*76
タナルサスの軍勢には、明らかにその他とは違う悪魔が数体混ざっていた。あれが向こうの将なのではないだろうか。
ほっそりとした体形で、弓矢を手にした、まるで狩人のような男。
それから、悪魔どころか物語に出てくる天使のように儚げな、膝の辺りまである長い金髪を編んだ美青年。
彼らとは対照的に、肌の色は黒く、頭に牛のような角を生やした大男。
あの三体の相手ができるのは、こちらもフルーエティと三将だけかもしれない。
「やっとこの間の続きができるな」
マルティが目を爛々と光らせてつぶやいていた。
ピュルサーも低く唸っている。リゴールは無言のまま向こうの軍勢を見遣った。
「僕はラージェとやる。お前らは好きにしろよ」
「……私はモラキュスを相手取るとしよう」
二人の視線の先を結ぶと、ラージェが狩人、モラキュスが雄牛のようだ。
「じゃあ、ファレフォルはピュルサーな」
勝手にマルティが決めた。ピュルサーは唸るだけだった。喋らないので、納得しているのかどうかはわからない。
「あんなナヨナヨしたヤツと獅子のピュルサーか」
美しいだけで戦えそうもない。一瞬で勝負がつきそうに思う。
けれど、そう甘いものではないらしい。マルティがアハハと笑った。
「ファレフォルは変態するとすんごい笑える姿になるんだって。劣等感でもあるのか、人型の時は悪魔のくせにあんなのになる」
「劣等感というより、天使のように優美な姿はヒトを騙しやすいからだろう」
リゴールはマルティとの会話につき合いつつも、視線は敵から外さない。
フルーエティはそんな三将に向け、言った。
「タナルサスのことだから、何を仕込んでいるかわからん。不利だと感じたら引け」
しかし、三将にも矜持がある。素直に引くことはなさそうだ。
フルーエティがそんなことを言うとは意外だった。それほどまでに彼らは手強いというのだろうか。
三将は渋々返事をした。
そうして、フルーエティはルーノに視線を向けた。
「ルシアノ、お前が弟と対峙する必要はない。タナルサスの力が弱まれば、あの子供にはそれほどの力はない。俺がタナルサスを退けるまで、お前は死なずにいろ」
もしかすると、フルーエティは傷だらけの心を抱えたルーノを気遣ってくれているのだろうか。これ以上の痛みを抱えないようにと――。
そんな優しさが悪魔にあるのか。
悪魔だからというのも違う。これはフルーエティの特性であるのかもしれない。
けれど、その心配は杞憂だ。
「なあ、あいつが本当にオレの弟だとしても、オレはあいつと一緒に過ごした時間がほぼない。愛着もない。他人と一緒だ」
レジェスやチェスと同じように大事なわけではない。むしろ、敵陣にいるのなら敵だ。
「……それならばいいが」
強がりでないことは、フルーエティならばすぐに読み取れるはずだ。
ルーノが弟の存在に衝撃を受けなかったことは、タナルサスにとってどの程度の誤算だろうか。チェスを追い詰めたことにしろ、謀を得意とするようだが、今のルーノには最早、大事なものなどない。
国も民も、ルーノにとっては捨てられないものではなくなった。
「作戦会議は終わったかい?」
タナルサスが堂々と声をかけてくる。フルーエティは嘆息した。
ただ、紫色の瞳は力強く輝いている。そこには静かな怒りが感じられた。
「俺の邪魔をしたことを後悔させてやろう」
「そうか、やるなら本気を出さねばな」
タナルサスが唇を舐め、そして剣を構えるルフィノの肩を抱きながら告げた。
「さあ、待ちに待った開戦だ!」
オオオッ、と地響きのような喊声が上がった。ルーノは怯えて暴れそうになる馬を落ち着けながら一旦下がった。そこで目にしたものは、悪魔対悪魔の壮絶な戦いであった。
狩人の姿をしたラージェは、目にも留まらぬ早業で矢を放つ。それをマルティの炎が絡めとり灰にする。
ただ、あまりに数が多く、マルティが打ち漏らした流れ矢に運悪く当たった悪魔の体は、そこから肉が変色していった。悪魔ならば回復できるのかはわからないが、矢に当たった辺りが壊死しているのではないだろうか。
マルティは並外れた素早さで躱し、炎で責め立てるが、いつもほど楽しげではない。やっとのことで相手をしているのだ。
リゴールは騎馬を諦めた様子で、地に足をつけて戦っていた。あの巨躯の悪魔が相手では馬も竦んで動けないのだろう。勇猛な飛竜のライムントがいればまた違ったのか。
もしかすると、こう狭い場所で犇めき合う戦いにライムントも活躍は難しいのかもしれない。
それでもリゴールは、長槍を巧みに操り、モラキュスと渡り合う。しかし、ひと振りで屈強な武将の首を落とすリゴールの槍も、モラキュスには大した打撃を与えられずにいるようだ。
手数は多いものの、モラキュスの体は鋼鉄のようだ。痛みも感じていないのか、ただうるさい蠅を追い払うような仕草をしながらリゴールと相対している。
ピュルサーは、鋭い爪でファレフォルの黒いローブを引き裂く。ファレフォルは浮遊できるらしく、飛び上ってピュルサーから逃れた。浮き上がった際、ローブの下から見えた脚が鳥のようであった。それが美貌に似つかわしくなく、不気味である。
