城下を突破されるのは時間の問題だ。魔界からもう少し俺の配下を喚び出すしかないな」
城下の見えるところに行っていたのだろう。フルーエティはそんなことを言った。
そんなフルーエティに向け、ルーノは手を差し出す。
「なあ、フルーエティ。オレと契約してくれ」
フルーエティの目が見開かれた。
かと思えば、それがスッと細められる。
「血迷っている場合か? フランチェスカが何故死なねばならなかったのか、よく考えろ。ヒトを統べるヒトの国王が悪魔の契約者でどうする。なんのためにここまで契約しなかったのか考えろ」
考えろとフルーエティは言う。しかし、ルーノは考えた末にこれを口にした。
フルーエティはいずれ、ルーノのもとを去る日が来る。契約をすれば、いついかなる時もルーノのために共に戦ってくれるのではないのか。
ピュルサーがチェスに向けたような情を持って接してくれるのではないのか。
城の書庫をいくら探しても、悪魔と契約する方法は探せなかった。
強制的に従わせる手段がわからないのなら、頼んでみるよりないのだ。これを口に出したルーノがどれほど追い込まれているのかなど、フルーエティにとって大した問題ではないということか。
「……お前は、オレがお前の主として相応しい器じゃないって言いたいのか?」
差し出した空の手を握り締める。フルーエティはそんなルーノの手を見ていた。
いつかとは逆だ。ルーノは差し出されたフルーエティの手を取ったのだから。
フルーエティは、そんなことはもう忘れただろうか。
「そういうことを言っているわけではない。お前はこの国の王だ。それを忘れるな」
一体、なんのために王になったのだ。この身に流れる血が、逃れられぬ呪いのようにしてルーノを王座へ導いたのか。
ルーノにはわかる。ルーノがこのティエラ王国最後の王となるだろうことが。
「王だから言うんだ。力が欲しい。お前は昔、人と契約していたんだろ? だったらできないことはないはずだ」
それを言うと、フルーエティは眉間に皺を刻んだ。
「それは昔の話だ」
「なんだ、昔の主への義理立てか? たいした忠義だな」
そんな皮肉が口を衝いて出る。フルーエティは嘆息すると、冷めた目をした。
「ルシアノ、少し頭を冷やせ」
そう言って、フルーエティはルーノの寝室から消えた。その途端、ルーノは孤独の只中に落ちた。
誰もいない。
皆、死んでいく。
この手には何も残っていない。
ルーノは、チェスに生き写しであったという、フルーエティのかつての主に妬心を覚えていた。
それほどまでに強く、フルーエティの中に刻み込まれている存在を羨ましく思う。
フルーエティにとって、ルーノはどの程度の存在なのだろうか。そのかつての主の半分ほどの重みもない、ただの人間に過ぎぬのだろうか。
苦しい。
もう嫌だ。
誰でもいい。誰か、助けて――。
それがルーノの心からの叫びであった。
その声に答える者がいるはずもなかった。
ところが、救いの声は現れたのである。
セシリオ王子にタナルサスの軍勢も参加したのだろう。王都を侵略する勢いは、かつてルーノたちが攻めた時以上に早かった。あと数刻でルーノの座す王座まで辿り着くはずだ。
それでも、ルーノはすでに落ち着きを取り戻していた。悠然と王座に座り、目を伏せる。
そんなルーノのそばにフルーエティが現れた。
「ルシアノ、そろそろ動け。手を打たねばこの城は再び落ちるぞ」
フルーエティが厳しい言葉を投げかける。しかし、その声が以前ほどにはルーノに響かなかった。
フルーエティはルーノとの契約を拒んだ。
その程度の価値しかないのだ。ルーノはフルーエティにとって、主に頂くほどの人間ではない。
最初からそうだったのだ。それを、ルーノが勘違いした。
常に寄り添い、共に戦ってくれたから、自分は特別であるような気になった。
急に手を振り払われたからといって、裏切られたような気持ちになること自体が勝手なことかもしれない。
それでも、ルーノはフルーエティとの契約を望んだのだ。その気持ちが、行き場を失くして砕け散った。
そうして、その心を救ってくれたのは、フルーエティではない。別の存在だ。
ルーノはフルーエティに向け、薄く笑った。
「攻めてくるのなら、この城でセシリオ王子の首をもらい受ける。だからオレはここで待つ」
「ルシアノ、お前は――」
フルーエティの言葉の先を遮ったのは、ルーノではない。突如現れた黒衣の悪魔である。
「フルーエティ、ここからは私が引き受ける。お前は下がれ」
冷たく、それでいて優越感を滲ませた声だった。フルーエティの顔が驚愕に満ちる。
「プトレマイア……!」
プトレマイアは肩口にかかる髪を揺らし、微笑んだ。その仕草は悪魔とも思えぬ優しげなものであった。
そうして、プトレマイアは僧衣に似た服を開き、滑らかな白い肌の胸元をさらす。そこには契約の印が刻まれていた。
「ルシアノ・ルシアンテス陛下は我が主だ。私がお護りするのは当然だろう」
ルーノは契約の印が現れている手をグッと握り締め、フルーエティに憎しみにも似た感情を向けた。
「お前が断ったからだ。プトレマイアはオレの命がある限り、オレのために戦う」
「ルシアノ!」
これはフルーエティへの裏切りだろうか。先に裏切ったのはどちらなのか。
そんなことはもう、ルーノにはわからなかった。