ファレフォルは憤怒の形相で、魔術なのか風を起こし、ピュルサーを巻き込もうとするものの、ピュルサーは駆け回り、近くで戦う悪魔たちの方が被害に遭っていた。
力と力のぶつかり合いがそこかしこで行われている。人の戦いとは明らかに違う。
フルーエティとタナルサスはというと、フルーエティが炎と氷とを折り重ねるようにして繰り出す魔術に対し、タナルサスは鏡面に似た光を操っている。
その光は盾であり、剣であり、変幻自在にタナルサスが形を変える。光がフルーエティの氷を弾いたかと思えば、光が炎を斬る。光がタナルサスの姿を隠し、照準を合わせにくくする。タナルサスがまるで幻のように見えた。
とはいえ、フルーエティのことだ。別段慌てた様子もない。タナルサスの性質は知っているのだから、考えながら戦っているのだろう。
そんなことよりも、ルーノは悪魔たちの戦いに巻き込まれないようにしなくてはならない。
――いいや、死んだからといってどうなのだ。そこまで命に執着する意味はあるのだろうか。
そんなふうにも思う。チェスのいない毎日をこれからずっと過ごすだけなのだ。
タナルサスがチェスの死を招いたのだから、仇は取りたい。それよりも先に、そのタナルサスたちの手によって死ぬのは御免だと、やはりそこだけは思い直した。
「兄上、兄上はフルーエティと契約を交わしてはおられぬのでしょう? でしたら、いつ裏切られても仕方がありませんね。六柱上級悪魔を従えるのは並大抵のことではございませんから」
ルフィノが幼い顔に似合わぬ嘲笑を貼りつけてルーノの前に立つ。その顔はルーノと似ているとは言えなかった。共通点があるとすれば、母親譲りの瞳の色だろうか。ルフィノは母に似ている。
「その六柱上級悪魔、タナルサスを従えたお前は出来の悪い兄貴なんぞより王に相応しいとでもいうのか?」
吐き捨てると、ルーノは背中の剣の柄に手をやった。ルフィノは目を細める。
「私も従えてなどおりませんよ。私は所詮、タナルサスに飼われた人間というところでしょうか。どちらが主だかわかりません。私は、タナルサスの望むままに動くのみです」
死の運命からすくい上げられ、生かされたルフィノにとって、タナルサスの意向がすべてらしい。そうなるように仕向けられたのなら、それも仕方がないだろう。今のルフィノにとって、ルーノよりもタナルサスの方が肉親に近いのだ。
「そうか。タナルサスはオレの敵だから、お前も敵だな」
一気にフランベルクを引き抜く。馬上から降りるかと考えたが、ルフィノはそれほど手強い相手ではないように感じられた。まだ子供である。
タナルサスがそれをルーノにぶつけるのは、そうすることでルーノを苦しめられると思うからだ。
――しかし、タナルサスは愚を犯した。
チェスが生きていれば、ルフィノの存在に動揺し、悩み、もがいただろう。
けれど、最愛の彼女を喪った。あれほどの悲しみはもうない。あの時、心の大部分が壊死したのだ。
それに比べれば、血が繋がっただけでなんの思い入れもない弟など他人と同じ。屠るのに躊躇いもなかった。
むしろ、そのチェスを死に追いやったタナルサスと繋がった弟など、憎しみの対象でしかない。
フランベルクの刃がルフィノの柔らかい肉に食い込む。肩から、魔界の剣がルフィノを裂く。
最期に見せた表情だけがルーノの感情に、僅かながらにもさざ波を起こさせた。ルーノを庇って死んだ姉が思い出された。姉とルフィノが一番似ていたのだと、血に濡れた剣を握りながら思った。
この時になって初めて、ルーノはルフィノに憐みを感じたのかもしれない。
悪魔に弄ばれた可哀想な子供は、ルーノよりもよほど悲惨な時間を生きたのではないかと。その可哀想な弟を、ルーノが殺したのだ。
ルフィノは、生きたかっただろうか。それとも、死に安らぎを感じただろうか。
淡々としていて感情が読めず、それすらわからなかった。
その時、タナルサスの声がルーノのすぐ間近から発せられた。
「おやおや、無慈悲な人間だ。悪魔より悪魔らしいのではないかな? まあよい。君たちがここで遊んでいるうちに王都は面白いことになっているぞ」
しかし、そんなタナルサスをフルーエティの猛火が退ける。タナルサスは軽く舌打ちをし、姿を消した。そう見えるだけでどこかに潜んではいるのだろう。
「ルシアノ、王都を攻めているのはセシリオ王子の軍勢だ。タナルサスが魔法円で王都の手前で降ろしたようだ。こちらも戻るぞ」
王都にいるティエラ軍は今、新兵ばかりである。セシリオ王子が率いる兵が人兵ばかりだとしても耐えきることはできないだろう。
「……わかった」
フルーエティはルーノのそばに魔法円を描いた。三将たちはまだそれぞれに戦っている。さすがに同格の悪魔たちが相手では、彼らも今までのようにはいかない。汚れ、傷ついている。リゴールの腕からは不思議な、青い液体が流れていた。あれが血なのかもしれない。
「あいつらはもうしばらく耐えられる」
ここへ残していくようだ。ルーノがしなくてはならないのは、彼らの心配ではなく、王都の、自らが統べる民の心配である。
ルーノはフルーエティと共に王城へと戻った。




